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田村正資「あいまいな世界の愛し方3.麻雀AIは牌山に祈りを捧げるか?」(『群像』)/ディック『偶然世界』/マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か? 』/紀田順一郎『日本賭博史』

☆mediopos3744(2025.2.18.)

田村正資の連載「あいまいな世界の愛し方」
第3回は「麻雀AIは牌山に祈りを捧げるか?」

ゲームや賭け事などとも関係した
偶然性と祈りについてである

田村正資はその著書『問いが世界をつくりだす』で
メルロ=ポンティを手がかりに
「世界の根源的偶然性」について論じているが

今回は「もう少し下世話な偶然性の話」である

田村正資は毎週ロト6を買い続けている

「僕の人格や日頃の行い」
「自分の努力や時代の趨勢とはまったく無関係に
「なにか」が起こるかもしれないという予感」からだという

「なにか」が起こるかもしれない・・・
ひとはそこに「偶然性」を見出す

自分の力の及ばない変化に対して無力であり
とくに逆境に置かれたとき
「なぜこういう運命を甘受しなければならないのか」
という問いのなかで
その「偶然性」は強く意識される

しかし順境のときには
「自分が「たまたま」そうなる運命だったと考える以上に、
自分は「努力・能力のゆえに」
これを達成したのだと考える傾向がある」

マイケル・サンデルは
そうした「自らの偶然性を
都合良く読み替えてしまう私たちの傾向性」を批判している

そして著書『実力も運のうち』で
行き過ぎた能力主義を批判し
「米国の大学入試問題に「くじ引き」を
導入してみてはどうかと提案」していたりする

「環境の偶然性に大きく左右される「能力」を
道徳的な優劣に置き換える能力主義への批判」である

フィリップ・K・ディックに
『偶然世界』という
「もはやサイコロを振って祈ることしかできないほどに
解析され尽くしたゲーム空間を、
そのまま私たちの世界と重ね合わせようとした作品」がある

「階級差や能力差がもたらす人生への影響が可視化され、
ひとりひとりが人生において採りうる選択肢とその期待値が
わかりきってしまうほど最適化された社会において、
人々は自分の人生がたまたま「上振れる」ことを
祈るしかない。」

「ゲームの中身が解析され尽くしてしまえば、
そこは偶然に任せた「祈り」の場に変じてしまう」
のである

田村正資はその視点から
「最終的には祈るほかないのだと
結論が出てしまったゲームの虚しさに
私たち人間が耐えることができるのだろうか」
と問いかけている

「偶然性」とも関係した
紀田順一郎『日本賭博史』が先日文庫化されているが
(一九九六年に桃源社から刊行されていたもの)

人類は社会の成立そのものにむすびつき
太古の昔から「賭博」をはじめていたようだ

「未来を測ることができない」がゆえに
「予言」は生まれ
局面を切り開き運命を展開させるため
「賭け」ることをはじめ
「予測」し得ないそれらに対して「祈り」が生まれた・・・

個人的な話になるが
いまでは宝くじを買ったことさえないほど
賭事をすることにはほとんど関心はないのだが
子供のころにはよく
賭けやクジ引きといったことに
とらわれすぎたりすることがあった

おそらく魂の過去に
賭博的な傾向があったのかもしれないとも思うのだが
不思議なことに「競争」的なことには
まったく無頓着だったりもする

マイケル・サンデルのような
能力主義批判を意図していたわけではないが
予測し得ないにもかかわらず
「偶然性」のなかに
みずからの「運」を託すことで
なにかを見出そうとしていたのかもしれない

結局のところ
「偶然性」に対して
個人の能力や努力はまったくの無力であり
最後には「祈り」しかない
ということになるのだろうし
その「祈り」にも
なにがしかの力はあるのかもしれないが

