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エドワード・エディンジャー『キリスト元型/ユングが見たイエスの生涯』

☆mediopos2600  2021.12.29

本書はユングの視点から
キリストの生涯というドラマを解釈するものだが
その際のユングの視点は
基本的に錬金術研究によるものだ

ユングの錬金術研究はおそらく
その難解さのためあるいは扱い難さのために
河合隼雄もそうであるように
詳しくとりあげられることは比較的少ない

しかしながら
ユング心理学の最重要テーマである
「個性化」について深く探求しようとすれば
キリスト教文化圏においては
キリスト及びキリスト教における
「個性化」のための「元型」として
キリストの生涯というドラマが表している
錬金術的観点に注目する必要がある

「キリストの生は、心理学的に理解すると、
自己が個人の自我に受肉して変化していく様子と、
自我が神のドラマに参加して変化していく様子」
つまりは「個性化の過程」を表しているからだ

「個性化」のためには
「自己」という視点が重要となる
私たちの日常的な「自我」ではなく
「自我」がそこから生まれる
魂の全体性としての「自己」である

ユングは個性化の過程を
錬金術的な過程としてとらえているが
それは全体性としての自己から
自我が形作られていく過程を問題としている

しかしその個性化の過程が個人に訪れると
魂をさまざまな危険にもさらすことになるため
そのセイフティーネットとなっているのが
キリスト教会や宗教的な教義であったといえるのだが
そのセイフティネットは
現代においては機能し難くなってきている

深層心理学が生み出され
心理療法などが用いられるようになったのも
その補完的な役割が必要となったからなのだろう
もちろんかつて秘されてきた神秘学が
公開されてきているのも同様である

日本では多くの場合
「キリスト元型」は働きにくいから
多くの日本人は
「自然の中に人間の力を越えた圧倒的な力を見て畏れ」
特定の宗教における神よりも
「木に宿る神、水に宿る神、火に宿る神など、
そこかしこに偏在する汎神論的な存在」が
その「元型」として働いてきたといえるが

キリスト教文化圏における「元型」の変化と同様
日本人にとっての「元型」も変化してきているなか
それをどのように方向づけることができるのか
これからの日本人の「個性化」を問う必要があるだろう

■エドワード・エディンジャー(岸本寛史・山愛美訳)
 『キリスト元型/ユングが見たイエスの生涯』(青土社 2021/12)
■C.G. ユング(村本 詔司訳)
 『心理学と宗教(ユング・コレクション3)』 (人文書院 1989/4)
■C.G. ユング(池田 紘一訳)
 『結合の神秘 1 (ユング・コレクション5)』(人文書院 1995/8)
 『結合の神秘 II (ユング・コレクション6)』(人文書院 2000/5)

(エドワード・エディンジャー『キリスト元型』より)

「キリストの生は、心理学的に理解すると、自己が個人の自我に受肉して変化していく様子と、自我が神のドラマに参加して変化していく様子とを表している。言い換えれば、キリストは、個性化の過程を表している。この過程が個人に降りかかると、救済にも惨事にもなる。教会や宗教的な教義の中に包まれている限り、個人が個性化の過程を直に体験するという危険からは守られる。しかしひとたび宗教的神話という容器から飛び出してしまうと、個人が個性化の候補者となる。ユングは次のように書いている。

  (ユング『心理学と宗教』p.139)

  キリストのドラマの元型的内容が多くの人々の不安定に激しく荒立つ無意識を充全に表現できていた間はキリストのドラマは「万人の同意consensus omnium」によって一般的拘束力を持つ真理にまで高められていた。もちろんこの同意は理性的判断によるものではなく、それよりもはるかに力の強い非合理な憑依によるものである。かくしてイエスは、誰にでも憑依しようと機を窺っている元型的諸力から人々を護る守護的なイメージ、あるいは守護符となった。福音はこう告げている、「それは起こった、しかし神の子イエスを信じている限りは、それは決して汝の身に起こることはないだろう」。しかし、キリスト教の支配力は衰えた人々には、それは、過去にも現在でもあるいは未来においても、起こりうる。そういうわけで、いつの時代でも、密かに隠れて脇道を通り、破滅を招くか救済に到るかは知らないまま、意識的な生の支配に満足できずに、永遠の源泉を直接体験することを求めて、不安定に荒立つ無意識に魅せられるがままに旅立った人々が存在したわけであるが、彼らは、気がつくと荒野にいて、イエスのごとく、あの闇の息子に邂逅することになる。」

 何世紀にもわたって、一連のイメージが集合的な心から結晶化してきて、「元型的な諸力に対する守護符とキリスト体験とが交差するこれらの交点は、キリストの生の必要不可欠な役割を表現しているが、それは客観的な心それ自体によって、すなわち万人の同意によって、選ばれたものである。」

「受肉サイクルの目標は、個性化の目標同様に、結合である。天と地、男性と女性、精神と自然、善と悪など。西洋の心では長い間引き裂かれてきた心的対立物が和解する時は来たのである。」

(エドワード・エディンジャー『キリスト元型』〜岸本寛史・山愛美「あとがき」より)

