岩野卓司「ケアにおける贈与」(『未来哲学』第八号 二〇二四年前期)
☆mediopos3576(2024.9.3)
岩野卓司の『贈与論』
およびそれに関連した「ケア」の考え方については
mediopos-1776(2019.9.26)
岩野卓司『贈与論/資本主義を突き抜けるための哲学』
mediopos3479(2024.5.27)
岩野卓司「ケアの贈与論」
連載第1回・第2回(法政大学出版局 別館(note))
mediopos3546(2024.8.2)
岩野卓司「ケアの贈与論」
連載第3回・第4回・第5回(同上)
でとりあげているが
『未来哲学』第八号(二〇二四年前期)に
掲載されている「ケアにおける贈与」も
同様なテーマについての「論考」が掲載されている
これまでとりあげてきた内容を
かいつまんでふりかえると以下の通りである
岩野卓司『贈与論』では
贈与を問うとき
存在そのものが存在を与える「存在の自己贈与」や
「あらゆる受動性に先立つ受動性」としての
根源的な応答に対する主体という視点がなければ
損か得かあるいは貸し借りといった
ただの互酬的な道徳から出ることはできない
ということについて論じられていた
その『贈与論』の視点から
Web(法政大学出版局 別館(note))で連載中の
「ケアの贈与論」では
「ケア」の問題を探求する際には
健常者どうしの関係ではなく
障がい者との関係に向き合わざるをえないのだが
そこには「根源的な共同性」があるからだという
そしてそれが成立するには少なくとも
「他者との非対称な関係」
「ケアの倫理」
「共同体(性)をもたない者たちの共同体(性)」
という三つの条件が必要である
そして私が私であるという自己同一性そのものが
根源において贈与の産物にほかならず
私は「呼びかけ」という贈与によって
他力的に自己を成立させているという視点が必要となる
与えるということ
ケアするということは
一方向的な行為ではなく
与えることによって与えられ
ケアすることによってケアされる
その根底には「根源的な共同性」とでもいえるものが
存在しているというのである
以上の論考と重複するが
今回の論考をまとめてみる
ケアのテーマを探求する際には
障がい者との関係に向き合わざるをえない
そこにある「根源的な共同性」に着目するためには
「他者との非対称的な関係」と「ケアの倫理」が必要となる
「ケアの倫理」とは
「自己と他者が同等の価値をもつ存在として扱われ、
力の違いにかかわらず物事が公正になるという理想像」と
「すべての人が他人から応えてもらえ、受け入れられ、
どの人も取り残されたり傷つけられたりしないという理想像」
である
また「ケアの贈与論」でもとりあげられていたが
平川克美が父の介護を通して
「人は他人のために生きることに喜びを感じ」たように
どんなにエゴイズムや個人主義が浸透したとしても
ひとは自分のためだけに生きているのではなく
「利他」という
ケアにおける「贈与の秘密」がそこにはある
しかしながら「ケアする者が、人に贈与したり、
サービスすることに喜びを感じようとも、
ケアされる側からする不愉快なありがた迷惑の場合もある」
介護されている高齢者が
家族や介護者を泥棒呼ばわりするケースがあるというが
そうした「「泥棒幻想」は、一方的にのみ贈与され、
完全に依存してしまうことへの抵抗に他ならない。
これは老人の、他者ときちんとした関係を築きたいという
要求なのである」という
「介護者から老人への一方的な贈与の関係」は
「善意のケアが産み出す一種の暴力」ともなり得るのである
「人に贈与する喜びは、介護者だけではなく、
介護される側も必要」であり
なんらかのかたちでの「贈与交換」が重要となる
子供の場合についても
「子供は自分の生命・身体・性・家族」を
強制的に贈与された「イノセンス」であるが
そうした贈与に対する対抗贈与が生じ
ときにそれは暴力的なかたちであらわれるように
ここでもなんらかのかたちでの「贈与交換」が必要とされる
このように「ケアする者とケアされる者とのあいだの贈与」は
「互酬的な贈与交換」とは異なり
「もっと根源的な贈与と応答」にほかならない
「贈与への応答が次の贈与を生む場合、
この新たな贈与は「お返し」ではなく、贈与の連鎖」であり
「贈与が次の贈与を引き起こす」といい
そこに「根源的な共同性」が浮かびあがってくる・・・
以上が今回の論考のおもな内容だが
ここで示唆されている「根源的な共同性」は
「与えるものが与えられる」という
時空や位相を超えた贈与の連鎖によって
わたしたちは歩んでいるということだろう
与えられていることを受けとめられないとしても
ひとはやがてそのことをなんらかのかたちで受けとめ
ときに与えることができるという喜びを享受し
また与えられるだけの依存から脱したいと叫ぶのも
そうした「贈与」の連鎖のなかで
「与えるものが与えられる」ということをめぐる
「根源的な贈与と応答」によって演じられる
魂のはるかな「遊戯」にほかならない・・・
■岩野卓司「ケアにおける贈与」
(『未来哲学』第八号(二〇二四年前期)2024/8)
■岩野卓司『贈与論/資本主義を突き抜けるための哲学』(青土社 2019.9)
