【短編小説】Tortilla de patata―騎士と騎士見習い―
1 騎士見習いと城
クルスの父は騎士だった。
祖父も、曾祖父も、曾々祖父も騎士だった。
彼らの活躍の歴史を聞いて育ったクルスは当然のように、自分も将来は騎士になるものだと思っていた。
だから次の誕生日で十二歳になる夏、クルスは伯父アンドレスが城主のソロルサノ城で騎士見習いの小姓として修行していた。
ソロルサノ城は、青い屋根の天守をぶ厚い防壁で囲んだ広大な城で、さらに水の張られた堀を備えていた。
防壁では兵士が物見のための塔とのこぎり状の壁によって守られた歩廊で見張りに立ち、中庭では使用人や家畜が忙しく行きかい鍛冶屋や陶工などの職人が仕事場を構えている。その大勢の人々が暮らし生きていくだけの広さを、ソロルサノ城は持っていた。
クルスは防壁の内部に設けられた部屋のうちの一つで、他の小姓ともに寝泊りした。
与えられた部屋は狭く小さかったが、ソロルサノ城全体は生まれ育った故郷の城よりもずっと立派で大きくて、クルスは城内を歩くたびにわくわくした気分になった。自分は小姓として城で働くことであこがれの騎士に近づいているのだと、疑うことなく信じていた。
ちょうど今年の初夏のころ、ソロルサノ城は隣国デラロサの軍勢に攻撃された。
数に勝るデラロサ軍に囲まれたことにより、ソロルサノ城では籠城戦が始まった。戦況の見通しは悪く、城の反撃も敗北が続いている。
しかしデラロサとの戦争は突然の思いもよらない出来事であったが、戦火はクルスの気持ちを常にくじけさせるものではなかった。
むしろ戦乱の中で騎士の活躍を身近に感じ、クルスはより強く将来の夢を思い描いた。
2 籠城戦の日々
まぶしい日差しが濃い影を作る、夏の終わりの朝。
クルスは従兄弟のアリリオと一緒に、階段の踊り場で壁にもたれて涼んでいた。
アリリオの方が歳は一つ上だがどちらも小姓として城にいるため、二人は赤地の上着に灰色のタイツという同じ服装で立っている。
熱っぽい調子で声を弾ませて、アリリオは隣のクルスに語りかけた。
「昨日のデラロサの攻撃、やばかったらしいな」
「ああ、新しい兵器が使われたんだっけ」
早くも汗ばんできた黒い巻き毛をかき上げ、クルスは興味津々で戦争の話題に乗る。アリリオにとってもクルスにとっても、目の前で起きてる戦闘は危険だが心惹かれる祭事のようなものだった。
アリリオはクルスが口にした「新しい兵器」という単語に鼻の穴をふくらませて、自慢げに年少の従兄弟を見下ろした。
「槍投げ機ってやつのことだろ。俺、それで飛んできた槍の穂先持ってる」
そう言ってアリリオは隠し持っていた布の包みを広げて、中身をクルスに見せびらかした。
アリリオの掌にのっていたのは、金属製の大きな槍の穂先である。多少変形してしまっているものの鋭さは残っており、それは布の上で鈍い輝きを放っていた。
実物として見せられた敵の新兵器の一部に、クルスは思わず息をのむ。
槍投げ機というのは、巨大な槍を敵に向かって発射する攻城戦用の機械のことであると、かつて本で読んだことがあった。
「うわ、でっかいな。どこで手に入れたんだ?」
「治療院の手伝いしてた時にもらった。こんなん当たったら痛いじゃすまないよな」
「確かに、これじゃ鎧着てても駄目かもしれない」
入手手段についてクルスが尋ねると、アリリオはまた自慢するように答えた。
