『水晶宮としての世界』 ペーター・スローターダイク(途中)

 『水晶宮としての世界』を読み始めました。全部でざっと500ページ弱。うむむ、長い。重い。ぶ厚過ぎて書見台が使えない……。

 サブタイトルは「資本とグローバル化の哲学のために」。
 タイトルにある水晶宮が何なのか・本の主題が何なのかも知らずに読み始めました(水晶宮は何かの比喩だそうです。30ページ辺りで説明されていますが、私にはいまいちよくわかりません…)。例によって、少々遠方の図書館内をふらふらしていて新刊棚で目が合って、お、スローターダイクさんの新しい本だ、気に留めておいて、近所の図書館で借りた、という経緯です。もっとも、日本語訳としては新刊ですが、ドイツ語原著は2005年の発刊です。ざっと20年前の本。私が著者の本を読むのは、『シニカル理性批判』『魔の木』に続いて3冊目。なぜか毎回、高田珠樹さん(と里惠子さん(←『魔の木』))のお訳です。いつもながらに読みやすい。有難い。それでも私にはたぶん半分も読めていないんでしょうけど(←これはしょうがない)。

 全四二節のうち十七節まで読み終えました。二部構成の全体のうち、節でいうと第一部の真ん中くらい、ページ数でいうと半分弱くらいでしょうか。

 私に理解できた範囲であらましを言うと——、
 地球と人(ただしヨーロッパ目線)との係わりは3つの段階で理解できる。最初は、土地に根差し、自身の故郷を中心に〈有限な世界〉が展開していた時代。地球が球形だなんて思いもせず、地図は描けても陸地中心、海の向こうがどうなっているかは分からない。
 次が大航海時代以降で、海を渡って地球は1周できることに気付く。冒険家たちは未知の土地を探検し、収奪し、地図・地球儀の空白を埋めていく。地球は1周できる・商売はどこででもできる、となれば〈故郷〉のもつ特別感は失われ、距離の遠近だけが差になり、中心点はなくなる。そしてまた、航海には危険が付きもの、損も莫大になるので、負担を分け合う〈保険〉の仕組みが生まれる。
 そして、現代を含む情報の時代。早くもおぼろになった私の記憶では、たしか、インターネットより衛星・GPS方面を重視した話になる――と、本書冒頭で読んだように思いますが、これは第二部以降で書かれます(つまりまだ読んでいません)。


 第一部も途中な、いかにも中途半端なところで何を記録するのか、と不思議でしょうが、ちょっと、十二節に打たれてしまったのです。
 上に書いたように、第一部の内容は大航海時代です。
 当時、ヨーロッパ諸国は、アジア・アフリカ・太平洋地域一帯にえげつない暴力行為をはたらき、大損害を与えました。しかしその事実を、西洋近代哲学はまともに取り上げて分析・考察することなく、無視し続けた。これは一種の自発的自己去勢で、理解すべきことを禁忌にすることで自分たちを守り、その一方で、一部の、禁忌を破った(か、破りかけた?)哲学者を周辺に追いやったり締め出したりした、と著者は非難します。
 この、淡々と語られる悲痛な憤りに私は打たれました。で、それが薄れる前に記録しておこう、なんせこれからまだ第二部を読むんだし、と思いました。

 ちなみに、この暴力行為についての著者の考えはというと、大きくは〈第一部に書かれていること全体〉になるでしょうが、端的にまとめられた暴力行為発動(≒〈自制の解除〉)の条件は、「特別許可、利益の約束、後の赦免の見通しという三つをうまく結び合わせたものを手配することで、行動者の暴発を抑える安全装置が絶えず新たに解除されるようにし、何かに奮起させるための自己説得機能を首尾よく作動させ」ること、だそうです(137ページ)。そしてこれは続く139ページで、「より良いものの名の下に既存のものを破壊すること」と書かれます。
 これを、大航海時代当時に喝破すること、そしてこの仕組みに警鐘を鳴らすことが西洋近代哲学のなすべきことだった、ということでしょう、21世紀のいまになって言うのでなく。その通りだろうと思います。

 ――と、いうところで私は、続きを読みに戻ります。



 『水晶宮としての世界 資本とグローバル化の哲学のために』
 ペーター・スローターダイク著 高田珠樹訳
 青土社 2024年

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