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塚本昌則 〈本物〉とは何か」(『声と文学』)/チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』/ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』

☆mediopos3461  2024.5.9

古代ギリシアの叙事詩の時代
詩人は神々(ムーサ)の語る言葉を
聞き取って語っていた
それが〈本物〉の言葉だったのである

「〈私〉の話す言葉は、
〈私〉とは関わりなく存在してきた言葉に、
〈私〉がどのようなアクセントをつけて声にできるかによって、
多かれ少なかれ自分のものとな」っていた

そして神々が遠ざかっていくにつれて
他者の言葉が自分の言葉となっていった

そのように
言葉を発する声は
「他者との深い関わりから生まれ」ていた
つまり自己のなかで他者が語っていたのである

それが近代に入ると
ルソーの自伝にみられるように
「われわれは幼年時代に源泉をもつ、
一個の独立した人格なのであり、
その人格に向きあって誠実に語る言葉にこそ本物の価値がある」
という「真正さ」「本物」(authenticity)が
求められるようになってくる

そして現代
「本当にそのようなことが可能なのだろうか」
という問いが生まれるようになった

ここでとりあげている論集
『声と文学 拡張する身体の誘惑』では
その問いに対する視点が
文学を中心にさまざに論じられている

「内部で語る他者の声」は
「一八世紀に成立した美学上の理念」である
「独創性という神話」によって抑圧されてきているが

「自己とは他者の声が上演される場」である
という基本認識の上に立つと
「その声の上演に自己の身体をかける必要」があり
「個別の特殊性にとどまってこそ、初めてその上演が意味をもつ」
という他者を源泉とした〈本物〉という視点がクローズアップされる

現代ではとりわけテクノロジーやAIによって
〈本物〉ではなく〈本物らしさ〉がつくられ
人間の「独創性」が否定されもするようになってきているが

そんななかでこそ〈本物〉が問われなければならない

思想家のチャールズ・テイラーは
『〈ほんもの〉という倫理』において
十七世紀の個人主義を基礎に
十八世紀末に生まれた「ほんものという倫理」について

「ほんものという概念は、この内なる声という観念に生じた
道徳的力点の移動から発展してゆきます。
もともとの考え方からすれば、内なる声が大切なのは、
なすべき正しいことは何かを
わたしたちに教えてくれるからでした。」
といい

その「ほんもの」は
三つの不安にさらされているとしている

つまり
個人主義によって道徳の地平が喪失し
費用対効果の最大化のために道具的知性が浸透し
そしてそれによる「穏やかな専制」によって
自由が失われてしまうというのである

それらをあらためて問いなおすことで
近代の道徳的理想である「〈ほんもの〉という倫理」を
回復する必要があるというのだが

「ほんものという理想を完全な形で成就できるのは、
その存在感という感情がわたしたちをもっと広大な全体に
結び付けるとうことを理解するときだけかもしれません。
ロマン主義の時代に自己感情と自然に帰属しているという感情とが
結び合わされたのは、おそらく偶然ではなかったのでしょう。」
と現実における不安と困難さのなかでの「希望」を示唆しているが

ある意味でドイツロマン派の理念をなにがしか継承してもいる
ルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』において
論じれらている「道徳的想像力」との関係で
その「希望」をとらえることもできるだろう