クルスやアリリオはまだ見習いであるため戦場に出ることはないが、城の中で武具の整備などの雑用を頼まれることはあった。どうやらアリリオは雑務をこなす中で、ちょっとしたお宝に出会えたらしい。
治療院にあったということはこれはもう誰かの命を奪ったのだろうかと思いをはせて、クルスはしみじみと穂先を見つめた。長い柄のついた槍として空を飛んでくる想像が、脳裏にありありと思い浮かぶ。
アリリオは大事そうに穂先の縁を指で撫でて、訳知り顔でつぶやいた。
「こういうのに比べるとうちの軍は反撃もぱっとしないし、もうずっとやられっぱなしだ」
敵は敵であり、当然憎む気持ちが一番にある。
だが自分たちの城にはない攻城戦のための巨大な仕掛けを用意されると恐怖よりも先に憧れを感じてしまうところが、戦場を知らない二人にはあった。
クルスはアリリオの態度に共感した。しかし一方で、クルスは自分たちはあまりにも敵について良く語りすぎてしまったと反省もした。
(確かに敵の兵器は大きくて格好良い。でも、こっちだってこれから巻き返していくはずだ)
一生懸命に自軍の良い話を探し、クルスは何とかアリリオとは異なる意見を言った。
「俺たちの城だって、補給路を開くための奇襲作戦の準備があるって聞いたよ」
「へえ、いつ? 誰が指揮するんだ?」
クルスが耳に挟んだうろ覚えの噂を話すと、初耳だったらしいアリリオが矢継ぎ早に質問を重ねる。
「詳しいことはわからないけど……。でも決行の日は近いはずだって」
半分くらいは願いごとに近い形で、クルスは答えた。
敵の包囲により補給が断たれたせいで一日に食べれる量は厳しく制限され、クルスは今日も朝からお腹をすかせている。
そのため誰かが包囲網を破って食料を運んできてくれることを、クルスは強く待ち望んでいた。
そうやって二人が戦争についてあれこれ語っていると、甲高い老人の声が下の階から響いた。
「アリリオ! クルス! もう語学の時間だ。早く部屋に入りたまえ!」
うんざりした気持ちで下の階段を覗くと、城の子供たちの教師でもある年老いた司祭が二人を見上げにらみつけている。
「はい。わかりました、司祭様」
クルスとアリリオは返事だけは立派に返し、嫌々階段を降りて礼拝堂に接した教室の中に入った。
すでに座って本を開いている他の子供たちは、怒鳴られながら席に着く二人と目を合わせては笑っていた。
戦乱によって城の生活のすべてが変わってしまったというわけではなく、そのまま続いている日常も多い。司祭による少年たちの教育もそのうちの一つで、クルスは午前中は語学や数学を学ばなければならなかった。
午後になれば中庭で剣や弓の稽古をすることが許されており、クルスにはそちらの方が勉強よりもよっぽど楽しみだった。敵に包囲されて城の外で乗馬や狩りをするのが難しい今、武器にふれられる時間は貴重だ。
(もしも俺がもう大人だったなら、こんな古くさい言葉を学んでるひまに戦場で戦えたのに。ご先祖様の騎士物語みたいにさ)
クルスは古い外国語の講義を始める司祭の声を聞き流し、窓の外の青空を見た。
元々勉強は苦手だったが、すぐそこで戦争が始まってからは余計に退屈さが増した気がする。
クルスは幼いころから読み聞かされてきた名誉に生きて死ぬ騎士たちの物語の主人公に自分がなる空想を何度もして、夢が現実になる日に備えた。
国の危機を救い褒美をもらう騎士に、王を守るために死んで褒め称えられる騎士。
クルスはいつか自分がなりたい、様々な騎士の姿を思い描く。
