Clavis

くされクリスチャンです。 自死遺族。 ここでは主にハラの中のことを書いていきます。 2…

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くされクリスチャンです。 自死遺族。 ここでは主にハラの中のことを書いていきます。 2023年7月6日の記事までは、過去に書いたものの再掲です。

最近の記事

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美について

近頃、美について考えている。 美ってなんだろう。 このnoteを読み返してみたとき、 私の思考は、実は美の周りで ぐるぐる回っていることに気づいた。 前は、美とは、綺麗なもの、 例えば美術品とか、美しい音楽とか、 そういうものを美と呼ぶのだと思っていた。 しかし実は、それだけではないらしい。 美には、 はかなさ、寂しさ、かなしさ、悼み、 そうした一般的にはネガティブに捉えられていることが 含まれているようなのだ。 私にとって最大のネガティブな経験は 父の死である。 父

    • 三美神

      このところ、世界がちょっとだけ 違って見えることに気付く。 私に起こったネガティブな出来事は これまでは、ただの汚点だった。 忘れたいもの、なかったことにしたいもの、 でも取り消すことは絶対に不可能なもの。 脳裏にうかんだら最後、 心が真っ黒な雲に覆われるもの。 今、それが違ってきたのだ。 ネガティブな出来事が想起されたとき、 なんとも言えないいとおしさとともに かなしみと美しさが入り混じった 不思議な何かが 湧き上がってくるのだ。 この湧き上がる何ものかは、 成功や楽

      • さなぎ

        先週末、帰宅したら 玄関先でなかなか派手な姿をした芋虫が 私が大切にしている植物に ぶら下がっていた。 黒・赤でトゲトゲのキャタピラ。 いかにも毒虫っぽかったが よく見るとし「し」の字になって じっとしている。   蛹になる直前だな。 そう思ったら、 むげにぽいと捨てるのが 無粋な気がして、 そっとしておいた。 数時間後見に行ったら、 みごとに蛹化していた。 この蛹には棘があるのだが、 その棘が、なんと輝いている。 私は初めて見るこの蛹の メタルな派手さに驚き、 なん

        • 母と私

          私は自分の子どもがいないので 母ではない。 でも、私の母親はいる。 私にとってはちょっと付き合いづらい 微妙な存在だ。 なぜかぶつかってしまうから。 とはいえ、母は私に 多少歪んでいようとも 愛を注いで育ててくれたとは思う。 父の死後、 私と弟は、当然ながら 母を心配した。 父の最期を発見した母。 父の遺書の宛先となった母。 母は父を亡くして、 一人暮らしとなった。 弟と私は、 親の家から離れて暮らしていたため、 弟と私は父の葬儀を終えた後、 それぞれの生活の場に戻っ

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        美について

          死が遠い時代と神

          現代人の宗教離れが進んでいる。 それについて私は 科学技術が発達して 昔は謎だった色んな事象が 理論的に説明されるように なったからだと思っていた。 しかし、ふと思った。 昔、今よりもずっとずっと 人が簡単に死んだ時代があった。 人々は家で家族に囲まれて死んだりした。 その時代 人の死は今よりずっと リアルで生々しいものだっただろう。 昔の人は、 今より回数が多いからと言って 死に慣れたりはしなかっただろう。 何度経験しても慣れることのない死に対峙するとき 人は神を求める

          死が遠い時代と神

          美術館にて

          なんだか美術館に行きたくなり、 今日は出かけてみた。 特に私はゴッホの作品が気になっている。 私は黙って西洋美術のコーナーに向かった。 そこには、こんな田舎になぜ?と思うほどの たくさんの素晴らしい作品が展示されていた。 気になったものから徒然に 書いてみる。 ミレーの「バター作りの女」が 私を迎えてくれた。 どっしりとした、大きな作品。 薄暗い納屋のようなところで 彼女は一心にミルクを混ぜている。 きっとすぐ近くに牛小屋があるに違いない。 搾りたての牛乳を使ってい

          美術館にて

          美術品の美を考える

          美術品の美しさって、 なんだろう、と考えてみた。 それは人間のによって 作られるもの。 例えば、生きた花などのように 儚くはない。 では、そのように 人が作ったものに なぜ美しさを感じるのだろうか。 見た目の美しさということもあるが、 私は、 儚く失われゆくものを なんとか形あるものに写し取ろうという 心の動きが大きく働くことによって 作品を制作しようという意図が働き、 それが美を産み出す力に なることがあるのではないかと 考えてみた。 絵画のコピーや印刷ではなく 肉筆を

          美術品の美を考える

          醜く美しい

          美について ダンナと意見を交わしてみた。 といっても、投稿を見せてはいない。 ただ投稿のエッセンスを説明したら 彼はめんどくさそうな顔をしていた。 しかし、私が諦めずに 「美を感じる対象の底辺に、かなしみがあるから」 「人間は死を知っているから」 「生花だと思ってみたその花が  実は造花だったと知った時、  ちょっと興醒めする何かがある。  その何かとは、  生花が持つ儚さがない。  枯れるという運命がない。  その一点にあるように思うのよ。」 と説明を続けたところ、

