見出し画像

四方田犬彦『いまだ人生を語らず』/吉田健一『思い出すままに』/水原紫苑『春日井建/「若い定家」は鮮やかにそののちを生きた』

☆mediopos-3138  2023.6.21

エッセイ集『人、中年に到る』から13年後の2023年
1953年生まれの四方田犬彦は70歳

「歳を取ろうとしているわたしは、
はたして聡明になったのだろうか、
幸福になったのだろうか」と

エッセイ集『いまだ人生を語らず』を書き下ろし
「忘却」「記憶」「読むこと」「書くこと」「勉強」
「音楽」「詩作」「犬」「幸福と若干の後悔」
「スープと復讐」「もう一度行きたい、外国の街角」
「秘密」「病」「信仰」「死」など
「中年」から「老年」へと向かっている
現在の四方田氏が自らに問いかけている

その最初の章「老年にはなったけど・・・」に
吉田健一が
「老人ということでただ唯一面倒なのは、
生まれてきてあっという間に
老人になれるものではないということだ。
老人になるにはひどく時間がかかる。
それが面倒だ」
としていることが紹介されているが

(『思い出すままに』で吉田健一は)
「早く年取ることが出来れば」と述べている)

その吉田健一が亡くなったのは六十五歳
現在の四方田氏より五歳も若く
「わたしはすでに彼の享年を越えながらも、
まだその老年のことがわからないのである。」と語る

ぼくもいまちょうどその六十五歳なのだが
同様に老年のことはまだよくわからないでいる
おそらく七十歳になっても同じだろう

しかしひとつだけ言えるのは
あくまでも個人的なことだが
五十五歳を越えた頃になってようやく
なにかそれまでにはわからないなにかが
(それは言葉にはならないのだけれど)
感じられるようになってきたということだ

歳の取り方はひとそれぞれだろうが
歳をとっていかなければわからないことも
おそらくはそれなりにある

こうして足かけ10年のあいだ
ほぼ毎日書いているmedioposやphotoposも
もう一人の自分から促されるように続けているが
そうすることでいまの自分には見えていないなにかを
見つけられたらという願いもそこにはある

本書の「幸運と若干の後悔」の章で
寺山修司について
そして歌人の春日井建についてふれられている

三島由紀夫は歌集『未成年』を刊行した当時二十一歳の
春日井建を「一人の若い定家」と呼んだという

春日井建は三十二歳で歌と訣別し
あらためて歌の世界に帰還し
亡くなったのが吉田健一と同じ六十五歳である

歌人の水原紫苑はその春日井建について
「歌に見染められた六十五年の生涯は、
まさに「劇しき」ものであった。
「若い定家」は鮮やかにそののちを生きたのである。」
と評しているが

ここで四方田氏は
「競馬を知らずに生きたことは、
わたしの後悔のひとつである。」と語り
「賭け事をめぐっていかなる代価も支払ったこと」
がないことを後悔している

つまりある種の体験を通じて生きることで
得るものをじぶんは得ることができていない
という後悔なのだろうが

春日井建が
「若い定家」の「そののちを生きた」のも
若きみずからへの「後悔」を
あらたに歌で生きようとしたのかもしれない

じぶんのなかにそんな「後悔」があるかを自問してみる
いうまでもなく数えきれないほど思いつくけれど
四方田犬彦の書名「いまだ人生を語らず」のごとく
すべては「後悔」もふくめ現在進行形である

はたしてこれからなにが見えてくるか
あるいは見えないまま「後悔」ばかりすることになるか
「人生を語」るほど
いまだ道は見えてはこない・・・

■四方田犬彦『いまだ人生を語らず』(白水社 2023/6)
■吉田健一『思い出すままに』(講談社文芸文庫 講談社 1993/7)
■水原紫苑『春日井建/「若い定家」は鮮やかにそののちを生きた』
 (笠間書院 2019/7)

(四方田犬彦『いまだ人生を語らず』〜「老年にはなったけど・・・」より)

「一九五三年生まれのわたしは二〇二三年に七十歳になった。これまでは老人見習いのような感じであったが。これからは本格的に「高齢者」の域に突入する。さあ来たぞ。来るなら来い・
 そこで現在自分が人生観、世界観(というとあまりに厳粛な感じがするので、そういいたくはないが、要するに毎日の普通の心構え)を整理して纏めておきたい。