そんな未来のことを考えている間は、空腹も少しは忘れていられる気がしていた。
3 広間での昼食
司祭の講義が終わると、広間での昼食の時間になった。
小姓は食事の際には貴人たちの給仕をつとめ、貴族としてのふるまいや礼儀作法を学ぶ。
今日のクルスは、城主アンドレスの奥方である伯母ペルリタに給仕をする当番であった。
立派なタペストリーや旗がいくつも飾られた広間は、食事の時間には人でいっぱいになる。伯父アンドレスや伯母ペルリタは部屋の前の方の一段高くなっているところに座り、臣下の身分ある騎士たちはその両側に縦に並んで食事をとる。
それらの机の間を歩く小姓や召使いは、細かな規則に従って食事を運び切り分けた。
(今日の献立はパンとインゲン豆のスープか。ソーセージも一応入ってるみたいだけど、量が少ないな……)
クルスは給仕として皿を机に置きながら、食事の内容をじっくりと見た。
普通は身分によって違う献立は、籠城戦が始まってからはほとんど差がなくなっている。客人が来た際には羽で飾り付けられた豪勢なクジャク料理が載ることもあった食卓にも、今は薄切りの白パンと汁ばかりの具が少ないスープという質素な品しか並ばない。
城主の伯父は物足りなさそうな顔を隠しきれないまま、中央の席でパンをちぎっていた。
しかし隣に座る伯母ペルリタは、粗食を前にしてもご馳走のときと変わらない重々しい態度で、ゆっくりと時間をかけて食べていた。
伯父よりもさらに名家に生まれた伯母は、誰よりも気位が高いのだ。
「今日のスープは、塩がひかえめで飲みやすいわね」
伯母は優雅にスプーンでスープを口に運んで、味を褒めた。
クルスはただ単にソーセージから出る塩気が足りないだけだろうと思ったが、どんなときでも貴族らしくふるまう伯母は立派なのかもしれないと感心もした。
かつては国でも指折りの美人だと言われていただけあって、白い布で髪をまとめた伯母の横顔は自分の母親より年上でもときどきは美しく見えた。
給仕の仕事を無事に終えると、クルスは広間の隅の召使い用の机で自分の分を食べた。伯父の給仕をしていたアリリオは、もう食べ終わったのか姿は見えなかった。
(お昼のパンは、これ一切れ……)
クルスはぺらぺらに切り分けられたパンをちぎり、薄味のスープにひたしながら噛みしめた。
しかしなるべく味わって食べたつもりでも、量が少ないのですぐに食べ終わってしまい、お腹いっぱいになることはできない。
(これだけじゃ、絶対に足りるわけがないよ)
クルスは心の中で文句をつぶやいて、スプーンを置いた。戦争に勝つために必要なことであるとはわかっていても、それでもやはり不満はわき上がる。
籠城戦が始まって面白く感じることもたくさんあるが、食事の少なさだけはクルスも我慢できなかった。
4 厨房のおつかい
(中身はまったくの空なのに、鍋って重いんだよなあ)
小姓は給仕だけでなく、後片付けもする。食べ終えたのが遅かったクルスは、人が少なくなった広間からスープの配膳に使われた鉄の鍋を運んでいた。
鉄の鍋の強烈な重さは、何度持ってもなかなか慣れない。
よろよろと廊下を歩き厨房に辿りついたクルスは、中に入って声をかけた。
「すみません。鍋を返しに来ました」
大きな炉と石窯がある厨房は、広くて天井が高いのに煙たかった。
作業台には夕食の食材がもう用意されているが、今は食後の休憩時間といった雰囲気で働いている人もくつろいでいる。