『自由の哲学』で論じられている「一元論」では
「世界の統一的な解釈」を
「自己認識の可能な人間本性である道徳的想像力の中に求め」る

「世界解釈に要する諸原理を経験の中から取り出す」とともに
「行動の源泉を観察世界の内部に求め」ているのである

つまり「世界の解明に必要なすべては
この世界の中に存在している」がゆえに
思考内容はこの世の内に見出した知覚内容と結び付けられたときに
現実の内容となる

従って「自分から積極的に理念を現実の中へ移し換えるとき、
一元論は人間の中にそのための動機の根拠を
見つけ出すことができるのだという

しかしながらその「理想」が
豊かなかたちで可能となるためには
いかに知覚内容を豊かにするか
いかに理念を豊かにもつことができるか
ということが鍵となるだろう

貧しい知覚内容と
貧しい理念しか持ちえないとき
その「道徳的想像力」という種は
芽吹き育つことはできないだろうから

さてはじめにとりあげた
塚本昌則の「〈本物〉とは何か」においては
「内部で語る他者の声」の視点が踏まえられていた

かつて私たち人間が現在のような「自我」を
外部から訪れていた言葉を内面化することで
「自由」の可能性とともに育ててきたのであるとすれば

「内部で語る他者の声」をも意識化し内面化することで
それを〈本物〉にすることもできるのではないだろうか

そのためにこそ
豊かな知覚内容と理念を持つ必要がある

■塚本昌則「跋 〈本物〉とは何か————サイボーグにおける誠実さ」
 (塚本昌則・鈴木雅雄編『声と文学 拡張する身体の誘惑』平凡社 2017/3)
■チャールズ・テイラー(田中智彦訳)
 『〈ほんもの〉という倫理 近代とその不安』(ちくま学芸文庫 2023/3)
■ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)『自由の哲学』(ちくま学芸文庫 2002/7)

**(塚本昌則「〈本物〉とは何か」より)

*「幼年時代からの一貫した人格が信じられていた時代には、〈本物〉の声とは内面の歴史に誠実な、一人の人間の真実の声ということになる。だが、ロマン主義の退潮とともに他者という源泉が強調されるようになり、この考え方では捉えきれない〈真正さ〉の探求がおこなわれるようになった。そこで目指されているのは、記憶の欠落した幼い頃について語ろうとするジョルジュ・ペレックのように、「真実」というより「真実らしさ」の探求である。事実として確認できなくても、フィクションを通してある現実をありありと見せることが可能だというのだ。この場合〈本物〉とは、個人の奥深い真実ではなく、「真実らしさ」を通してある現実に迫ろうとする切実さに基づいている。人格の歴史から、他者という源泉へ、〈本物〉を判断する基準が根源的に変化したのではないか。また、この疑問を考えることで、〈前衛〉と〈後衛〉のような、文芸思潮の表現上の対立とは違った視点から、二〇世紀文学について考えることができるのではないか。ここではこれらの疑問を、言葉としての声、歌としての声、ノイズとしての声という三つの側面から検討してみたい。最初にその前提として、他者の言葉がわれわれの源泉であるという認識の広がりを記述する。」

**(塚本昌則「〈本物〉とは何か」〜「1 内部で語る他者の声」より)

*「言葉を運ぶものとしての声は、他者との深い関わりから生まれるという認識は、二〇世紀の作家、文芸批評家に広く見られるものである。たとえば、ヴァレリーは次のように述べる。「われわれは、認識可能な自我、それとわかる自我を、他人の口から受け取る。他人が源泉なのだ。。私が〈私〉と言えるようになるためには、他人の語る言葉を、それが自分のことであるかのように引き受けて、声を発しなければならない。」

*「〈私〉の話す言葉は他者の唇の上にある。〈私〉の話す言葉は、〈私〉とは関わりなく存在してきた言葉に、〈私〉がどのようなアクセントをつけて声にできるかによって、多かれ少なかれ自分のものとなる。この認識は、むしろ古代のほうが明確に認識されていた。
(・・・)
 ところが、近代に入って事情が一変する。声の源泉が他者であることを積極的に肯定し、むしろ自己のなかで他者が語ることを求める時代から、自己のなかで他者が語ることを恐れるようになる時代へと、大きな転換が起こったのだ。その転換の原動力のひとつが、「真正さ」authentique(本物、真実、誠実)という価値観の登場である。われわれは幼年時代に源泉をもつ、一個の独立した人格なのであり、その人格に向きあって誠実に語る言葉にこそ本物の価値がある、というのである。われわれ一人一人は、他にかけがえのないものとして生まれたのに、社会が本物の自己をねじまげ、本当の自分にはそぐわない、さまざまな役目を演じるように強いてくる。この貶められ、歪められ、偽物の外観をまとった自分に、本物の自己を取り戻させることが、ルソーに始まる近代的自我の重要な役目となった。ここで言う本物とは、「言葉と存在の一致」を意味している。〈私〉の話す言葉が、〈私〉の存在とぴったり一致するとき、〈私〉の言葉は真正なものとなり、〈私〉の存在は本物となる。
 しかし、本当にそのようなことが可能なのだろうか。
(・・・)
 他者が源泉であることを抑圧し、他者とははっきり異なる個々人のうちに「真正さ」があるという見方を押しつける価値観が、数々の作家たちの仕事にもかかわらず、まるで自明の真実であるかのように思われてきた。その価値観はゆらぎはじめているが、個人の独創性という神話が消滅したわけではない。自分たちの置かれた現在地を測る羅針盤は、「「本物」でも「偽物」でもない」(鈴木雅雄氏「序」)、そのような「真正さ」の可能性を読み解くことにかかっている。」