おそらく「偶然」というのは
いうまでもなく通常の悟性的な範囲を越えてはいるが
認識力の欠如であるということもできる

カルヴァンの予定説のような意味ではないが
「運命」というのは
生の深みにおいて決まっているということでもある

私たちは自分の「運命」を知らずにいるのである
「運命」を展開させるためには
能力を磨き努力を続ける必要もあるのだが
それもおそらく「運命」に組み込まれている

現在ぼくが賭事に関心をもたず
ひととの比較に無頓着なままでいるのもまた
そうした「運命」のひとつなのだろう
「なるようになる」
あるいは「ならないようにはならない」ように

田村正資の買い続けているロト6の結果も
おそらくはすでに決まっているのだろうが
田村氏はその結果を知らずにいる

それもまた
「あいまいな世界の愛し方」のひとつだといえる

■田村正資「あいまいな世界の愛し方
      3.麻雀AIは牌山に祈りを捧げるか?」
 (『群像2025年3月号』)
■フィリップ・K・ディック(小尾訳)
 『偶然世界』(ハヤカワ文庫 1985)
■マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『実力も運のうち 能力主義は正義か? 』
 (ハヤカワ文庫NF 2023/9)
■紀田順一郎『日本賭博史』(ちくま学芸文庫 2025/2)

**(田村正資「あいまいな世界の愛し方」)

「毎週、月曜日と木曜日の二一時過ぎになったら銀行のアプリで「くじ」のページを開く。週に二回行われるロト6の抽選が終わり、当然金額が発表されている。一口二〇〇円で、一等が当たると二億円、最低の五等は一〇〇〇円がもらえる。僕は抽選日が来るたびに五口ずつ、毎週一〇口をもう何年も買い続けている。」

「これは確率や期待値の問題ではなく、偶然性の問題である。」

「私たちの生活を————良い意味でも、悪い意味でも————切り裂く力をもっているもののなかに、ひとは「偶然性」を見出す。いつか白馬に乗った王子さま(一等賞金・二億円)が現れて自分の生活を一変させてくれるのではないか、そんな妄想を自分のなかに養い続けるために僕はロト6を買っている。(・・・)自分の努力や時代の趨勢とはまったく無関係に「なにか」が起こるかもしれないという予感だけが大事なのだ。ロト6のような宝くじが当たることと、僕の人格や日頃の行いは一切関係がない。」

「今回のエッセイでは、日々の生活にくさびを打ちこむ偶然性について考えてみたい。このテーマには、拙著『問いが世界をつくりだす』でもメルロ=ポンティを手がかりに取り組んでことがあるが、そのときに論じたのは「世界の根源的偶然性」みたいな、ちょっと大袈裟な切り口の偶然性だった。だから今回は、もう少し下世話な偶然性の話をしてみたい。」

「二〇一〇年代の中ごろから、学術書や新書の前書きで「VUCA」という言葉をよく見かけるようになった。VUCAというのは、現代において、私たちの社会が短期間で大きく変化したり、経済のメカニズムがものすごく複雑になって先の読めない不確実性を抱えていたりすることを指す英単語の頭文字を並べたものだ(Volanyility,Uncertainty,Complexity,Ambiguity)。たとえば新型コロナウイルスがもたらした世界的な変化とそのスペード感は、VUCAを象徴する事例と言えるだろう。直近で言えば、ChatGPTの登場で火が付いた生成AIブームなど、リアルタイムで社会に大きな変化をもたらしている。

 あらゆる要素が複雑に絡み合った社会で、この先新型コロナウイルスや生成AIのようなものが登場したとき、どんなふうに世界を開けていくのかを予想することはできない。もっと言えば、新型コロナウイルスや生成AIによって世界が現にどんなふうに変わっているのかさえ見通すことは難しいし、日本で生きるのであればいつまた大きな地震や津波に見舞われるかもわからない。いまも世界のどこかで行われている戦争が、戦火をさらに拡大させていくかもしれない。いま挙げたような出来事はいずれも、個人でどうにかできる範囲を大きく越えて私たちの生活を脅かす。場合によっては致命的なかたちで。にもかかわらず、そのメカニズムや理路はあまりにも複雑過ぎるため、個人にとっては「たまたま」そうなってしまったと思うしかないものばかりだ。「時代ガチャ」とでも言おうか、個人はそうした時代の流れに翻弄されながら生きていくしかない。」

