「さらば愛しの有也屋」 #AKBDC2023
「鰻重を」
店主の挨拶すら待たずに注文をした俺は、過剰に気が急いている。
差し出された彼の右手に促されるまま、五脚しかないカウンター席の中心に座り込む。少し頼りない四脚と背もたれに大柄の身体を預け、セルフサービスの冷水を一気に飲み干した。幻の逸品を食す前の、禊の儀式だ。
長身の特権としてカウンター奥を眺める。彼は氷が敷き詰められた桶の中から、黒ずんだ銀色に光る細長い物体を取り出した。
仮死状態の鰻。俺は今から貴様を喰らう。
◇
数多の鰻屋が立ち並ぶ成田山の門前町。路地裏に居を構える“有也屋”は、年老いた男性一人で店の全てを賄う、ひなびた雰囲気の小料理屋。その店主が凄腕の鰻目狩人である事実は、俺たちの界隈では有名だ。天然鰻の変異種討伐を生業とする彼らの存在は秘匿されている。常連客の中でも、彼の裏の姿を知る人間はごく一部に過ぎないという。
日本旅行で関東方面に赴く際、俺は必ず有也屋を訪れる。その都度数々の鰻料理や日本酒に舌鼓を打っているが、この幻の逸品には未だ巡り会えていない。鰻重は彼自ら逸物を仕留めた時にしか作らない裏メニュー。せいろ蒸しや白焼きにしないのは彼の拘りらしい。
だからこそ、俺は今朝の国際電話が信じられなかった。
「いいの入ったよ」
連想したのは、印旛沼での凄絶な死闘。鰻の味は強さに比例するという。“いいの”の一言が指す相手は、明らかに人命を脅かす程の力を持った変異種だろう。
いや、それ以前に連絡自体に我が耳を疑った。以前名刺は手渡していたが、彼からの連絡を貰った経験はない。年に二、三度しか足を運ばない海の向こうに住む客に声を掛けるなんて。
本来は休業日にも関わらず、俺が来れるなら店を開けるという。真偽と真意は現地で確かめるしかない。即座に仮病の理由を考え、手際よくサボりを決め込む。その後国際線のチケットを確保し、着の身着のままで成田空港へ飛んだ。
待ち遠しさで時間感覚が狂っていく。台湾から成田までの三時間は、これまでの人生で最も長い三時間だった。
◇
千枚通しで串刺しになった頭部に、容赦なく包丁が穿たれる。続く数々の下処理の最中に、ようやく鰻は絶命した。ゆっくりと開閉を繰り返していた口は、もう二度と動かない。見た目は何の変哲もない、一般的な大きさの鰻。だからこそ、変異種は厄介なのだという。
流れるような処理の手際を見せる彼の姿に、俺の瞳は釘付けになった。彼の身を覆う白い作務衣は、相対的に浅黒い色の肌を目立たせる。以前来店した時よりも濃くなった気がするのは、酷暑の中で闘いに赴いた影響だろう。前腕の皮が痛々しく剥がれ、桃色の柔肌が顔を覗かせている。
お通しの骨煎餅をつまみながら、俺は店主に話し掛けた。
「ニュースで見ました。今年の関東の日差し、やっぱり凄いんですね」
「日焼け対策は諦めてるよ。ウェットスーツの締め付け、どうにも苦手でねぇ」
「噛まれたらどうするんです」
「“大牙持ち”の奴なんてそう居るもんじゃないよ。それに、俺はそんなにヤワじゃない」
「はは、それもそうですね」
「まあ、足首を絡め取られて水底に引きずり込まれそうになったけどね。ははは」
空っ風のように乾いた笑い声が、人当たりの良さの奥に、何か得体の知れない雰囲気を感じさせる。彼が日頃より隠し通している力の影響だと、俺は信じて疑わなかった。
笑いを返した俺は目線を落とし、つい自分の腕を眺めてしまう。膨れ上がった鍛錬の成果がTシャツの袖口を圧迫しているが、店主のそれには敵わない。ぬめりのある鰻相手に素手で立ち向かう男だ。他の老人相手ならば劣等感を覚えてしまうが、彼に対しては畏敬の念しか浮かばない。そんな彼が狩人としての顔を封じ込め、涼しげな顔で厨房に立っているのが不思議でならない。
骨や肝などの下処理が終わり、いよいよ焼きに入るようだ。料理人の本領発揮というわけか。もっと闘いの仔細を尋ねたいが、会話で集中力を切らしては申し訳ない。押し黙って調理を待つことにした。
こんな時、俺はXに載せるためのクイズを考える。日本語と英語を混ぜた駄洒落が題材だ。日本語をアルファベットに変換し、何かしらの英単語と無理矢理紐付ける。このように母国語以外の語彙を駆使する行為は、頭への良い刺激になる。頭を使えば、更に腹が減る。
空腹……食事……旅行……日本……よし、早速一つ完成した。今日の俺は冴えているな。
考え直そう。時間はたっぷりある。
◇
「お待ちどう」
五つ目のクイズを考え付いた頃、眼前に幻の逸品が姿を現した。
中央には黒い重箱。蓋をされた右奥の器には恐らく肝吸い。左奥の小鉢にはわさび漬、奈良漬、紅生姜、沢庵。品目だけ見れば他店と何ら変わりない鰻重だが、これこそが完成された至高の組み合わせなのだろう。脂とタレの甘味を、肝の苦味と漬物の酸味が引き立たせる。そのための三重奏だ。