**(塚本昌則「〈本物〉とは何か」〜「2 言葉としての声————独創性と紋切り型」より)

*「内部で語る他者の声が抑圧された背景には、独創性という神話があった。
 独創性は、一八世紀に成立した美学上の理念である。」

**(塚本昌則「〈本物〉とは何か」〜「3 歌としての声」より)

*「声には言うまでもなく物理的な音としての側面がある。声はニュートラルに意味を伝えるものではない。時に歌として、時に叫びとして炸裂し、怒り、悲しみ、喜び、嘆きなどの情念を、意味ではなく調子で伝える。

*「声の力は、人間の五感の範囲を超えられない。どれほど他者にむかってひらかれようとも、この条件を踏みにじることはできない。歌は身体の極限を示すと同時に、その限界をも示している。「誇張的真実」は、限界への旅ではあるが、人間の身体性さえ超えてしまう異世界にまでは通用しないものなのだ。」

**(塚本昌則「〈本物〉とは何か」〜「4 ノイズとしての声」より)

*「自己とは他者の声が上演される場であると認識すると同時に、その声の上演に自己の身体をかける必要があること、個別の特殊性にとどまってこそ、初めてその上演が意味をもつこと————これが他者を源泉とする〈本物〉の、現在言える基本条件である。」

*「スタンリー・カヴェルは、オルフェウス神話について、「この物語は声の力の限界についての物語だ」と指摘する。オルフェウスは声の力で地獄の扉を開くが、そこから大切なものを救い出すことはできなかった。この神話は、人間が地下世界と地上世界、感性的世界と理知的世界、ノイズと身体から発せられる声の両側にまたがって存在することを示している。そのいずれかが真実なのではなく。二つの世界を絶え間なく行き来するところに「真実らしさ」があるのだ。

 ジョナサン・スターンは、声とノイズの関係をもっと過激に記述している。音響技術によって定着されるもととなったオリジナルとは、「再生産のプロセスが作りだした人工物でしかない」。「再生産技術がなければコピーは存在しないが、だとしればオリジナルも存在しない」。これは人の声が存在しないということではなく、機械音から人の声を聞きとるプロセスが文化的に規定されると、逆のその機械音をもとに、できるかぎり現実に近い声を創りだそうとする考えが生まれるというのである。真正なものがあって、それを人工的に定着するのではなく、人工的な手段があって、初めて真正なものがあらわれるということだ。結局、声、ならびに声のテクノロジーをめぐる考察を通して明らかになる〈本物〉とは、他者の言葉やノイズに耳を澄ませ、そこに自己の身体感覚によって可能なパフォーマンスを繰り広げるということである。〈私〉には一貫した人格などない。しかし〈私〉はノイズの集積でもない。やって来る声を。身体感覚のすべてをかけて自分のものとして引き受けることで、何度でも更新可能な行為を始めることはできるのではないかと予感するものである。」

**(チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』〜「第一章 三つの不安」より)

*「わたしが語ろうとしている懸念、つまり近代〔特有〕の懸念は、実にありふれたものです。」

「(一)懸念の第一の源泉は個人主義(individualism)にあります。」

「個人は自分より大きな社会、大きな宇宙という行為の地平を失った。そしてそれともに、何か大事なものを失った。こうした懸念が繰り返し表明されてきました。」

*「(二)世界の脱魔術化が近代の別の現象に、しかもとてつもなく重要な現象に関係しており、これまた多くのひとびとを大いに悩ませています。その現象は道具的理性の優位と呼ぶことができるでそう。「道具的理性」(instrumental reason)ということばで意味しているのは、所与の目的に対するもっとも経済効率の高い手段はないか、その適用を計算するとき用いるタイプの合理性のことです。その場合の成功のものさしは最大効率、すなわち、費用対効果の最適比率にほかなりません。」

*「(三)以上のことからわたしたちは、政治の次元へと導かれるとともに、政治的な生に対して個人主義と道具的理性がもたらす憂慮すべき帰結へと導かれます。(・・・)産業ーテクノロジー社会の制度と構造によって、わたしたちの選択はがんじがらめにされています。そして個人ばかりか社会までもが、道具的理性に重きをおかざるをえなくなっています。」