「ユングは晩年、錬金術を心理学的な観点から理解し、心理療法に生かそうとしたことはよく知られている。『心理学と錬金術』はいうまでもなく、晩年に書かれた『アイオーン』も後半では錬金術について論じられているし、ユングの最後の著作『結合の神秘』は「ユング心理学の学問的集大成(summa)」とも評される大作だが、まさに錬金術と正面から取り組んでいる。このように、晩年の著作の多くが錬金術について論じたものであり、ユングは晩年、錬金術の研究に没頭したと評されることも少なくない。これらの著作は難解であり、ユング派の分析家の中でも、ユングの錬金術的研究に関する評価は分かれているようで、それを全く評価しないという立場もある。我が国でも河合隼雄がユング心理学を紹介し、専門家にも一般にもかなりの関心を惹くことになたが、錬金術に関する言及はほとんどなかった。
 このような状況であるから、ユングがなぜ、最晩年にあれほど錬金術研究に没頭したのかについて論じられることも少ない。言及されるとしても、錬金術を心理学的な観点から読み解いて心理療法に生かすというのが大筋の見解である。ところで、本書を訳しながら、『結合の神秘』からの引用が非常に多いことに気がついた。数えてみると、多い順に、『結合の神秘』からは二十五箇所で引用されているが、『心理学と宗教』は九箇所、『アイオーン』と『ユング自伝』が六箇所、『ヨブへの答え』五箇所、『心理学と錬金術』四箇所、『哲学の木』三箇所、あとは一度だけの言及という結果である。(・・・)
 エディンジャーがユングの観点から見た聖書の再解釈を提示するにあたり、『結合の神秘』に多くを負っているということは、同書にユングのキリスト及びキリスト教に対する理解のエッセンスが含まれていることを反映しているのではないか。(・・・)
 さらに踏み込むと、ユングにとって、晩年の最大のテーマは錬金術ではなく、キリスト教だったのではないかと勘ぐりたくなる。『アイオーン』も後半は錬金術のについての論考で占められているが、ユングは『アイオーン』を「医者としての責任から書く」と述べており、特にキリスト教における「善の欠如」の問題と格闘している。『結合の神秘』もその延長と見ることができるのではないか。錬金術に関するユングの論考はキリスト教に関する考察という広い文脈において初めてその真意が見えてくるのかもしれない。」

(エドワード・エディンジャー『キリスト元型』〜山愛美「解説:『キリスト元型』と心理療法−−−−導入として」より)

「本書では、キリストの生の中に個性化の過程を読み取る試みがなされている。個人が個として如何に生きるのか。もちろんこれは我々すべての問題である。しかしここで言っているのは、一般に言う「どう生きるのか」という問いとな異なるということを知っておかねばならない。まず始まりに「私ありき」ではない。前提として私という存在があって、その私がどう生きるのか、という発想ではないのだ。
 初めにあるのは自己、これは、一言で表現するのは難しいが、敢えて言うならば全体性。そこからまず自我の萌芽が生じ、その自我がどのように受肉されていくのか、なのである。視野が自我に限定されていない。
 ユングは錬金術の過程の中に個性化の過程を見出したが、自我の誕生のプロッセスは、錬金術の用語では、凝固(coagulatio)−−固めること−−である。全体性の元型である自己から、自我という一つの具体的な存在としての個が形作られて−−固められて−−いく過程が問題となっているのである。

 そして「キリストの生は・・・・・・自己が個人の自我に受肉して変化していく様子と、自我が神のドラマに参加していく様子を表している」とあるが、これは、同じプロセスを二つの視点から見ている。自己の視点と自我の視点、天上の視点と地上の視点とでも言えようか。ここで『転移の心理学』(1946)でユングが引用している、次のような錬金術の有名な一節が思い出される。

  上なる天
  下なる天
  上なる星
  下なる星
  上なるものはすべて
  下にもあり
  これを摑め
  さすれば歓喜が訪れる。

 エディンジャーも『心の解剖学』の中でこの一節を引用し、「錬金術師にとって、上と下、及び内と外は、隠れた関係や同一性でつながっている。天上で起こることが地上でも起こって重複される」と述べている。・

 心理療法において、上と下、内と外というそれぞれ相対立する二つの視点を同時に持っていることは重要である。来談者(クライエント)の体験を、個人的具体的な(自我)の次元で見ると同時に、個人を超えた(自己の)視点も合わせ持って見る。そしてさらに外界に生じることと内科医に生じることとを慎重に重ね合わせて見るような視点である。」

「教会や宗教的な教義の中に、元型的なものが収まっておる、キリストが代表として体験してくれるので、その中にいる限り、個人が直に元型的な諸力を体験することは免れる。教会や教義は、守護符であり、要はお守りだったのだ。しかし、もちろん西洋社会においても、今日ではかつて教会やキリスト教神話が担ってくたこのような役割を果たすことはもはや期待できない。」

「多くの日本人にとって、たとえ知識としてキリスト教のことを知ってはいても、それは「生きられた」キリスト教であるとは言いがたい、と思う。」
「かつて、我々は自然の中に人間の力を越えた圧倒的な力を見て畏れてきた。日常生活の中でも、何/誰に対して言っているのかは自覚しないまま、「ご馳走様」、「頂きます」と言う。た問えば「罰が当たる」という時、罰を当てるのは一体誰なのだろう。ひと頃「もったいない」は世界的にも流行語になっていたが、「もったいない」いは「畏れ多い」という意味もある。誰/何に対して畏れ多いのであろうか。「ありがたし(有難し)」にもいわゆる感謝の気持ちだけではなく、「もったいない、恐れ多い」という意味もある。いずれも背後に何者かに対しての畏れがある。この何者かは、特定の宗教における神というのではなく、具体的な名を持たない。木に宿る神、水に宿る神、火に宿る神など、そこかしこに偏在する汎神論的な存在である。
 これらの神々は、少なくとも皆、我々が現実だと思い込んでいるこの世界の住人ではない。もし、そこに適切なエネルギーが注ぎ込まれるならば、我々を向こうの世界へと誘ってくれる存在である。(・・・)かつては至るところで見られた向こうへの入口は、実は今もそこにあるのだが、それを感知する人々が減ってしまっただけなのかもしれない。(・・・)
 西欧とは異なる歴史を歩んできた日本においても、やはりヌミノース的なものの受肉はこれからの重要な課題である。」

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