山極壽一『共感革命/社交する人類の進化と未来』
☆mediopos3273 2023.11.3
山極壽一『共感革命』の
前提となっている基本的な視点は
人類には言葉を獲得するという「認知革命」が起きたが
そのまえに「共感革命」があったということである
しかし本書のいちばん最初に書かれていることは
「共感によって進化した人類は、
今、共感によって滅ぼうとしている。」
ということであり
あえて戯画的にいえば
「バカとハサミは使いよう」とでもいうように
人類は「共感能力」を得ることで進化してきたが
今やそれが破壊的な未来をもたらそうとしている
ということになる
人類はサルや類人猿とは異なった
「共感能力」を持ちえることによって
現在のような人類になった
共感(エンパシー)だけならサルや類人猿にもあるが
同情(シンパシー)さらにはコンパッションとなると
サルや類人猿にはない
コンパッションとは
「みんなで助けようという気持ち」であり
その前提となるのが「視線共有」である
つまり「誰かがある方向を指差したとき、
その方向にみんなが目を向け、
その時に何が起こっているかを瞬間的に共有できる」
ということ
サルや類人猿は基本的に
「食物は見つけた場所でしか食べないし、
離れた場所にいる仲間に分配することもない」が
人類は直立二足歩行を始めたことによって
「自由になった手で食物を安全な場所に持ち帰り」
「持って来た仲間を信じ」
「仲間と一緒に食べる」といった
互いに信頼感を持ち得る存在となり得た
人類が人類になり得た「共感革命」である
私たちはそれ以来
「「共感」によって他者とともに暮らしてきた」のだが
その能力を「別の集団に対する
敵意という形で利用」することで
「自分たちの集団は結束できる」ものの
「暴発した共感力は、
戦争や他の集団との争いにつなが」ってしまう
まさに「バカとハサミは使いよう」で
手にした「能力」と「技術」は
容易に悪用されてしまうということである
そして悪くすると
悪用されているということにさえ気づけず
知らずそれに加担してしまうことにもなる
本書で熱く語られるのはいってみれば
「共感」を善き方向で使っていかなければ
人類は破滅的になってしまいかねない
ということなのだが
どうすれば善き方向へと
人類が進むことができるのかという
指針のようなものが本書で示されるのは
「共感力は小規模な社会でしか通用しない」から
「人間が持つ、動く自由、集まる自由、対話する自由
という三つの自由をうまく使いながら
小規模な集団をつなげていけばいい」
というくらいのことに留まっている
「バカとハサミ」を
どうしたら悪用されずに
創造的に用いることができるか
それはまさに喫緊の課題ではあるのだが
その問いを発する人間が
ある一定の数以上を占めるようにならなければ
人類は「類」としては
「共感」がネガティブなかたちで
「悪用」されることは避け得ないかもしれない・・・
■山極壽一『共感革命/社交する人類の進化と未来』
(河出新書 067 河出書房新社 2023/10)
(「はじめに」より)
「共感によって進化した人類は、今、共感によって滅ぼうとしている。」
「人類の繁栄は、約七万年前の言葉の獲得が大きな起点だったとされている。言葉の獲得によって「認知革命」が起き、現在までの発展につながったというのだ。
しかし私は、この「認知革命」の前に、もっと大きな革命があったのではないかと考えている。それは「共感」による革命だ。人類は「共感」によって仲間とつながり、大きな集団を形成し、強大な力を手にした。「共感革命」こそが、人類史上最大の革命だったのではないか。
そうやって進化したはずの私たちだが、現在、大きな危機に瀕している。
人間の本性は暴力的だと思い込み、いつの間にか争いが当たり前になってしまった。同じ種でありながら憎み合い、殺し合う。仲間を仲間と認識せずに排除する。(・・・)人類を進化させたはずの共感が暴走する時代を迎えているのだ。
だが、思い出してほしい。
(・・・)私たちが二足歩行を選択したのは、仲間の存在、気持ちを想像し、仲間のために離れた場所から食物を運ぶためだ。それは弱みを強みに変える人類特有の生存戦略の出発点だった。それ以来私たちは、長い間、「共感」によって他者とともに暮らしてきたのだ。」