クルスの呼びかけにその内の一人が反応して、立ち上がり歩いてきた。
やや肥満気味のお腹を前掛けで覆った中年のその男は、料理長のロぺだった。クルスが鍋を抱えているのを見ると、ロぺはすぐそこにあった台置き指さした。
「ああ、君か。鍋はそこらへんに置いといてくれ」
「はい。わかりました」
ロぺに指示された通りに、クルスは鍋を部屋の隅に置く。
重い荷物からやっと解放されたクルスは、しびれた腕をぶらぶらさせながら戻ろうとした。
しかし、そこをロぺが呼び止めた。
「あ、ちょっと待ってくれ」
その声にクルスが足を止めて振り返ると、ロぺは慌てて何かを棚から出していた。
「あともう一つ、君に頼みたいことがあるんだが、いいかい?」
「はあ、俺に何の用でしょうか」
「これを騎士のバジャルド殿に渡してほしいんだ」
クルスは事情も分からないまま、ロぺの問いかけに返事をした。
するとロぺは棚から白布のかかった皿を取り出し、クルスに渡した。
「この皿を?」
皿を受け取ったクルスは、布を持ち上げて中を見てみた。白磁の皿には、綺麗なきつね色の焦げ目のついた厚焼きの卵料理が載っていた。クルスの手のひらほどの大きさのそれは、まるで満月のように丸くて黄色い。
「……これってオムレツ、ですよね。まさか陰謀による何かの薬とか入ってるんですか?」
目の前の料理に今すぐかぶりつきたい気持ちを抑えて、クルスは尋ねた。
あまりにも美味しそうな色合いに焼けているので、急いで布を戻して見えないようにする。
ロぺはクルスの冗談にちょっと笑って、皿に卵料理が載っている事情を小声で説明した。
「これは城主様に頼まれて作ったんだ。今夜バジャルド殿は奇襲作戦を指揮されるから、景気づけに良いものを食べさせてやってほしいと言われてね。材料が少なくて、美味しくできたかは不安なんだが」
髪の薄い頭をかいて、ロぺは今度は自信なさげに微妙に笑う。
「バジャルド殿が……」
重大任務を与えられているらしい騎士の名前を、クルスは繰り返した。
(奇襲作戦って、本当にあったんだ)
クルスは耳に挟んだ噂が嘘ではなかったことに、驚き喜んだ。
伯父の臣下の一人であるバジャルドの顔は知っているものの、言葉を交わしたことはない。だがロぺの話を聞いた途端に、クルスはバジャルドが格好良い人物であったような気がしてきた。
目を輝かせるクルスに、ロぺは一応といった様子で注意をつけたす。
「状況が状況だし、他の人の目があると食べにくいだろう? だからこれは、できれば人には見られないように運んでほしい」
「わかりました。これは俺がバジャルド殿に渡します」
クルスは勢いよく承諾した。
頼まれたのは些細な雑用である。しかしこれからまさに騎士として敵と戦う戦う人物と会えるのは、とても名誉なことだと感じた。
5 騎士と騎士見習い
クルスはなるべく人目につかないような廊下を選んで、バジャルドの部屋に向った。年齢が若いわりに位の高い騎士であるバジャルドは、天守に近い棟に個室を与えられていた。
白布の下の卵料理はまだ温かく、香ばしく焼けた卵の匂いをふわりとただよわせている。
食事の量が足りていないクルスはそのままどこかに隠れてそれを食べてしまいたかったが、何とかこらえて歩いた。
夏のソロルサノ城の廊下は暑く、昼間になると服は汗まみれになってしまっていた。
やがてクルスは、バジャルドの部屋の前に着く。
(ここがバジャルド殿の部屋だよな。中にいるかな?)