**(岩野卓司「ケアにおける贈与」〜「はじめに」より
*「これまえ私たちは、人間関係のモデルとして健常者どうしの関係を当たり前のように考えてきたが、ケアのテーマを探求する際には、障がい者との関係に向き合わざるをえないのだ。(・・・)ケアの対象となる、障がい者、子供、高齢者を考慮に入れることで、「根源的な共同性」に着目することができるだろう。」
*「この共同性には少なくとも二つの条件が必要だ、と私は考える。」
「ひとつは、他者との非対称的な関係である。フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは『全体性と無限』のなかで、他者との関係は非対称であると主張した。他者は〈私〉と同じものではないのだ。レヴィナスは、他者を我と同じ型のものであるという見方を批判する。」
「この考え方は、ケアにおいても重要ではないだろうか。検証者は障がい者とは非対称な関係にあるのだ。」
「「根源的な共同性」を考えていくために、もうひとつ考慮に入れたいのがギリガンの「ケアの倫理」である。彼女は『もうひとつの声で』のなかで、正義とケアの倫理という人間の二つの理想について次のように述べている。
「一つには、自己と他者が同等の真価を有する存在として扱われ、力の違いにかかわらず物事が公正に進むという理想像だ。もう一つは、すべての人が他人から応えて応えてもらえ、受け入れられ、取り残されたり傷つけられる者は誰ひとり存在しないという理想像である。」
「障がい者と向き合い、そこに新たに共同性を見ていくためには、ケアの倫理が要求される。他者を同等の存在を扱うことに公正さをみるとすれば、それはレヴィナスに批判される考えと変わらない。(・・・)このケアの倫理を考えることで、根源的な共同性が見えてくるのだ。」
*「これらの前提にたって私が本論文で考察したいのは、贈与のテーマである。贈与がどうして、共同性に絡むのかというと、それは贈与が「人に物を与えること」や「人に自己を与える(委ねる)こと」を通して、奉仕、サービス、自己犠牲などと結びつくからである。贈与は商業における、利潤を求めるための交換とは異なる人間の行為なのだ。これはケアについても同じである。」
**(岩野卓司「ケアにおける贈与」〜「1 平川克美の「贈与の秘密」」より
*「(平川克美)は一年半にわたし父親を家や病院で介護したが、その体験を『俺に似た人』(医学書院、二〇一二年)という本にまとめている。」
「この介護の「物語」のなかに、「俺」が料理をつくることについての生き生きした描写がある。
「それまで料理をしたことのない「俺」であったが、介護を通して料理の腕をあげ、父親に褒められるほどに上達した。父親に「おまえは料理がうまい」と言われて、嬉しくなり、さらに料理の腕に磨きをかけていくさまがよくわかる。」
「どうして父の死後に料理を作るのをやめてしまったのだろうか。なぜ平川はあれほど上達した料理を作って、自分の口腹の欲を満たそうとしなかったのだろうか。」
「平川が料理をつくるのをやめて外食の日々を送っているのは、料理をつくることに喜びうぃ見い出せないからである。自分の料理を喜び、待ち望んでいる人がいるから、彼は料理をつくることに喜びを感じて一生懸命料理をつくったのだ。人が喜ぶ姿から、その人のためにサービスしようという気持ちになる。だから、人は他人のために生きることに喜びを感じてしまうのである。(・・・)ここに贈与の原点があるとともに、ケアの原点があるのだ。」
*「いかに世の中にエゴイズムや個人主義が浸透しようとも、人は利己だけに還元できない。自分のためだけに生きているのではないのだ。それが、平川が介護の体験から得たものである。ケアの喜びを考えていくと、そこには利他が存在している。そして、これはまたケアにおける「贈与の秘密」なのである。(・・・)ケアによる「贈与の秘密」において、贈与はこの受け入れを押し進めることで共同性と深い関係を持っているのではないだろうか。」
**(岩野卓司「ケアにおける贈与」〜「2 泥棒幻想」より
*「ただ、贈与と共同性の関係は、もう少し厄介な面をもっている。」
「ケアする者が、人に贈与したり、サービスすることに喜びを感じようとも、ケアされる側からする不愉快なありがた迷惑の場合もある。ここではケアする者とケアされる者のあいだにある種のねじれの関係が生じているのだ。これは、善意のケアが産み出す一種の暴力とも言えるのではないだろうか。」
*「この例は、介護士の三好春樹と教育評論家の芹沢俊介の共著『老人介護とエロスエロス子育てとケアを通底するもの』(雲母書房、二〇〇三年)のなかで取り上げられている。それは、介護されている高齢者が、家族や介護者を泥棒呼ばわりするケースである。」
「なぜ、いい介護を一生懸命にする人が「泥棒」とされてしまうのだろうか。いい介護というのは、相手を依存させてしまう暴力性を秘めているからである。三好はこう述べている。「介護を一生券面やればやるほど、それが実は暴力になっているという見方ができると思いました。」。