「今こそ「共感」の起原、歩んできた歴史を見直し、新たな未来への第一歩を考えていきたい。」
(「序章 「共感革命」とはなにか————「言葉」のまえに「音楽」があった」より)
「歴史は繰り返すと私たちはよく口にする。しかし今こそ、歴史の繰り返しを止めないといけない時期だ。
資本主義経済と自由主義が科学技術によってサポートされ、後戻りできない場所まで来てしまった。私たちがここまで来たのは、ある面では進歩の結果かもしれないが、間違いの結果でもある。その一番典型的なものが戦争だろう。地球環境破壊が進んでしまったのも、あるいはもっと身近なレベルでいえばいじめだって、歴史のどこかで人間が間違えたから起こったものだ。我々はどこで間違えたのかを、真剣に考え直さなければ、未来は拓けない。」
「政治家はよく二つのことを言う。「後戻りはできない」「あなたの言っていることは絵に描いた理想」だと。でもそれは違う。後戻りはできるし、私たちは理想を掲げなければ前には進めない。人類は言葉を持ち、その言葉によって虚構をつくった。より豊かな未来を虚構によって描きながら進んできた。言葉のない時代と言葉のある時代では、進むスピードが全く違う。言葉のない視覚優位の世界では、現物を見なければ納得できなかったのに、言葉ができてからは、現物を見なくても情景が描けるようになった。しかしその虚構は、やがて科学技術と手を組み、地球環境の破壊へと進んでしまった。
今、改めてリアルな世界と通じる虚構をつくらなくてはいけない。これまで人類が描いてきた虚構は間違っていた。だから私たちは過去に戻り、これまでとは違う別の虚構をもう一度つくり直し、未来を変えなくてはいけない。」
(「第一章 「社交」する人類————踊る身体、歌うコミュニケーション」より)
「人類の共感能力は、直立二足歩行を始めたことによって高まった。」
「直立二足歩行による世界の拡大は、人類の進化にとって相当大きな出来事だった。直立二足歩行によって自由になった手で食物を安全な場所に持ち帰り、仲間と一緒に食べる。そうすることにとって、これまでにはない社会性が芽生えた。自分で獲得したわけではない食物を食べる経験によって、見えないものを欲望できるようになったのだ。」
「サルや類人猿を観察していると、基本的に食物は見つけた場所でしか食べないし、離れた場所にいる仲間に分配することもない。(・・・)しかし人類は、自分の目だけを信じるのではなく、持って来た仲間を信じて食べるという、信頼感を持っている。」
「人類は何万年もかけて、共感力を育て上げてきた。
小規模な社会で共感力は発達史、大きな社会を構築していく上で、巨大な力を発揮した。だが、共感力は大きな効用とともに残酷な悲劇をももたらした。その能力は方向を間違え、戦争のような取り返しのつかない事態を招いてしまった。
人類の間違いのもとは、言葉の獲得と、農耕牧畜による食料生産と定住にある。
長い間、人類は個人の所有という概念を持っていなかったし、定住もしていなかった。」
(「第七章 「共同体」の虚構をつくり直す————自然とつながる身体の回復」より)
「私はまず、資本主義の基になっている還元主義的な考えを改めるべきだと思う。それには人と人、人と自然つながりを再認識することが必要だ。これまで私たちは自然から距離を置き、自然を操作可能なものとして搾取し、利用してきた。果ては人間自身も、自分の臓器や心までも改造しようとしてきた。
その際、私たちはとった方法は、対象を分類して部分別に切り分け、それらを徹底的に分析してそれぞれの機能を高め、ある目的のために統一して機能を発揮させるように仕向けることだった。しかし、これまで見てきたよういに、自然も人も部分に切り分けられるものではなく、すべてが繋がり合って影響を与え合っていると考えるべきなのである。」
「これまで人類は、科学技術に頼って個人の欲求を満たし、個人の能力を拡大するように技術を使ってきた。これが現代における生き方で、その典型が自己実現、自己責任論だ。まわりに迷惑をかけなければ個人の実現を目指して何をやってもいいという思想が広まった。自分がやったことは自分で責任を持ちなさい。自分が成功したら自分で褒めてあげなさい、というのが一九八〇年代から現代にまで行き渡った思想である。
