見出し画像

美について

近頃、美について考えている。
美ってなんだろう。

このnoteを読み返してみたとき、
私の思考は、実は美の周りで
ぐるぐる回っていることに気づいた。

前は、美とは、綺麗なもの、
例えば美術品とか、美しい音楽とか、
そういうものを美と呼ぶのだと思っていた。
しかし実は、それだけではないらしい。

美には、
はかなさ、寂しさ、かなしさ、悼み、
そうした一般的にはネガティブに捉えられていることが
含まれているようなのだ。

私にとって最大のネガティブな経験は
父の死である。
父を失った経験は、
初めの10年ほどは、
美とは全く逆のものとして捉えられた。
死別という苦しみのヘドロの中に
私が丸ごと沈んだようなもの。
おぞましきことだった。

苦悶のあまり病持ちとなり
治療のために入院もし、
その後別の病気も発症し
休職もした。

父の死という悼みは
私の心臓だった。
私は心臓を胸から取り出して
盆に乗せ、
矢の雨が降る夜に
外を歩くしかなかった。
矢が心臓に刺さる。
血が噴き出る。
阿鼻叫喚。
泣き叫ぼうとも、
矢が降り頻る音で私の声はかき消され、
誰からも知られることはなかった。

しかし16年という年月を経た今、
その心臓は私の胸に戻った。
矢が刺さったまま、
矢ごと心臓は私の体の一部となった。
矢はもう私に痛みを与えなくなった。
なぜなら私の一部だからだ。

「ありふれた祈り」で語られた
「人は誰でも暗い秘密を、
 自分を押しつぶそうとする秘密を
 かかえて生きている」。
ということば。
これが、私にも当てはまる。
それは矢が刺さったままの心臓だ。

美しさの根っこには「寂しさ」があるらしい。
寂しさの究極の形が死別なのかもしれない。

音楽に美しさを感じる時って
必ずマイナーコードが仕込まれている。
それは、この「寂しさ」を表す
音楽的アイコンなのではないか。

失われたものを思う時に感じる切ないほどの美。
ここには取り戻せないものへの郷愁や憧れが存在している。
あるいはまた、
花に美を感じるとき、
同時に、やがて枯れて失われるという強烈な事実に
悲しみを感じているのではないだろうか。
そしてこれは人によるかもしれないけど
そしていつか行けるという天国への憧憬も
あるかもしれない。

若松英輔氏のことば。
「愛するものを失って悲しみに暮れる。
 だが、悲しみを通じてしか
 垣間見ることのできない真実があるとしたら、
 悲しみは単なる苦痛ではなく、
 恩寵への不可避な道程となる。」

悲しみを通して初めて垣間見ることができるもの、
それはきっと美なのだ。

私はこのnoteに
このように記している。

「若松氏が言いたいのは、
 悲しみの向こうにこそ本物の光があり、
 本物の光を見いだすためには
 身を引き裂かれるほどの悲しみこそが
 必要なのだということなんだよね。」

悲しみによって身を引き裂かれた私は、
同じ種類の苦悶を味わっている人と
連帯する資格をいただいたのだ。
その連帯とは、
「美」を通してなされるのかもしれない。
神谷美恵子が言う「生きがい」は
美とほとんどイコールなのではないか。
連帯を、私はこのnoteで
「響振」と呼んでみたりしているのかもしれない。
また、
「痛みのある人は、神に至る通路」と
このnoteにとある動画からの引用として書いている。

連帯する私は、人生に問われている。
私が人生に差し出せるものはなんだろう。
このたび職場で重責を負うことになったので
それをひたすらに負い続けることが
私なりの答えの一つになると思う。

しかし、私はもう一つを生み出そうとしている。
美とはなんなのかを
私の中ではっきりさせたいのだ。
そのためにこのnoteを書いてきたのだろう。
今、「美」という具体的な言葉となって
ぼんやりと生まれた何かを、
これからも感じ取っていきたい。

いいなと思ったら応援しよう!