老人たちは身体能力や知力はだんだんと低下していく。彼らは自分がまわりの人たちに迷惑をかけているのを知っているから、無理難題を要求する。無理難題をやってくれたら、自分は見捨てられていないと確認ができて安堵するのである。彼らは不安だからそれを繰り返す。いい介護をしてくれる人は、無理難題にもきちんと向き合ってくれて応じてくれているのだ。しかし、さらに依存度が高まっていくと、「泥棒幻想」が始まる。」
「自分はわがままばかり言っているのに、献身的に介護をしてくれる。いつ見捨てられてしまうのかという不安から、わがままを繰り返しながら、相手への依存度を強めてしまう。状況は打開できない。体も頭も弱っていく。老人はこのままではいやだと心で叫んでいるのである。その心の叫びに答えるかのよういん、「泥棒幻想」が生じる。依存している相手が「泥棒」ならば、自分が被害者として優位に立てる。完全依存を脱することができるのだ。そう思い込むことで、老人は心のなかでバランスをとっているのである。」
「ここに献身的な介護が老人を追い込んでしまう暴力がある。この暴力に贈与の毒を見ることができるだろう。善意から一生懸命におこなう贈与が、相手を依存させることでダメにしてしまうのだ。「泥棒幻想」は、一方的にのみ贈与され、完全に依存してしまうことへの抵抗に他ならない。これは老人の、他者ときちんとした関係を築きたいという要求なのである。」
*「それでは「泥棒幻想」をなくすにはどうしたらいいのだろうか。」
「介護者と老人との閉鎖的空間から開かれた空間にしていくことが必要である。この閉鎖的な空間では、介護者から老人への一方的な贈与の関係しか結べない。これを相互的な関係にしていくことが必要だろう。老人も介護者に何かをしてあげるような関係、何かを贈与できる関係をつくらなければならない。老人が何かをしてあげる相手は、別に介護者だけではない。第三者でもかまわないのだ。老人をただの受け身の存在にしないことが重要なのだ。ここでケアにおいても、贈与交換の重要性が認識できるだろう。(・・・)人に贈与する喜びは、介護者だけではなく、介護される側も必要なのである。」
**(岩野卓司「ケアにおける贈与」〜「3 子供をめぐる贈与交換」より
*「次に子供の場合を考えてみよう。
贈与論の視点にたつと、子供は受け取る存在である。この意味で受動的な存在ということができる。」
「私たちは誰も、自分の生、身体、性を、そして親を選んで生まれてきたわけではない。良心は自分の遺伝子を強制的に自分の子供に贈与しているのだ。」
「そこには自分が納得して選び取ったものは何一つ存在していない。子供は自分の生命・身体・性・家族を勝手に贈与されてしまっているから、それらに責任を持つことはできないのだ。芹沢は、これをイノセンスと呼んでいる。」
「イノセンスは強制的に贈与されたものである限り、その反動も暴力的にならざるをえない。モース流の贈与論の視点にたてば、贈与に対しては対抗贈与が生じるのであり、しかもこの場合、その対抗贈与は暴力的なのだ。(・・・)そういった暴力が生じないようにするためには、子供にイノセンスを解消させなければならない。」
「親や大人は子供の対抗贈与を受けとめ、子供に不自由を選びなおすようにさせなければならない。対抗贈与による暴力を受けとめて、子供に自分の親、自分の身体、自分の生命や性を肯定するように導かなければならない。そうすることによって、子供はイノセンスを解消して独り立ちできるようになるのだ。ただ、それに失敗すると、身体と性の選びなおしでは、「拒食症や過食症」になり、親の選びなおしでは「家庭内暴力」となる。また、「死の危険をかけたシンナー吸引や自殺」は、生を肯定できなかった例である。それから、幼児虐待は、子供の泣き叫ぶ暴力に対して、今度は親の側からの対抗暴力なのである。ここでは暴力的な贈与の負の連鎖が認められる。だから、子供の暴力的な贈与をしっかり受けとめ、親の側からの新たな教育的な贈与によって選びなおしと自立を促すのである。
ここでは「受けとめ」の重要性が強調されている。暴力的な贈与交換が、この受けとめをとおして、普通の贈与交換へと変わっていく。贈与による暴力的な共同性は、自立した者どうしの関係になっていくのだ。」
**(岩野卓司「ケアにおける贈与」〜「4 贈与と共同性」より
*「一方的な贈与は、贈与する者の側からの表面的な理解の産物に過ぎない。広井良典は「ケアを『与える-与えられる』といった一方的な関係としてとらえること」が独善的な結果を招くことを危惧している。介護する側の善意からくる一方的な贈与が、介護される者を潰してしまう可能性もあれば、他方で介護される側からの贈与しか考慮に入れないと両者の相互理解に壁ができる場合もある。」
*「ケアする者とケアされる者とのあいだの贈与は、モースが想定したような互酬的な贈与交換とは異なる。それは互酬的かどうかも定かでない、もっと根源的な贈与と応答なのだ。贈与への応答が次の贈与を生む場合、この新たな贈与は「お返し」ではなく、贈与の連鎖なのだ。贈与が次の贈与を引き起こすのである。」
*「この贈与の連鎖を通して、「根源的な共同性」が浮かび上がってくるのではないだろうか。」
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