しかし、それではもう生きられなくなってきている。迷惑を掛け合ってもいい、という社会に戻さなくてはいけない。社会の至る所にひずみができ初めて、格差が広がっている。能力の違う者同士が助け合って、自分にはできないことを他人にやってもらい、他人にできないことを自分が率先してやり、協力し合って生きていく。」
(「終章 人類の未来、新しい物語の始まり————「第二の遊動」時代」より)
「人間の共感力は高めることが可能なのかと問われれば、十分可能だと私なら答える。」
「共感力だけならサルにもある。しかし人間の場合はそこに認知能力が加わり、共感力をより高く発達させた。
共感と同情は違うものだ。共感は相手に共鳴し、相手の気持ちがわかることを指す。英語で共感は「エンパシー」で、同情は「シンパシー」になる。シンパシーは共感の上に成り立つものだ。進んで自分から助けることが相手のためになる、とわかっていないと成立しない。
(・・・)
さらにもう一段階、認知能力が上がると、今度は「コンパッション」になる。つまり一人ではなく、みんなで助けようという気持ちが湧いてくるのだ。人間は誰かがある方向を指差したとき、その方向にみんなが目を向け、その時に何が起こっているかを瞬間的に共有できる。(・・・)「視線共有」だ。これがサルや類人猿にはできない。
誰かがある方向を見ていると理解し、みんなが視線と同じ方向を共有し、その場で何が起こっているのか理解した上で、みんなと一緒に行動しようという考えを人間は持つ。このコンパッションに至るまでは人間の共感力だ。(・・・)
共感力は、心や体の成長とともに、経験を積むことによって身についていくものだ。人間はサルと違い、元々そういう能力を持っていて、その能力はだんだんと成長していく。」
「共感能力と認知能力は違う。共感能力とは、相手の気持ちを感じること、認知能力は相手の考えや意図を知ることだ。本来はそれぞれ違う能力であって、人間はこの二つをそれぞれ発達させて合体し、コンパッションという相手を思いやる気持ちと行為を生み出した。相手のシチュエーションが自分とは違うことを認識し、自分がどう振る舞ったら相手の役に立つかを想像できるようになったのだ。
反面、共感力は悪いことにも使えてしまう。相手の気持ちがわかるからこそ、相手をいじめてやろうという方向にも進みかねないのだ。共感力を高めたことは、人間にとって利益をもたらすだけではなく、ネガティブな結果ももたらしている。相手がどういう気持ちを抱くかがわかるから、気に食わない相手を陥れることも可能になってくる。ここにパラドックスが生まれてしまう。」
「やはり、人類は虚構の使い方を間違えたのだろう。
もちろん使い方を間違えなければ、虚構は人類に幸福をもたらすこともあるし、これまでもその恩恵の中にあった。
しかし、そのために私たちは、強い倫理感を持たなければならない。そうでなければ、恩恵へとフリーライダーも出てくるし、邪なことを考える人間も出てくるだろう。
科学技術も本来は人間に恩恵をもたらすものだった。
(・・・)
科学技術は使い方を間違えると大きな災厄になる。(・・・)新しい技術を開発すればするほど、技術が悪いことに使われる可能性をもう一方で考え、賢く使わなくてはいけない。これまでその規制ができなかったことを深く反省しなくてはいけないだろう。」
「元々、共感力は小規模な社会の中で、人々が助け合って生きるために大きな力を発揮した。しかしその能力は別の集団に対する敵意という形で利用されてしまった。敵意を共有できれば、自分たちの集団は結束できる。そうやって暴発した共感力は、戦争や他の集団との争いにつながった。そんな歴史の苦い教訓が常に私の脳裏にある。
共感力は小規模な社会でしか通用しない。それが集団の外や大規模な社会では違う目的で使われてしまうことを肝に銘じないと、うまく使いこなせないのだ。」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?