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「迦陵頻伽の仔と旅人」(五)
「兄貴を探す意味なんかない。首を刎ねようなんて物騒なこと、もう考えなくていいんだよ。だって──」
禿鷲の群れの餌食となっていた不憫な骸。骸が死しても握っていた小刀の輝き。墓標の代わりとして大地に突き立てた刀身。オトが唱えた雪山偈による供養。骸に相対した経緯と瞳に映ったありのままの光景が、オトの口から事細かに物語られていく。
「ごめんな。どう伝えたらいいのか、本当に伝えていいのかわからなくて」
紡ぎ出した言葉の終わりに、オトは髪を振り乱しながら幾度も頭を下げた。真実を包み隠さず告げるよう進言した良嗣は、より深々と首を垂れた。声なき謝罪には、吐蕃語の詫び言一つ知らぬ無様な自分と、酷な現実を突き付けさせる負担を強いたオトへの負い目が込められていた。
ドルジェは口を挟まず、ただ黙して告白を聞いていた。速く、そして強く高鳴る歪な心音が、オトの鋭敏な耳をざわつかせる。どのような感情が投げ返されるのか、オトは不安と緊張を押し殺して返答を待った。
「……その骸の元へ、連れて行っていただけませんか」
傍らに広がる湖の揺れる水面を見つめながら、ドルジェは密やかに告げた。平静を装ってこそいたが、単純な喜怒哀楽では括れない動揺の込められた声は不安定で、やや調子が外れていた。
「差し出がましいことは承知しています。……でも、この目で見るまでは、どうしても心の整理がつきません」
オトは良嗣の袖を二度引いた。何かを強くせがむ時の癖を、良嗣は旅の最中でよく理解していた。
「……連れてってくれないか、だって」
「元よりそのつもりだ。案ずるな」
か細い声でドルジェの意思を伝えたオトの肩に、良嗣はそっと手を乗せた。幼子の肩を覆い尽くすほどに大きく逞しい掌の温もりが、麻布の外套越しにオトの心を暖めた。
◇
遥か彼方まで青草が生い茂る高原を、旅人たちは北へ征く。
犛牛に跨った良嗣とオトの先導に従い、ドルジェは馬を駆った。ヤクの緩やかな歩調に合わせようとする馬の足取りは、どこか覚束ず不安げだった。
三人は一切、言葉を交わそうとしなかった。普段は多弁なオトも口を噤み、この場に相応しい話題を考えあぐねていた。常の如く良嗣の肩に腰掛け、足をばたつかせながら想像を巡らせる。結局いくら考えようとも答えは見出せず、せめて沈黙が少しでも長く続くよう、心の奥底で願っていた。
そんなオトの望みは、僅か一日足らずで潰えた。
素知らぬ顔で空を巡る太陽が、また西の果てに沈もうとしていた時だった。強く照り付ける茜色が、三人の瞳の奥を突く。皆が一様に細めた瞼の先に、探し求めていた輝きがあった。
「あそこだ」
良嗣の重々しい声が沈黙を破った。太く長い指が示した先には、二点の小さな光が煌めく。
「あれは……」
輝きの正体が刀と鞘であるとも、その鞘は朽ちた骸が握っているとも、まだ目視できない程の距離があった。だからこそ、ドルジェは光を目掛けて勢い良く駆け出した。
「おい、待てったら!」
オトの制止にも構わず、ドルジェの逸る心が伝播したかのように馬の歩調が増し、瞬く間にヤクの巨体を追い抜いた。草原を駆け抜ける馬の姿は、傍目には清々しい。しかし、過ぎ去った後に巻き上がる風は生温く、二人の頬に得体の知れぬ不快感を貼り付けた。
「ったく、アイツ──」
「構わない、後を追うぞ」
追い着いたヤクから降りた二人の前で、ドルジェは膝を突いて骸に向き合っていた。
二人が数日振りの再会を果たした骸は、かろうじて残されていた僅かな肉さえ失い、遂に完全な白骨と化していた。元の形を失った右手の骨の中には、尚も銀色に輝く小刀の鞘が納められている。白粉を纏ったような色の髑髏とドルジェの赤茶けた肌は、双子らしさを欠片も残さないほど対照的だった。