「しかし自由の喪失には、もうひとつ別の形があります。(・・・)しまいには誰もが「自分の世界にひきこもった」個人になってしまう社会とは、積極的に自治に参加しようと思う者などほとんどいない社会である。ときの政府が、私生活を満足させる手段をつくりだし、ひろく分配しているかぎり、そうした社会に生きるひとびとはむしろ、家にいて充ち足りた私生活を享受する道を選ぶことだろう・・・・・・。」

「こうして公的領域から疎外され、その結果、政治的に何の力ももちえなくなってしまうという事態が、わたしたちの政治の世界、中央集権化のすすんだ官僚的な政治の世界に起こっているのかもしれません。現代の思想家の多くが、トクヴィルの著述を現代への予言とみなしてきました。」

**(チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』〜「第二章 かみ合わない論争」より)

*「わたしが提示するのはむしろ、低俗化してしまったとはいえそれ自体はすぐれて価値のある理想の姿、いやそれどころか、こう言ってよければ、現代人であるかぎりけっして手を切ることのできない理想の姿です。」

「この作業を進めるには、次の三つのことを確信しなければなりません。ただし、どれひとつとして論争をともなわないものはありません。(一)ほんものという理想は正当な理想である。(二)理想について、また理想と実践との一致については、理にかなった議論ができる。(三)そうした議論は大きな変化をもたらすことができる。第一の確信は、ほんものという〔理想の息づく〕文化に対する批判の主旨に正面切って異論を唱えるものであり、第二の確信は主観主義を退けることになります。そして第三の確信は、わたしたちが「システム」によって————資本主義のシステムとしてであれ産業社会のシステムとしてであれ、あるいは官僚制のシステムとしてであれ、どう定義するにせよともかく————近代文化に閉じ込められていると考えるような近代の説明とは相容れません。」

**(チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』〜「第三章 ほんものという理想の源泉」より)

*「ほんものという倫理は比較的新しく、近代文化に特有のものです。十八世紀末に産声をあげてこの倫理は、十七世紀の個人主義を基礎にしています。」

「ほんものという倫理の発展を描き出すひとつのやり方は、人間は道徳感覚を授かっている。つまり、何が正しく何が間違っているか直感的に感じとる能力を授かっているという十八世紀の概念を出発点にすることです。」

「ほんものという概念は、この内なる声という観念に生じた道徳的力点の移動から発展してゆきます。もともとの考え方からすれば、内なる声が大切なのは、なすべき正しいことは何かをわたしたちに教えてくれるからでした。」

「自分自身に忠実であるおは、そのひとだけの自己のあり方に忠実であることを意味します。そしてこのとき、そのひとだけの自己のあり方とは、自分だけがはっきりと表現し、自分だけが発見できるものだとされます。そのひとだけの自己のあり方をはっきりと表現するなかで、自分はまた自分自身を定義もしているのであり、自分は他の誰でもない間違いなく自分だけの可能性を実現しているのだ、ということになるのです。これこそは、ほんものという近代の理想の背景をなす理解であり、また自己達成や自己実現といった————たいていほんものという理想が暗示されている————目標の背景をす理解にほかなりません。こてこそが、ほんものという〔理想の息づく〕文化に道徳的な力を与えているのです。」

**(チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』〜「第八章 より繊細な言語」より)

*「ほんものであるとは自分自身に忠実であることであり、自分の「存在感」を取り戻すことだとすれば、わたしたちがほんものという理想を完全な形で成就できるのは、その存在感という感情がわたしたちをもっと広大な全体に結び付けるということを理解するときだけかもしれません。ロマン主義の時代に自己感情と自然に帰属しているという感情とが結び合わされたのは、おそらく偶然ではなかったのでしょう。公的に定められた秩序をとおして帰属するという感覚の喪失は、もっと強烈でもっと内面的な結合の感覚によって埋め合わされる必要があるのかもしれません。それこそは数々の近代詩が、明確に表現しようとしてきたことなのかもしれません。そして今日、わたしたちにはそうやって表現されてきたこと以上に、さらに何かが必要なわけではないかもしれないのです。」