          醜く美しい

          トンボー

          一泊で 実家で一人暮らしをしている 母の顔を見てきた。 父が自死によって世を去ってから 一人になった母に かわいらしい小型犬を飼わせていたが、 その子の寿命が尽きるほどの 年月が経った。 あの子が母を支えた。 私ではない。 私はあの子には死してもなお 足を向けられない気がしている。 私は古い鍵盤楽器を奏するのが趣味だが 実家にも練習用に 古い壊れかけのキーボードを置いている。 実家に出発する前、 記録として録音したいと思い、 私はある曲をかなりしっかり練習していた。

          トンボー

          台風

          風が吹いてきた。 今、台風が近づいているのだ。 以前、ある人が 「台風や雷って、ワクワクする」 と言っていた。 初め、意味がわからなかったのだが 少し自分を探ってみると 思い当たるフシがあった。 苦しみの渦中にある時、 その人は孤独である。 その苦しみをわかってもらうことが 困難な場合が多いからだ。 なぜだと問い続けても 答えはそう簡単には得られない。 しかし、災害は とてもわかりやすい困難で その地域に住む人たち皆が 共有する問題でもある。 そういう意味で、台風や雷

          願うことへの恐怖と嫌悪

          恐ろしい。 「願う」ことが。 昔、強烈に願って それが見事に裏切られたから。 裏切ったのが神だったから。 それが私の呻きの源です。 絶対的存在であった神は 私の期待を裏切ったんです。 少なくとも私にはそのように感じられ、 また喪失という厳然たる事実は どんなに祈ろうが叫ぼうが 変更されることはなかった。 それ以降、夢のテーマは一貫していて 「期待はずれ」だった。 それが神に対するイメージの表れだと 気づくのに数年かかったほどに それほど私は神を信頼していた。 さてさて、

          願うことへの恐怖と嫌悪

          問いに対する答え それは問いの価値

          今日は、2月末に見た、 私にとっては衝撃的な講演会について 記録を書こうと思います。 たまたま見つけた動画配信です。 衝撃というか・・・ 長年の私の苦悶に対する 意味的解答をもらった気がする。 それを長い間、欲していた。 でもそれは、今じゃないと 私には理解できなかったんだと思います。 実は私は教会と一定の距離を置いています。 奏楽はしてるけど、それだけ、 みたいな。 私にとって衝撃的な出来事が起こって以来、 私は神さまとトラブっているからです。 どうしてこんなことにな

          問いに対する答え それは問いの価値

          響振

          自分と同じ心情を持つ人がいたらなあ、 と憧れるのだが、 そういう人は、世界広しといえども いないんだよね。 問いが個別性を帯びているから。 でも、問いが共振する人は、いる。 私はこれを「響振」と呼びたい。 私のこのめんどくさい性質を 理解してくださる方は なかなかいないかもしれないけど 問いが響振する人に出会えたら 嬉しいなと思っている。 あ、響振という言葉は私の造語です。 一般的には「共振」ですね。 ある程度、何かが響振する人として、 特に近頃お世話になっている先生

          若松氏による神谷の「いきがいについて」

          「『生きがい』を失っている人を見出し、そして慰めるのは「生きがい」を失い、再び発見した人である」 と神谷は言う。一般的に「苦しい思いをした人は苦しみの渦中にある人を理解できる」というが、そのとき、意味として感じとれるのは、同じ経験をした者同士の分かり合いというものである。上の神谷の言葉はさらにもう一段上の何かをふんわりと包含しているように思う。 私は自分の経験や、自分が負った病を恥じることこそあれ、それが誰かの役に立つなどとは思えなかった。「神がすべてのことを働かせて益とし

          若松氏による神谷の「いきがいについて」

          喪失からの回復2

          教会で行われる葬儀に参加すると 死後の救いが語られ、 天上での再会が語られる。 それに最終の希望を見出すことが それが遺族にとっての究極の慰めとなる。 翻って、父に関しては 「信じないものはすでにさばかれている。  神のひとり子の名を信じなかったからである」 を根拠と考えると、 究極の慰めは適応されないということになる。 私が信じる神、信頼する大きな存在。 それが、私が愛する彼を裁くという。 それが私の中の大きなギャップとなった。 私の中の神とそのことばは すべて私の心

          喪失からの回復2

          喪失からの回復

          私は長年、父の死という喪失体験から 立ち直れないでいる。 どうしてこんなことが起こるんだろう。 「なぜ」という疑問でいっぱいの15年を過ごしてきた。 そんな折、2021年の末に 突然私の目の前に、 ある「答え」らしきものが現れた。 それをつかみかけている。 「ありふれた祈り」に登場するルースは 私と同じ性質の葛藤を抱えていた。 読んだ直後、 偶然にしてはあまりにもできすぎなタイミングで、 若松英輔氏の語りをテレビで聞いた。 私は突然天上から照らし出されたような気がした。

          喪失からの回復