高雄の神護寺に文覚を訪ねて
猿之助氏怪僧を怪演
怪僧文覚。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(NHK 2022年)で、市川猿之助さんが演じていた胡散臭いお坊さんです。鎌倉と京を行き来し、最終回でも幽霊になって登場しました。その文覚ゆかりの寺、高雄の神護寺に行ってきました。
※「猿之助氏怪僧を怪演」は私の創作早口言葉だよ。
神護寺と文覚
あの高雄に神護寺という山寺がある。昔、称徳天皇のときに和気清麻呂が建立した伽藍である。長い間修理してなかったので、春は霞にたちこめられ、秋は霧につつまれ、扉は、風で倒れ落ち葉に埋もれて朽ち、瓦葺きの屋根からは雨露が漏れ、仏壇がすっかりむきだしになっている。寺に住んで寺を守る僧もいないので、まれに入ってくるものは、月日の光だけである。
文覚はこのような状態の寺をなんとしても再興させるという大願を立て、勧進帳を携えて、あらゆる人に寺への布施を求めて歩き回ったが、ある時、後白河院の御所の法住寺殿へ推参した。
文覚は、自分の感情のまま突っ走る、直情径行型の人ですが、願ったことが実現するまでやりきる、人並み外れた粘り強さを併せもっているのがすごいところ。このときは、神護寺再興を願って、後白河院の御所にまで押しかけますが、院の楽しい御遊(音楽会)を邪魔したかどで、捕らえられてしまいます。釈放されてからも「世の中は乱れている、君も臣も滅びるぞ」と不穏なことを説いて回るので、伊豆国に流されてしまいました。そこで源頼朝に挙兵をすすめます。
いざ、神護寺へ
京都駅前から、JRバスにのります。地下鉄・バス一日券を案内所で購入しました。
平野神社、御室仁和寺と桜の名所の賑わいを窓から眺めながら、延々とバスに乗りつづけます。乗車時間は約50分。高雄のバス停で降りました。高雄といえば紅葉の名所。秋はにぎわうけど、春は空いているのかな。今回、高雄で降りたのは私ひとりでした。
神護寺を訪れるのはたぶん初めてです。看板がありました。なになに、バス停のある道から、階段を下り、高雄橋をわたると、神護寺の参道にでるとな。
まずは階段を下りる。道は歩きやすく整備されています。
高雄橋からの眺め。山の中。
参道の入口につきました。ここから上っていきます。
途中で3回立ち止まって水を飲み、ようやく神護寺の楼門に着きました。
神護寺を建てた和気清麻呂のお墓もありますが、今回は山の中腹にある文覚上人の墓にもお参りしたいと思っています。行けるかなあ。
金堂。内陣に入ることができるので、ご本尊の薬師如来立像のそばまで近づけます。お寺が建立されたころに造られた薬師如来像、ふっくらとあたたかなお姿ですが、文覚が寺を再興するぞと決心したときには、雨ざらしに近い状態だったのでしょうか。
文覚上人の墓に行く案内板はどこにもないのですが(理由はあとで判明)、行ってみましょう。
案内板はないけど、この青い紐が目印のような気がする。
ということは、ここを登っていくのかな。
さすがにちょっと不安になり、何度もGoogleマップを開いてみる。
もっと不安になり、もう引き返そうかなと思ったところで、謎の赤い看板を発見。文覚上人の墓はこっちとは書いていないけれど、廃物利用のこの赤い看板が大事な目印です。(ということがあとで判明しました)
Googleマップによると、ここで曲がるみたい。
それっぽい道を登ります。
あ!
着いた!
くるっと振り返って、お墓から見える景色をパチリ。京都の町を見渡すことができる場所に、文覚上人は眠っていました。
帰りにもう一度金堂に寄りました。
さっき来た時は、お寺の人が他のお客さんと話していたので、遠慮して、文覚上人の墓への行き方を聞かずに突撃したのですが、これが良かったみたい。薬師如来のお札と寺の案内書を買って、「文覚上人のお墓に行ってきました。ふふん」と自慢したら、あきれた顔をされて「山道だからね、おすすめしていないんですよ」と言われました。(どうりで、他の人がSNSにアップした画像には文覚上人の墓はこちらという案内板が写っていたのに、今回は案内板が全くなかった。2023年3月30日現在の情報です)「鎌倉殿の13人」で文覚の知名度が上がったというのに、もったいないなあ。
私がたどり着くことができたのは、もしかして文覚に呼ばれた? お墓についたところでいきなり黒い虫がとんできました。「よ~来たなあ」
なお、山道の途中にあった赤い看板があるところで曲がらずまっすぐ進むと、愛宕山まで行ってしまうとのことです。ご用心ご用心。
神護寺の歴史(抜粋)
さいごに、神護寺の歴史を簡単にご紹介。紅葉の季節にまた来ようっと。
【奈良時代】
781年 和気清麻呂、高雄山寺(神護寺)建立を許される。
【平安時代】
812年 高雄山寺において、空海が最澄らに真言密教の儀式である灌頂を授ける。
824年 空海、高雄山寺を神護国祚真言寺と改名。
●平安末期、神護寺が荒廃する。
1173年■文覚、神護寺復興の勧進のため法住寺に推参、後白河院の勘気をこうむり、伊豆に流される。
1180年■源頼朝、伊豆で挙兵。
1184年 後白河院から神護寺再興を許される。源頼朝の援助もうける。
【室町時代】
1467年 応仁の乱により、伽藍を焼失。
【江戸時代】
1623年 金堂(現在の毘沙門堂)・五大堂・鐘楼などを再建。
1629年 楼門を再建。
【明治時代】
1900年 地蔵院を再興。
【昭和時代】
1935年 金堂・多宝塔・清麻呂霊廟を再建、伽藍を整備。
改稿 2023年5月13日
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