**(チャールズ・テイラー『〈ほんもの〉という倫理』〜「訳者あとがき」より)

*「翻訳にあたっては、もともとラジオで放送された講義であったことも勘案して、口語体のわかりやすい文章にすることを心がけた。その際に苦慮したのは、やはり“authenticity”の訳語であった。「真正性」や「真率性」といった言葉では、格調は高くなるかもしれないが、多くのひとり理解に資するとは思われます。最終的には、“authenticity”が芸術作品の真贋に、すなわち「ほんもの」か「にせもの」かにゆかりのあることばであり、またそうした語義は本書における用法にもかなっていると判断して、「ほんもの」という訳語を当てることにした。」

**(シュタイナー『自由の哲学』〜「第十五章 一元論の帰結」より)

*「世界の統一的な解釈、つまり本書で扱われている一元論は、世界解釈に要する諸原理を経験の中から取り出す。同様にまた行動の源泉を観察世界の内部に求める。つまり自己認識の可能な人間本性である道徳的想像力の中に求める。一元論は、知覚と思考の前に横たわる世界の究極の根拠を、抽象的な推論によって世界の外に見出そうとすることを拒否する。体験できる思考的考察が知覚内容の多様性に統一を与えるとき、それは一元論的な認識要求に適っている。この統一を通して物質的、精神的な世界領域へ入っていくのである。」

*「人間の精神は決してわれわれの生きている現実を超えてはいかない。世界の解明に必要なすべてはこの世界の中に存在している。だから現実を超える必要はない。(・・・)この世を超えるということは、どんな場合でもすべて幻想にすぎない。この世から彼岸へ移し換えられた諸原理だからといって、それがこの世の諸原理よりもこの世をよりよく解明してはくれない。そもそも思考はこのような超越をまったく必要としていない。思考はこの世においてもあの世においても同じ思考なのであるが。この世の外にではなく、この世の内にしか知覚内容を見出し得ない。そして知覚内容と結びついたときにのみ、思考内容は現実的なものになる。想像力の所産もまた、それが知覚内容を指示する表象内容になったときにのみ、現実の内容となる。それは知覚内容を通して現実に組み込まれる。」

*「一元論の考え方に従えば、われわれの行為の目標を、人間を超越した彼岸から取ってくることはできない。そのような目標は人間の直観に由来するものでなければならない。人間は彼岸に坐す根源存在の目的を自分の個人的な目的にはせず、自分の道徳的想像力が与える自分の目的に従う。人間は行動によって実現される理念を唯一の理念界から取り出し、それを自分の意志の根底に置く。だからその人間の行為の中には、彼岸が此岸に下した命令ではなく、此岸に住む人間の直観が生きて働いている。一元論はわれわれの外からわれわれの行動に目標を与えたり、方向を指示したりする支配者を認めない。行動の指針となる目標を与えてくれる究極的な根源存在が彼岸にいる筈はない。人間が自分自身に立ち返ることを求められている。人間自身が自分の行動に内容を与えねばならない。人間の生活圏外に意志行為の根拠を探し求めても、空しい結果しか得られない。母なる自然が与えてくれた本能衝動を満足させるに留まらず、さらに先へ進んで行こうとするなら、自分の同等的想像力の中に行為を規定する根拠を求めなければならない。そして他人の道徳的想像力に自分を従わせるような安易な態度をやめなければならない。言い換えれば、人間は自分の行為を衝動に委ねるか、それともじぶんの理念界から得た規定根拠に従って行動するかしなければならない。そうでなければ、誰か他の人が同じ理念界から取り出してきた規定根拠に従うことになる。人間がもっぱら自分の感覚的衝動や他人の命令に従うのではなく。さらに先に進んでいくなら、自分以外の何ものかによって左右されたりはしない。自分以外の誰かではなく、自分自身が選んだ動機によって、行動する。勿論その動機は同一の理念界の中で理念的に決められている。しかし具体的に見れば、ただ人間だけがこの動機を理念界の中から取り出して、それを現実の中へ移すことができる。人間が自分から積極的に理念を現実の中へ移し換えるとき、一元論は人間の中にそのための動機の根拠を見つけ出すことができる。或る理念が行為となるためには。まずそれを人間の意志にしなければならない。そして意志は人間そのものの中にのみその根拠をもっている。だから人間は自分の行為の最終決定者なのであり、人間は自由なのである。」

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