 かつてわたしにとって憧れの老人であった吉田健一は、生きていて一番いい時期は老年であると書いた。わたしが学生時代から『時間』や『思い出すこと』、『時をたたせるために』といった著作を愛読していて、彼が繰り返し老人になることの心地よさを説いていることに感銘を受けていた。
 吉田健一は書いている。老人ということでただ唯一面倒なのは、。生まれてきてあっという間に老人になれるものではないということだ。老人になるにはひどく時間がかかる。それが面倒だと、彼はいった。
 信じられないことだが、ヨシケンは六十五歳の若さで逝去している。風邪気味だったのを少し無理してロンドンとパリに向かい、留学先の娘を訪ねて東京に戻ってきたところ、風邪がこじれて肺炎となり。そのまま亡くなってしまったのだ。何ということだろう。今のわたしよりも五年も若い。わたしはすでに彼の享年を越えながらも、まだその老年のことがわからないのである。

 『人、中年に到る』を一気に執筆したのは二〇一〇年の一月から三月にかけてのことであった。わたしはオスロ大学に招かれ、日本文化について講義をすることになった。その期間、日本から解放されたわたしは、この書物の執筆に集中したのである。」

(四方田犬彦『いまだ人生を語らず』〜「幸運と若干の後悔」/「後悔1 競馬の快楽を知らずにいたこと」より)

「生前の寺山修司は、いつも何かをしていないと落ち着かない人物だった。合田佐和子の回想によると、彼は「五分間でも空いた時間があると、どうしていいのかわからないから、忙しくしているのだ」といっていたという。自転車を漕いでいるのと同じで、立ち止まった瞬間に転んでしまうのだ。
 寺山は詩集歌集を含め、生涯に百四十冊もの書物を書き、芝居を演出し、映画を監督した。そしておびただしいエッセイを執筆し、対談や共同討議に参加して、四十七歳の生涯を終えた。彼はまた傑出した競馬評論家であった。
 わたしは彼のことを羨ましく思う。わたしがついに接近することのなかった情熱を体験していたからだ。わたしは馬が好きだし、その存在のあり方に高貴なるものを感じている。にもかかわらず競馬場に足を運んだこともないし、いわんや馬券を買ったこともない。
 年長の友人である植島啓司は、競馬とはスルものであると説いている。人は競馬で必ず負ける。だがそれは実人生における敗北の軽いシミュレーションにすぎず、人はこのシミュレーションを重ねることで、より深刻な敗北に対する処し方を学ぶことになるのだ。
 おそらく植島の考えは正しいのだろう。彼はそれだけの代価を支払っているからだ。だが、賭け事をめぐっていかなる代価も支払ったことのないわたしには、それに和すだけの資格と権利がない。
 「凶行(まがごと)の愉しみ知らねばむなしからむ死して金棺に横たはるとも」
 春日井建はかつてそう詠んだ。競馬を知らずに生きたことは、わたしの後悔のひとつである。」

(吉田健一『思い出すままに』〜「Ⅻ」より)

「未熟である状態に最も欠けているのが時間の観念であると考えられる。既に早く年取ることが出来ればと思うことがどこか遠い先に自分が望む自分というものを置くことでそれならば現在は無我夢中のうちに過ぎ、その前後には空白があるばかりである。それでも時はたって行くことを我々は若いうちは知らずにいる・併し時間の経過を意識しないでいる為に時間が止まることはないのでその刻々に自分がいることに次第に気付くようになることで我々は大人の閾に近づく。それは我々がしたいことをするとか無智が知識で少しずつ埋められるとかいうことにも増してであって寧ろ時間の経過に気付くことで自分がしたことや知ったことが初めて自分のものになる。(…)
 年を取ることで変わるのではなくてそれだけ自分になって行くのである。まだ若いうちはその自分というものも不確かでどこまでが自分であるのか解らないのみならずこれを自分が努力する方向に変えて行けるという考えがあるからそれだけ事態が収拾し難い。これを庭前の梧葉風に言えば切磋琢磨という言葉も出来ていてそれが到底やれそうもないことという感じが必ずしもするものでもないので自分と呼べるものがあるのが又先のことになる。併し幾ら努力しても、或は踠いても自分以外のものになることは許されないのでそれが朧気にも頭に染み込んで来て漸く自分がいる辺りが見えて来る。或は少なくともそうとでも言う他ない。」

「若いうちというものが去っていつ人間が年を取って大人になるかということは人間の銘々が自分に即して考える他ないことのようである。今思い出してみると若いうちにこうであると思ったことはただそれだけを取り上げるならば凡て嘘だったという気がする。もし為にするということをそういう意味に用いることが許されるならばそれは何かの為にということがあって思ったことばかりでその仮設の必要がなくなれば直ぐに忘れられた。それが多種多様だったことも嘘の証拠で一人の人間に解ることはそう幾つもあるものでない。或は何れも世界を映して世界に繋る考えというものは人によって形は違っても幾つもあるのではなくていつ頃からのことなのか読むに値するものを書いた人間が言っていることはどれも際立った特色があるものでないことに気が付いた。或る種の味というようなものが共通でさえあって世界というものが一つしかない時にこれはそのことに気付くのに時間を随分掛けたことになる。
 併し時間を掛けるというのは何にでも必要なことであるらしい。」