クルスは木製の扉を軽くノックしてみた。
すると中から返事らしき声と物音が聞こえて、扉が開いた。
出てきたのは体格の良い金髪の青年で、顔以外について何か知っているわけではないが、確かに騎士のバジャルドだった。
バジャルドは突然現れたクルスを、不思議そうに見下ろした。
「おや、君は小姓の……?」
「クルスです。料理長からこれを渡すようにって」
小姓であることだけは知っていてくれていたらしいバジャルドに名乗り、クルスは皿を差し出し見せた。
「それは、ご苦労だったな。どこへ行ったってこの城は暑いが、とりあえず中に」
バジャルドはまだ用が何なのか理解したわけではなさそうだが、いかにも暑そうに立っているクルスを部屋に招き入れた。
「ありがとうございます」
クルスはお礼を言って、中に入った。騎士の個室は初めて入る場所なので、どきどきした。
一人用でもクルスが他の小姓と使っている部屋よりも広いバジャルドの個室は、中庭に面した窓から入る風が涼しい場所だった。寝台や衣装箱など置かれた家具は必要最低限だが、出陣の準備中だったのか机には鎖帷子や甲冑が広げられている。
(これを着て、今夜バジャルド殿は戦うんだ)
銀色の甲冑は古いが良く磨かれた見事なもので、クルスは思わず見惚れてしまった。バジャルドは背が高いから、きっとこの甲冑もよく似合うに違いないと思った。
「いろいろと散らかっていてすまない」
ちょうど鎖帷子の下に着るためのキルトの胴着を身につけていたところだったらしいバジャルドは、申し訳なさそうに机の上を整理して場所を作った。
夢見心地から自分の役割を思い出したクルスは、慌てて空いたところに運んできた皿を置き、被さっていた布をとった。
出てきた卵料理はやはりとても美味しそうで、クルスは生唾を飲み込んだ。
バジャルドは胴着の革紐を結びながら、運ばれてきた料理を見る。
「で、これを私に?」
「はい。城主様が、奇襲の前の景気づけにと料理長に頼んだそうです」
「なるほど。食料が限られた中、ありがたいことだ」
クルスが事情を説明すると、バジャルドは軽い調子で感心してみせる。
その態度を謙遜だと思ったクルスは、バジャルドを熱っぽい瞳で見つめた。
「バジャルド殿には、ご立派な任務がありますから」
今は憧れることしかできないクルスにとって、現実に騎士として多くの兵士を従えて戦場に赴く予定のバジャルドは英雄に思えた。
男前な顔立ちで体格にも恵まれた大人のバジャルドは、改めて見るとクルスが将来にこうなりたいと願う姿そのもののように感じられる。
しかし返ってきた反応は想像とはかなり違っていて、バジャルドはクルスに冗談っぽく笑いかけた。
「特別扱いは、嬉しいものだ。だが私は、あいにく玉ねぎが苦手でね。このオムレツの中の具は、じゃがいもと玉ねぎだろう?」
「多分そう、ですね」
思ってもみなかった言葉に、クルスは困惑しながら答えた。
見たところ卵の中の具は薄切りのじゃがいもとみじん切りの玉ねぎである。
だがバジャルドが本当に玉ねぎを苦手にしているようには見えないし、仮に本当に苦手だとしても細かく刻まれたごく少しの量を食べれないほどだとは思えなかった。
しかし戸惑うクルスをよそに、バジャルドは料理をクルスの前に移動させて優しげに言う。
「だったら、これは君が食べてくれ」
「ええ、そんな……。せっかくバジャルド殿のために作られたものなのに、悪いです」
「気にすることはない。私が君に食べてほしいんだ」
どうやらバジャルドは、クルスに卵料理を譲る気でいるらしかった。
自分はそんなに物欲しげにしていたのだろうかと、クルスはとっさに恥ずかしくなり断ろうとした。
だがバジャルドはもうひもじくて可哀想な小姓に食べさせてあげることに決めたらしく、椅子を引いてクルスに着席をすすめる。
(こうなったらもう好意を受け取らないのも、失礼なのかもしれないし)
空腹に負けたところもあり、クルスはそのままついバジャルドの提案に流された。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