「社会的な領域の手触りがあいまいになり、自分ひとりの力では生活を変えることはできない、と自己効力感が失われたとき、偶然性が強く意識されることになる。自分の境遇とはまったく無関係な宝くじの偶然性にはまだ爽やかさが感じられるのに対して、生まれた国や地域、時代、家庭環境といった自分の存在と切り離すことのできない偶然性の認識には痛みがともなう。逆境に追い込まれたとき、「どうして自分がこんな目に遭うのだろう」と自問自答してみても、この「どうして」には誰も答えることができない。(・・・)「どうして」と問いつづけた先に待ち受けているのは、自分が「たまたま」こうなる運命だったのだ、という堅くて高い偶然性の壁だ。」

「ただ興味深いのは、こうした偶然性がより強く意識されるのは、自分が苦しい立場に置かれたときだということだ。充実していて、自分がやりたいことを実現できているとき、ひとは自分が「たまたま」そうなる運命だったと考える以上に、自分は「努力・能力のゆえに」これを達成したのだと考える傾向がある。『実力も運のうち』でマイケル・サンデル(・・・)が行った能力主義批判は、自らの偶然性を都合良く読み替えてしまう私たちの傾向性をするどく突いたものだった。」

「フィリップ・K・ディックの作品のなかに『偶然世界』(一九五五年)という作品がある。」

「『偶然世界』の魅力は物語のプロットや展開よりもその世界観に————私たちがもはや偶然性にすがるしかないほど最適化されてしまった世界が描かれているところにある。ディックの世界観を裏で支えているのは、ジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンによって開拓された「ゲーム理論」と呼ばれる学問分野だ。ゲーム理論の嚆矢とされる二人の著作『ゲームの理論と経済行動』が出版されたのは一九四四年のことだが、ディックは一九五〇年に出版されたジョン・マクドナルド『かけひきの科学:ゲームの理論とは何か』の一節をこの作品にエピグラフとして添えている。」

「ゲーム理論は、複数の主体が行う判断や行動がお互いの結果にどんな影響を及ぼし合っているのか、それらが相互に絡み合った状況を数学的なモデル化を施して研究する学問である。」

「ディックがマクドナルドの著書から引いているのは、自分の採りうる戦略のパターンがすべて相手に透けてしまっている状況で被る損害を最小化するために、どんな考え方を採用すべきなのかを述べている部分だ。(・・・)限定的なルールのなかで行われるゲームであれば、お互いの採りうる選択肢も、それぞれの選択肢に対してどう対処するのがベストなのかもわかりきっている場合がある。(・・・)お互いに集中力を切らさずにどこまで最善手を指し続けられるかを競い合うゲームにおいて、最後には「祈る」時間が増えていく。というのも、相手にミスをさせるためには、自分の方針をギリギリまで明かさないように振る舞うことで、なるべく臨機応変な対応が求められる状況に相手を追い込むことが必要なのだが、それはもはや考え得る最善手がそれぞれの目に記されたサイコロを振ることとなんら変わらないかただ。この「祈り」は、ゲーム理論における「混合戦略」と呼ばれる考え方と重なりあう。」

「「フィリップ・K・ディックの『偶然世界』は、もはやサイコロを振って祈ることしかできないほどに解析され尽くしたゲーム空間を、そのまま私たちの世界と重ね合わせようとした作品である。階級差や能力差がもたらす人生への影響が可視化され、ひとりひとりが人生において採りうる選択肢とその期待値がわかりきってしまうほど最適化された社会において、人々は自分の人生がたまたま「上振れる」ことを祈るしかない。」