「人間が成長することで次第に子供の状態から遠ざかって智能その他が複雑なものになるというようなことはない。或はその複雑は人間が生きて行く上で課せられる各種の条件に応じる為の複雑で更に子供というのもそれならば充分に複雑なものなのであってただ大人はその能力を用いることに熟しているだけ寧ろ単純なのである。もし考えずにただ平静な意識で何かするならばその為に精神がどれだけ複雑な働き方をしていてもそれは単純な行為なので意識もそれをそう受け取る。」

「そういうことから老後というのを風雨、波浪に存分に痛め付けられてから達する安息の地、港と考えるのは必ずしも当たっていない。それならばそれは苦労を散々した後である故にもう休んでもいいということになってただ後で少しばかり休めるから苦労することはない筈である。ここでお座なりに頼ることものないので世間並に立身出世とか今日風に何かの形で勲章を貰うとかいうことも人間が成熟し、老成する目的である訳がなくて人間には成熟すること自体の他に目的がない。それは人間であるから人間になることであってそれが簡単なことではないから若いうちというのが長い間続く。その上で人間になってからが余りに短いということがあるだろうか。これはいい思いをするのがなるべく長く続くことを望むということと違っていて今ここにいるというのは今ここにいることであってそのことに長いとか短いということはない。それが終わるのは死ぬ時だからで死に際して思い残すことがあるのはそれまでの成熟の仕方がまだ不充分だったのである。」

(水原紫苑『春日井建』〜水原紫苑 解説「『若い定家』のそののち」より)

「春日井建の歌を今、どう読むか。
 かつて建の歌には「悪」や「背徳」や「禁忌」といった言葉が、枕詞のように貼り付いていた。それらは甘美な官能を誘った。しかし、二十一世紀を生きる私たちには、その魅惑は既に色褪せてしまった。すべては普通のことになった。
 建の歌は、実はそのような数々の形容を超えた、歌本来の強度を持っている。
(・・・)
 「空の美貌」「つめたき空」「花の処刑」といった強い言葉は、少年の震える魂の比喩であって、特別な観念の呪縛は必要ない。
 そのことを何よりも的確に述べたのは、三島由紀夫が『未成年』に寄せた序文である。初期の歌については。未だにこれを超える春日井建論はないと思う。
 序文は、建を前衛歌人と見なす歌壇に対して次のように宣言する。
 「歌とは昔からこのやうなものであつたので、今後もこのやうなこのであらう。春日井氏の表現は独創的であつても、発想そのものは古典と共に独創的ではない。」
 そして、藤原定家が十九歳で、「紅旗征伐非吾事」の一句を記したことから、当時二十一歳の建を、「一人の若い定家」と呼ぶのである。」

「建は三十歳で歌と別れた。
 「私の歌は、それを叙す作者に悠長な時間があってはならない種類のものだった。明日ではなく、昨日でもない。今の今、一瞬ごとに消え去る切迫した青春のひとときを写す宿命を担っていた。(中略)
 三島由紀夫は、「『豊饒の海』の主人公松枝清顕の絶巓で死を選ばせた。いささか面映ゆいけれども言ってしまおう。私の歌も青春の絶巓で終わるべきだった。」
 歌を再開したのちの歌集『青草』のあとがきで、既に壮年の建はこのように語る。」

「建が歌の世界に帰ってきたのは、(・・・)父、友、三島由紀夫という三人の死のためである。
 「三つの死は、私に生を見ることを強いた。目をつむることはできなかった。見ることは書くことにつながった。」(『青草』あとがき)」

「『井泉』そして最終歌集となった『朝の水』は、『友の書』『白雨』で開かれていた新しい境涯詠をさらに推し進めて、形而上学的に屹立するものとした。ある意味で『未成年』を超える世界が、初めて現れたと言えるだろう。
(・・・)
 外に向かう修羅の爆発ではなく。内なる修羅を、死に相対しながら見事に生き抜いたのである人間としての感性が歌を創り上げた、稀な例の一つであろう。」

「歌に見染められた六十五年の生涯は、まさに「劇しき」ものであった。「若い定家」は鮮やかにそののちを生きたのである。」

いいなと思ったら応援しよう!