李 禹煥(リ・ウファン)『両義の表現』
☆mediopos-2506 2021.9.26
沈黙は
言葉の反対概念ではない
言葉における沈黙は
言葉では伝えられないという
言葉の限界を伝える表現でもあるが
「スポーツや踊り、音楽、美術、ジェスチュアなど」も
沈黙における表現の方法であり
音楽は聴覚を媒介にし
美術は視覚を媒介にし
スポーツや踊りは身体を媒介にし
それぞれが異なった沈黙における表現ともなる
そして言葉における沈黙がそうであるように
他の表現における沈黙も
それぞれの作品が究極的に目指すのは
それぞれの媒介の「向こう」にあるものだ
表現されたものそのものが
直指人心のように指し示す「向こう」
それぞれの媒介としての作品は
月を示す指であって
「向こう」には「月」がある
言語芸術としての詩もそうだが
すべての芸術は「向こう」を示しているにもかかわらず
多くの場合は示している「指」を「月」だと錯誤してしまう
そのことは「表現」を
「自己表現」だと勘違いしてしまうことにもつながる
じぶんを「指」だと思い込み
その「指」の表現そのものに意識を向け
「向こう」へと開かれた次元を持てないでいるのだ
その開かれた次元は
わたしたちの通常の意識を越えた「無意識」にある
「遠い宇宙があり足許に大地があることも無意識」であり
「自然現象のみならず、人類の歴史や住んでいる
街の風景もまた無意識」にほかならない
そしてそれらの働きを知るためには
「能動的な意識の働きや知的探求よりも、
身体を生かして受動的な受容を心がける」
そうした方向に開かれていかなければならない
そうすることで
「意識と無意識の境界を取り払う」ことも可能となる
「向こう」を示す「指」は抽象的な記号ではない
「語り出ぬもの見え得ぬものの次元」を示そうとする
身体性をもった「指」にほからないのだ
■李 禹煥(リ・ウファン)『両義の表現』
(みすず書房 2021/5)
(「表現としての沈黙/2018.8 パリにて」より)
「沈黙は、ロゴスと対比されることはあっても、言葉と反対概念ではない。沈黙も一つの態度、立場の表明であり、言葉と違う表現の方法である。言葉ばかりが意思表示でないのは言うまでもない。相手の言葉よりも、むしろその眼つきや顔色または行動でより確かな判断を下すこともある。スポーツや踊り、音楽、美術、ジェスチュアなどが言葉でない表現であるばかりか、それらもまた言葉でないもっと雄弁な言葉であることは多言を要しまい。言葉を突き詰めていくと、ついに詰まってくる。言葉には限界があるということだ。言葉に詰まった時は沈黙せざるを得ない。ところで考え抜いた先には大抵言葉がない。そしてまた、究極的決定的瞬間に出会うと沈黙せざるを得ないが、その時、無限の暗示が広がる。
私はアーティストとして沈黙のことを考えている。アートでは、通常の言葉とは異なる沈黙の在りように遭遇する。音楽は聴覚を媒介にするに対し、絵画や彫刻は視覚を媒介にする。言語に関わる沈黙と非言語的な耳と眼差しの沈黙は当然異なる。言語に関わる沈黙は、言葉の途絶が特徴であるが、耳や眼差しのそれはむしろ言い得ぬものとの出会いであることが多い。言葉で届かないものが、音律や絵づらでは直接に伝わったりする。」
「人は私の多くの作品に、沈黙を感じるという。」
「私の作品にみられる沈黙の性格は、おそらく非−人間的だ。それは作品が特定の素材や方法の駆使もさることながら、やはり発送の根幹が自然や外部との関わりにあるためであろう。私は、人間の言葉を拒むわけではないが、人間以外の音や声にも耳を傾けてみたい。それも耳に届いたり眼に映る音や色彩を越えて、広大な宇宙に満ちている鳴らぬ音、聴こえぬ言葉に出会いたいのだ。
おそらく音楽家の究極の関心は、音の向こうにある。私の関心も似ている。絵画や彫刻において、語り出ぬもの見え得ぬものの次元を開いてみたい。私の作品の波状は、まだ人間の言葉の領域から遠くない。何処まで行けるか、沈黙の彼方は遠くて深い。」
(「無意識について/1973/2019」より)
「硬直した意識の合理化しか認めようとしなかった時代が近代である。つまり意識の表象化によって構築された現実が世界なのだ。従って意識の及ばぬところは世界ではない。この考えが産業社会を形成し、帝国主義や植民地主義を生んだのは言うまでもない。意識は意識を呼び、その膜を広げてゆくほどに、外界はどんどん抑圧され追いやられる。
いよいよ膨張した意識世界がパンクしかけた時に、無意識の存在に気づき、それを引き出したのがジグムント・フロイトである。」
「私は思う。前意識や抑圧を離れても無意識は広がっている。逆に言えば、無意識の世界は、遙かに広く深いものであって、意識で丸ごと捉えたり抑圧可能なものではない。空がある太陽があることや、遠い宇宙があり足許に大地があることも無意識なのだ。自然現象のみならず、人類の歴史や住んでいる街の風景もまた無意識である。つまり想像力の根拠律なるすべては無意識だ。それらの存在が無意識なのではなく、陰に陽に意識と関わったり作用反作用するものとしてそれはある。」
「無意識とはある意味で、自然宇宙の運行であり摂理なのだ。当然、人間もその一部である。だからそれを知る道は能動的な意識の働きや知的探求よりも、身体を生かして受動的な受容を心がける方向に開かれていると思われる。修道僧たちの行う修行が目指している地平は、明らかに意識と無意識の境界を取り払う試みだろう。その際、言葉より呼吸や身体のリズムを整え、心を落ち着かせて、無我の状態になろうとする。まさに禅がそうである。ここで大事なのは、心ではなく外部としての身体である。それをわがものから、自然の波状に連ねることによって、無意識の次元に遊ぶことができるとされる。」
(「開かれる次元 Open Dimension」より)
「そもそも私は表現を自己の表象化とは考えない。自己のコンセプトから出発するにせよ、表現行為は他者へと呼びかけであり、世界との交流の出来事である。そして何よりも表現が意識を越えて多くの無意識を伴う。そのため諸関係の中で自己を磨き、表現を限定し、応答のレベルを高めなければならない。私は運動選手が身体を鍛えるように腕の訓練を積む。世界とより高度に深く通じ合うためにこそ、コンセプトを整備し、無意識に津ならなう集中力を鍛える。これらは表現が媒介項であることを示すが、そこで制作のプロセスや身体行為の重視が浮かび上がる。作品はプロセスと身体行為を通じて作られるということである。この立場は極めて古典的な美術家の姿勢だが、人類の永年の叡智であり、表現に超越性を持たせる良い方法と言える。
現代はハイテクやAIの登場で、身体やプロセスが蔑視する傾向にあるが、私には人類の将来が危ぶまれる風潮に思えてならない。身体は便宜上「私の身体」というが、実はより世界に属する生きものだ。ハイデガーやメルロ=ポンティが指摘するように、人間が世界に織り込まれて生きている証が身体なのだ。それゆえ身体の働きは、私の意識の表明に限られず、不確定な外部や無意識との関わりで未知性を帯びる。身体の動きは時間の経過と外部性と無意識の作用により、表現を複合的なものに導き、作者を越えていく。もっと言えば、身体を通じた表現は無限なのだ。どのみちハイテクやAIは知識の総体の他ではない。それは身体性を持たない。それに対し人間の身体は生物学的な有限性を持ちつつも、絶えず意識と無意識そして呼吸の変化の中にあり、外と関わる多義的なものなのである。」
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