時折思う。目の前の客に提供するだけなのに、わざわざ蓋をする必要があるのかと。しかし、蓋を開けた瞬間にだけ味わえる悦楽の存在を思えば、そのような野暮な疑問は浮かびようもない。
封印を解いた途端、旨みが濃縮された湯気が顔を覆い尽くす。分泌された唾液を飲み込み、俺は高らかに宣誓した。
「いただきます」
興奮で汗ばんだ身体に対して、まずは肝吸いで塩分を補給するべきだろう。しかし、脂の誘惑には勝てない。
ふっくらとした蒲焼きを箸で切り、口に含み、瞳を閉じて咀嚼する。粘膜を伝って、味が脳へと伝達される。
「……好吃」
賛辞の意が、反射的に口から漏れ出た。
逸品との噂は伊達ではない。その味は今まで食したどの鰻よりも荒々しく、力強く、そして上品であった。まるで、彼と繰り広げた激闘を追体験するかのように。
次は米と合わせて味わう。タレが染み込んだ米と蒲焼の相性は、暴力的なまでに完璧だ。無言で、そして無心で喰らいつく。
四分の一ほど食べ終えた頃、箸休めに小鉢の沢庵をつまむ。黄金に輝く沢庵は艶やかで見目麗しい。その色合いも勿論味も、鰻で充満した口内を爽やかにしてくれる。これで鰻を再び新鮮に味わえる。
改めて重箱に手を伸ばす。と、山椒を振り掛けるのを忘れていた。鼻腔をくすぐる爽やかな風味が、鰻の味を更に引き立てる。お陰で、先程よりも更に食が進む。
次は肝吸いだ。吸い物を飲みながら三つ葉と肝を喰む。その苦味は、さながら凝縮された滋養の味。この時ばかりは苦味が主役に躍り出る。
肝吸いが舞台を降りた後、三たび俺は鰻に箸を向ける。もう止まることはできない。全てを喰らい尽くすまで。
◇
食とは刹那的だ。美味ければ美味いほど、幸福は瞬時に過ぎ去ってしまう。
紙ナプキンで味の余韻を拭った後、俺は数分ぶりに言葉を発した。
「ご馳走様でした」
「味はどうだい」
「最高ですよ。みなみの国から来た甲斐があります」
「それは良かった。どうしても、最後に君に食べて欲しかったんだ」
聞き捨てならない一言に、俺の思考は掻き乱された。
寂しげで、どこか満足そうな彼の返事。どう会話を続けていいのかわからず、俺は困惑した。
「最後って、何が──」
俺の言葉を待たず、彼はおもむろに作務衣と襦袢を脱いだ。
露わになった光景に俺は絶句した。鍛え抜かれた肉体や、過去の死闘の証たる古傷ではない。右の脇腹にぽっかりと開いている現役の傷──二つの歯形に対してだ。傷跡を中心に浮き出ている血管は、毒々しい黒色を放っている。
侵食。
「はは、二本とも折ってやったよ」
乾いた笑いに、力は込もっていなかった。
目を背けたくなる現実を、俺は無言で凝視した。秘密を明かしてくれた彼への、最低限の礼儀だ。
「今は料理も会話もできる。だが……そう長くは保たないだろう。ケジメは自分で付けたかったが、そうにもいかないようでね」
厨房に置かれた背開き用の鋭利な包丁を、彼は自身の喉元に向けた。
大声で制止しようとしたが、俺の声とは無関係に店主の手は動かない。いや、よく見ると刃が皮膚に刺さる直前で、腕全体が小刻みに震えている。
硬く握られた手がゆっくり開く。重力に敗北した包丁が、がらん、と音を立てた。
「奴らの生存本能だ。見上げたものだな。いずれは心まで蝕まれるだろう」
「そんな……」
「だから、これからは君に戦ってほしい。店を畳むのは悔しいが……
私に代わって奴らを、印旛沼の変異種どもを倒してくれ」
衝撃的な一言が重ねて放たれる。俺は思わずカウンターを叩き、立ち上がって声を振り絞った。
「冗談言わないでください!俺が代わりなんて、そんな事できるわけが──」
「できる。意思なら既に持っている。誰よりも強い鰻目への執着だ。だから私は君を呼んだ。来てくれると信じていたよ。そして……君はたった今、真の力を手にしたはずだ」
彼の言葉を聞いた途端、両腕が震えた。日頃から鍛えている自慢の肉体が、かつてない強さで脈動する。
たんぱく質。ミネラル。DHA。今の鰻に限らず、様々な鰻目生物を喰らって蓄えてきた様々な栄養素が、力となって漲る。取り込んだばかりの死闘の証が、その引鉄となったのだろう。
「……それじゃあ、力を見せて貰おうか」
彼は鰻目狩人の伝統的な構えをとった。左手は胸の前。右腕は正面に伸ばし、ゆっくりとしならせる。奴らを思わせる、禍々しく隙の見えない動きだ。
侵食は明らかに広がっている。全身に広がる黒が、今まさに彼を取り込もうとしていた。
「……ご馳走様でした」
何度でも言い足りない感謝の言葉。喉と口元が震える。鼻を啜る音も混ざっている。上手く発音できた気がしない。
「新たな君の誕生を祝おう」
視界がぼやける。溢れた涙を振り払い、俺はカウンターの奥へ飛び込んだ。
完
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