「ゲームの中身が解析され尽くしてしまえば、そこは偶然に任せた「祈り」の場に変じてしまう。ディックの作品を通じて僕が思い起こすのは、麻雀が好きだった大学の同級生のことだ。この友人は人並み以上に麻雀というゲームを好み、熱中していたのだが、それ故にたどり着いたひとつの「虚しさ」を吐露していた。彼によれば、麻雀の勝率を上げるためには「牌効率」(どの牌を切っていけば最速でテンパイできるか)と「期待値」(牌を切り続けていったときに獲得できる、もしくは失う点数の見込み)の計算を極めていく必要がある。しかし、プレイヤーたちがその計算を極めて最適化していった果てに待っているのは、牌の山が積まれた瞬間に誰がどのように勝利するかが決定されていて、その「理想的な結末」を実現するためにプレイヤーたちが無心で牌を切り続ける世界だというのだ。そうなったとき、「自分はもはや麻雀を打っていると言えるのだろうか」。そう真剣に訴える彼の表情が思い出される。」

「最適化されたプレイヤーたちが、ただ牌山を崩してあらかじめ決定された勝敗を実現していくだけの光景は、ゲームを解析し尽くしたAI同士の対局というかたちですでに再現可能なものになっているかもしれない。このとき、プレイヤーとしてのAIたちはいったい何をしていることになるのだおるか。『偶然世界』の解釈と結びつけるのであれば、AIたちは、ただ祈っているのだ。自分が牌山に選ばれた側のプレイヤーであることを。自分がベストを尽くした末に勝利が待っていることを。」

「最終的には祈るほかないのだと結論が出てしまったゲームの虚しさに私たち人間が耐えることができるのだろうか。先ほどの話題に出したサンデルは、『実力も運のうち』で行き過ぎた能力主義を批判する際、米国の大学入試問題に「くじ引き」を導入してみてはどうかと提案した。環境の偶然性に大きく左右される「能力」を道徳的な優劣に置き換える能力主義への批判は至極まっとうなものだ。とはいえ、「偶然に任せることで、能力のおごりをくじこう」(マイケル・サンデル『実力の運のうち』)という提案の極北にあるのは、最適化された世界で誰もが「祈るAI」と化したディックの『偶然世界』かもしれない。「人事を尽くして天命を待つ」と言うには、いささかディストピアが過ぎるというものだ。」

「ここまでいくつか例を出しながら、偶然性との付き合い方について論じてきた。はじめに、偶然性のことを「気まぐれなパートナー」と言ったが、むしろ偶然性を気まぐれに扱っているのは私たちの方かもしれない。偶然性は、私たちのありきたりな人生にひと味加えるスパイスになることもあれば、決して克服することのできない壁として立ちはだかることもある。いずれにせよ、偶然性というのは単なる確率的な事象のなかに見出されるものではなく、私たちと世界との関わり方のうちに見出されるものだと言うべきだろう。」

**(紀田順一郎『日本賭博史』)

「未来を測ることができない、というのは、人間の経験ではなく、おそらく本能であろう。その本能がおそれているにかかわらず、人は未来に賭けねばならぬ。これが生活の必然というものである。

 その場合、彼の相手は自然じたいである。時として恵みぶかいみのりを与え、つぎの瞬間には荒々しい暴威をふるって、生命の営みを脅かす。建設と破壊、この二つの相反する属性を一身に兼ね備えた自然である。

 人は、その破壊性をなだめようとする。逃れえぬものならば、破壊の到来する時期についての知識を得ようとする。「祈り」と「予言」の発生である。

 賭けの対象たる自然は、人間に対して絶対的な優越性をもっている。人間は「吉」「兇」いずれの予言も、あたえられたものとして甘受せねばならない。文字どおりの運否天賦である。人がこの賭ける行為の中に、局面をきりひらく、運命を展開させるという意味をふくませるためには、なお一層の飛躍が要求された、

 それを可能にしたのは、おそらく制度の発見であろう、自然と異なり、制度は人為的に変革することができる。賭けの相手は彼と対等になるのだ。また見逃しえないことは、制度に守られた彼がゆとりの心をもって、自然と対決できるようになることだ。すくなくとも占いや祈りの意味は変わってくる。神明裁判の場において、かたむいたハカリの重みには、もはや自然じたいがかかっているのではない。もっと別の意味が「賭」かっているのである————たとえば正義というような。」

「人類がいつから賭博をはじめたか、という問題は、彼らがいつルールを発見したか、というように問い直されねばならない。そして、この解答は人類社会の成立そのものに結びついて存在している。」

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