たどたどしく受け答えて、クルスは席につく。
バジャルドは満足そうな顔をして、クルスのすぐ横に座った。
「遠慮しないでいいから、全部もらってくれ」
「はい、いただきます」
開き直って心を決め、クルスは自分が料理と一緒に持ってきたナイフとフォークを手にとった。
6 厚焼きの卵料理
真っ白な皿の上に載ったこんがりと丸い厚焼きの卵は、やはり何回見ても美味しそうである。
(伯父上、料理長。ごめん。これバジャルド殿じゃなくて、俺が食べるよ)
この料理と自分に関わった人々に一応心の中で謝罪して、後ろめたさを振り払って卵にナイフを入れる。具はしっかりと入っているようで、切る感覚は少し重かった。
それをフォークで口元に運ぶと、焼けた卵のよい匂いと共にオリーブオイルの香りが食欲を刺激する。クルスはまず匂いだけでお腹をふくらませるくらいの気持ちで香りを吸い込み、それから口に入れた。
その瞬間、クルスは状況を忘れそうなほどに幸せになった。
(久々に食べる、ちゃんと美味しいものだ……)
ほのかに温かい卵がほどけて、口の中に広がり舌を包む。
最近は薄いスープとパンしか食べていなかったこともあり、普段の献立だったはずの厚焼きの卵が無性に美味しく感じられた。
塩のきいた卵の生地はしっとりと風味豊かで、輪切りのじゃがいもの食感のおかげで食べごたえが増している。飴色にとじ込められた玉ねぎの旨みもじんわりと味わい深く、クルスは大切に噛みしめた。
クルスがいそいそと、でもすぐになくなってしまわないようにゆっくりと厚焼きの卵を食べているのを、バジャルドは何も言わずに隣で見守っていた。
ずっと見つめられるのはそう居心地の良いものではなかったが、でも嫌ではなかった。
クルスは二口目、三口目と料理を口に運んだ。
切る場所によって卵と具の配分が違っていて、その味の変化もまた楽しかった。
しかしずっと食べられそうな気がするくらいでも、やがて最後の一口はやってくる。元々あまり大きくはなかったので、なくなるのに時間はかからなかった。
(これでおしまいか)
クルスは最後の一切れをフォークで突き刺して、惜しみながら食べた。
縁でよく焼けた卵は、香ばしさがあって終わりまで美味しかった。食べ終えてしまったさみしさもあるが、満腹感も確かに感じられる。
「ごちそうさまです。ありがとうございました」
もらったものを食べ終えたクルスは顔を上げ、バジャルドにお礼を言った。
バジャルドは目元をゆるめ、クルスに尋ねた。
「美味しかったか?」
「はい」
「なら、良かった」
気の利いた感想を言うべきだろうかと迷いながらも、クルスは単純にうなずいた。
するとバジャルドは嬉しそうに笑って、クルスの頭に手のひらをのせて撫でた。
ごつごつした大きな手が、クルスの黒い巻き毛を軽くかき混ぜる。その手は父親とも親戚とも違う、不思議な温もりをクルスにくれた。
バジャルドは深く青い瞳にクルスを映し、何ともなしにつぶやく。
「せっかく貴重な食材を使って作られた料理なんだから、まだ未来に価値がある者が食べるべきだろう」
聞き流してしまいそうなほどに、その声は軽い調子だった。
しかし何をどう思ってバジャルドがその言葉を言ったのかが、ざらりとクルスにひっかかる。
(生きても死んでも、この人には騎士としての未来があるはずなんじゃ? これから物語みたいな活躍をする人なんだから)
クルスは補給路を開いて味方を救うために戦場へ行くバジャルドは偉い人なのだと思っていたし、たとえあえなく敵に討たれて死んでもそれは尊い騎士道を歩んだ結末なのだと信じていた。
甲冑の似合う姿に、大人としての態度に見識。
バジャルドはそうしたクルスにはまだないものをたくさん手に入れている。
しかし一方でバジャルドの言動は、クルスがこの部屋に来た最初からどこか斜に構えたところがあった。
(この人は騎士らしく名誉のうちに死んでも、結局は意味のないことだと思っているってことか……?)