「僕のものと同じ、父が兄に授けた刀です。それに……これは兄の服でした。間違いありません」
草の中に埋もれた端切れをドルジェは拾い、手に取った。赤い繊維が指の腹で解け、風に攫われ消えていく。
ドルジェの証言を、オトは良嗣に訳し伝えた。ほぼ確実だった骸の正体が真に確かなものとなり、良嗣は納得と諦観が入り混じった溜息を吐いた。
そこにもう一つ、嘲りの溜息が重なる。
「……何だ、随分と呆気ないな」
深い呼吸は、自然と怨嗟の声に連なった。物言わぬ骸の窪んだ眼窩に、ドルジェは下唇を引き攣らせた顔を向けた。
「お似合いの姿じゃないか。まともな旅支度もせず逃げようとしたからだ。どうせ飢え死にしそうになって、馬にも見捨てられて、生きたまま野犬と禿鷲の餌になったんだろ。全く、先を越されるなんて残念だ──」
「そのへんにしとけ」
次々と述べられる恨み言に、オトが鋭く割って入った。
「憎しみがウソじゃないのはわかるよ。でもさ、それだけじゃないだろ」
「……いえ、それだけです。僕にはそれだけで十分です」
「生きてる兄貴と会って、まずはちゃんと話したかったんじゃないのか。その気持ちにだってウソを吐かずに、しっかり向き合わなくちゃダメだ」
「違います! 別に僕は──」
「わかるんだ! わかるんだよ、おれには……」
ドルジェにはオトの説得が、強引な綺麗事としか感じられなかった。それでも図星を突かれ、動揺したことも事実だった。声色から全ての感情を察し取られているなど知る由もない。
淀んだ空気が、三人の間を包む。
「……言葉も交わせない。命も奪えない。たとえ僕の望みが何だったとして、どちらも絶対に叶いません。なら、僕はこれから何の為に……」
ドルジェは膝を突いたまま、誰にともなく自嘲気味に言葉を漏らした。
父を殺めた兄への復讐を生きる糧としていたドルジェの動揺と苦しみは、吐蕃語を解さない良嗣も十分に承知していた。兄の死を告げれば生への渇望を失うかもしれない。そのようなオトの忠言にも関わらず、良嗣はオトに真実を伝えるよう願った。
なればこそ、目的を失って崩れゆくドルジェの心を再び形作る責務は自分にあると、良嗣は腹を決めていた。
「……一言一句漏らさず、ドルジェに訳し伝えてくれないか」
オトは無言で頷き、軽い咳払いを一つ落とした。それを合図とばかりに良嗣の重々しい声を追い掛けて、諭すような口調を真似ながら語り出した。
「「……お前の兄と父の間に何が起きたのかも、お前の兄が何を考えて何処を目指していたのかも、今の俺たちには何一つ知り得ない。だが、お前にとっても大切な父との繋がりを、どれだけ沢山の獣に狙われようと守り通した。その事実は揺るぎようがない」」
自他ともに厳しい良嗣の性分を、オトは知っている。
「「心の整理が付かないのも理解できるが、お前には為すべきことがあるはずだ。まずは故郷に帰って父の菩提を弔うべきだろう。父としても鍛治の師としても慕っていたならば尚更だ」」
寡黙な良嗣が言葉を尽くして喋ることの意味も、誰よりも理解している。
「「新たな生き甲斐など簡単に見つかるはずもない。だが、生きてさえいれば巡り逢う。きっと……きっとお前も巡り逢える。だから……復讐の旅は、ここで終わりにしないか」」
若き不憫な旅人に寄り添おうとする良嗣の意思が少しでも伝わるように、オトはありったけの慈悲を己の声に宿した。
やがて、三十回ほどの鼓動を刻んだ後、ドルジェの頬を二筋の光が伝った。
「……お前はいつも勝手だ。適当なことばかり言って、好き放題やって、みんなを困らせて、挙げ句の果てには野垂れ死んで。それでも、僕たちは二人とも一番弟子なんだ。二人でやっていくって決めたじゃないか」
少しずつ、声に嗚咽が混じっていく。
「……どうして父さんを殺した。どうして勝手に死んだ。どうして僕を一人にしたんだ」
止めどなく溢れ出した涙は青草を伝い、高原の大地に染み込んでいった。