ハイデガーの技術論〜テクネーと民芸について〜
前回の記事では、ハイデガーはゲシュテルの暴力に対して、「技術との自由な関係」を提唱して、古代ギリシア語のテクネーという概念を対置していることを紹介した。彼は中でも、詩作(Dichitung)の可能性に賭けている。
ゲシュテルという暴力に立ち向かうのは、詩作だというのは理解がしづらい。
そこで、前回もご紹介した書籍の中で、加藤尚武氏は民芸という媒介を通してテクネーの本質に迫っている点を紹介したい。
民芸とは、民衆の間でつくられた日常の生活用具のうち、機能的で健康な美しさをもつ工芸品とその制作活動で、柳宗悦が創始したことで知られている。
加藤氏自身も述べているように、ハイデガーと柳宗悦は根本的に思想内容が異なるためテクネーと民芸を並立的に論じることは困難であるが、規格品の大量生産・大量消費や労働の疎外に対するアンチテーゼとしては一定の共通項があるであろう。
また、ハイデガーの『芸術作品の根源』で例示されるゴッホの百姓靴という作品は大地に根ざした農夫の世界が表現されており、そのモチーフがどこか民芸に近接する印象を与える。
柳宗悦が説く民芸の場合は、浄土宗信仰における「他力」がポイントとなっている。特殊な浄土信仰というよりは、無名の人が他力によって民芸品を作ることへの美的観照に価値がある。
美を直接的に狙わずに、自然の素材を生かして手作りの一品生産に没頭することで自然との根源的な出会いが造形されるという。柳は、その無名の人を「妙好人」と呼ぶのだが、その心境がテクネーの原体験と重なるところがあるわけである。
加藤氏は論考の最後を上記の記述で締めくくっている。
両者はものづくりの根源的経験に遡る点で共通点があるということであろうが、しかし、現代は膨大なサプライチェーンの網目の中で製作せざるを得ず、その点の論考が抜けている。
テクネーの原体験に遡るという点は技術論を語る上では有益であろうが、それをめぐる社会状況を考慮することも必要である。サプライチェーンやそれを規制することができる政治についてまで考えてこその技術論であろう。
その点については加藤氏も触れていて、ハイデガーの技術論はゲシュテルとテクネーばかりが前面に出てくるが、近年公刊された講義録などその源流をたどると政治性についても射程に入っていたことも明らかになっている。
次回は、技術と国家の関係性について、ハイデガーが考えていたことをたどっていきたい。