クルスは微笑み頭を撫でてくれているバジャルドをじっと見つめた。
窓の外は昼下がりの太陽にまぶしく照らされているが、石壁に囲まれた部屋の中は心地良く薄暗い。
ときおり入る風に金髪をなびかせている目の前のバジャルドは、親しげだけど遠かった。
(そういうのはちょっと、俺にはよくわからないな)
クルスは早々と、バジャルドの投げやりな態度と向き合うのをやめた。
もう少し頑張れば、バジャルドの考えていることが理解できそうな気もしている。けれどもそんな努力をする気にはなれなかったので、浮かんだ疑問は無視をして忘れることにした。
ぶ厚くて壊すことのできない壁が、バジャルドとクルスの間にはある。もしもその壁を越えてあちら側へ行くことができたなら、クルスは大人に近づけるのだろう。
しかしバジャルドのいる側の世界は、クルスにはあまり面白いものには見えない。
それなら、とクルスはほころびに目をつむる。
バジャルドがある程度は本当に思いやって料理を譲ってくれたことは、クルスにもわかっているし感謝している。
だけどそれ以上の理解は、クルスには必要のないものなのだ。
バジャルドの手の重みを感じながら、クルスはただ選択肢を一つ手放して黙っていた。
バジャルドは何か感じるところがあったのか神妙な顔になって、なぜか大事そうにクルスの頭から手を離した。
その切ない眼差しに、きっとバジャルドは表情を間違えてしまったのだとクルスは強引に解釈する。
これもまた見ても見なかったことにして、クルスはさらにおかしな沈黙が流れる前にと使い終わった食器を持って立ち上がった。
「あのそれじゃ、俺はこれで失礼します」
「ああ、引きとめて悪かったな」
そのときにはもうバジャルドの表情は元に戻っていて、軽く朗らかに笑っていた。
クルスはその顔にほっとしたような気もしたし、ちょっと申し訳ないような気もした。
「俺、バジャルド殿ならきっと、命を懸けて敵を倒してくれるって信じてます」
クルスは扉を開けながら、振り返って声をかけた。
「ありがとう。私も出来る限りのことはしてみせるよ」
やわらかな声で答えて、バジャルドはクルスを見送る。
これがクルスとバジャルドの、最初で最後の話した時間だった。
7 終わりゆく夏
翌朝、バジャルドは死体になって戻ってきた。
大勢の敵を前に勇壮に戦ったが、途中で囲まれて甲冑の隙間を剣に貫かれてしまったらしい。
クルスにとってバジャルドは、それほど見知った相手というわけではない。
だがそれでもこれまでの戦死の知らせとは、やはりまったく違って聞こえた。
結局のところソロルサノ城はデラロサ軍に包囲されたまま、奇襲作戦は失敗して補給路が開かれることはなかった。
城の食事は今日も粗食で、籠城戦は終わらない。
ただ敗北の結果バジャルド以外にも大勢の兵が死んだので、食料の減る早さはゆるやかになり籠城できる期間自体は少し伸びたと貯蔵庫の係は言っていた。
クルスは彼らの死のおかげで、これからもしばらくは食べていくことができるのだ。
(それでもやっぱり、足りないけど。また、オムレツ食べたいな……)
当然のように満腹にならない昼食の後、クルスは中庭の隅に置かれた空の樽に座りバジャルドにもらった卵料理を思い出した。
あれから何日かたったが、卵料理の記憶はいつまでも鮮明なままだった。
もちろんバジャルドと話せたことも大事だが、空腹の中では料理の味の方がはっきりと思い浮かぶ。
「クルス、弓の稽古が始まるぞ」
遠くから従兄弟のアリリオの声がする。
「うん、今行く」
クルスは返事をして、立ち上がった。
剣や弓の稽古をいくら重ねても、実際に戦場へ行ったことのないクルスは武器を本当の意味で使ったことはない。
長い籠城戦の中で、どうやら現実は物語とは違うらしいことにクルスは少しは気づいていた。
だがそれでも、いやだからこそ、クルスは騎士になりたかった。
バジャルドは死ぬ前に、クルスの未来にはまだ価値があると言った。
しかし籠城戦はまだ続き、クルスは思うようには大人になれない。
(俺が騎士になる日って、本当に来るのかな)
クルスはアリリオが呼ぶ方へと歩きながら、ふと何気なしに城の天守を見上げた。
風は段々涼しくなっており、夏は終わり秋が近づいてきていた。
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