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竹端寛・永井玲衣 対談「ケアってなんだろう?」(webちくま)/竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』

☆mediopos3416  2024.3.25

竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』の刊行を記念した
竹端寛と永井玲衣の対談がwebちくまに掲載されている

『ケアしケアされ、生きていく』は
「ケアから逃げてきた私が、
ケアと出会い直すことによって見えてきた世界」を
以下の3つの視点から考えているのだという

1つめは「20歳の大学生の世界」
2つめは「6歳の子どもの世界」
そして3つめは
「昭和98年的世界」を生きる48歳の私の世界」

大学生を20年近く定点観測してきたことからすると
「20歳の大学生の世界」では
「「他人に迷惑をかけてはいけない憲法」に縛られて、
生きづらさを抱えているように思え」る

それに対して竹端氏の娘である「6歳の子どもの世界」では
「「迷惑をかけまくって」楽しく生きてい」るが
「そのうち親や教師を忖度する大学生になるのではないか、
と心配」になるという

「なぜ、のびのびした子どもが、その十数年後には
「他人に迷惑をかけてはいけない」と
縮こまる大学生になるのか?」

その背景を考えるにあたり
「昭和98年的世界」を生きる48歳の私の世界」
つまり昭和がすでにはるか昔に終わった今も
日本社会の基本的なOSのままである
「ケアレス」な世界が問い直されている

私たちは教育のなかでも社会のなかでも
「他人に迷惑をかけてはいけない憲法」を
守るべく教育を受けながら育ってきている

重要なのはまさに「セルフケア」なのだが
「人のことばっかり気にしてしまって、
自分をきちんと、豊かに満たすとか、
自分の言葉を喋って、自分として生きていく」
というほんとうの意味での
「セルフケア」がおろそかにされてしまっているのだ

竹端氏は現状のそれを
「自発的隷従のためのセルフケア」といい
永井氏は「「セルフをケア」じゃなくて、
「セルフでケア」だと思っている」という

竹端氏は河合隼雄の『こころの処方箋』の中の
「一人でも二人、二人でも一人で生きるつもりができているか」
という言葉をずっと30年程考え続けているというが
「一人でいても、二人でいるようなケア」(永井)によって
自分自身を豊かにするような開かれたケアが重要なのだ

その開かれたケアは
「自分の魂を社会や政治の問題の
すごく大きな枠組みとして見」る必要があるのだが
そのためにおこなわれる社会運動で声を上げるというときにも
それがマッチョなものになってしまったりする

「ケアの世界」では
「ミクロポリティクス、一人一人の関係性の中の政治と、
マクロポリティクス、小文字のp(politics)と大文字のP(Politics)」
という言い方がされるようだが

「大文字のPに対して、反権力だ、
今の首相のやり方はどうなんだって言っている人が、
身近な仲間の中で、男尊女卑であったり、
女性に対してセクハラしたりとかが許されてしまってる」

「社会運動1.0の人たちは、
「家庭の平和を犠牲にして世界の平和を目指している」ことが
美談のように語られる」という現状に対して
「世界平和の前の、家庭の平和」が重要なのだという

これはぼくの勝手な表現になるが
ケアにも小文字のc(care)と大文字のC(Care)が重要なのだ
大文字のCが大上段に語られるとしても
自分の魂や身近なところでのケアとしての小文字のcが
おろそかにされているとそれは
「自発的隷従」や「セルフでケア」になってしまう

「6歳の子ども」はいつまでも
「6歳の子ども」ではいられないが
「20歳の大学生」になったとき
調教されて「セルフケア」ができなくなっているような
社会環境や教育環境が問い直される必要がある

いうまでもなく積極的に「迷惑をかける」のは避けるべきだが
「他人に迷惑をかけてはいけない憲法」のまえで
自縄自縛になると自分の魂も身体もおろそかになる

昨今のコロナ・ワクチンによる大量死という事態も
そういう「憲法」を押しつけ合うように
政府やメディアからの巧妙な強要を「憲法「にした
陰惨なまでの結果でもある

そろそろ世の中のOS
いうまでもなく個々人のOSもふくめ
新たな時代に向けて
新たなヴァージョンづくりをおこなう必要がある

■竹端寛・永井玲衣 
 対談「ケアってなんだろう?/迷惑をかけあう社会に向けて」
 (『ケアしケアされ、生きていく』刊行記念対談 webちくま 2024/3/11・3/18)
■竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書 2023/10)

**(竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』〜「著者からひと言」より)

「この本は、ケアから逃げてきた私が、ケアと出会い直すことによって見えてきた世界を、みなさんにも馴染みがある3つの視点から考えてきた本です。

 1つめは20歳の大学生の世界です。私は大学生を20年近く定点観測してきました。その上で、今の学生が「他人に迷惑をかけてはいけない憲法」に縛られて、生きづらさを抱えているように思えます。それは一体どういうことなのか、を考えてみました。

 2つめは6歳の子どもの世界です。私の娘は今、6歳なのですが、「迷惑をかけまくって」楽しく生きています。安心して迷惑をかけられる環境で、のびのび生きています。でも、ちゃんとしなさい、と叱り続けると、そのうち親や教師を忖度する大学生になるのではないか、と心配しています。

 なぜ、のびのびした子どもが、その十数年後には「他人に迷惑をかけてはいけない」と縮こまる大学生になるのか?

その背景を考えるうえで、3つめの世界、「昭和98年的世界」を生きる48歳の私の世界を考えています。昭和が終わって30年以上経っても、日本社会の基本的なOSは昭和時代のままです。理不尽な労働環境でもがまんする、抑圧的環境に「どうせ」「しゃあない」と諦める。それが、女性の管理職や政治家比率が低く、イノベーションが生まれにくい「失われた30年」の背景にあると私は考えています。そして、この世界は「ケアレス」な世界です。

 この閉塞感をこえるためには、日本社会がケア中心の社会に変われるか、が問われています。能力主義や男性中心主義の呪縛の外にある世界です。それは、共に思い合う関係性が重視されるし、そのためには自分自身の「唯一無二性」とも出会い直す必要があります。そんなの無理だよ!と理性の悲観主義に陥らず、ではどうやったらケア中心世界は可能なのか、について、できる一つの可能性を模索したのが、本書です。」

**(対談「ケアってなんだろう?/迷惑をかけあう社会に向けて」より)

(「前編」より)

*体系だってないのがいいですね

「永井 この本(竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』)を読んでいて、まず聞いてみたいと思ったのは、竹端さんは誰のことを考えながら原稿を書いていたのか、ということです。」

*20歳の学生たちに届く言葉で

「竹端 今回の想定読者ははっきりしてて、うちのゼミ生なんです。20歳ぐらいの、自分に自信がなくて、すごく周りのことを気にして、「他人に迷惑をかけてはいけない憲法」に縛られている学生たち。僕が教えてる大学にはそういう子が結構いて、それはうちの大学だけじゃないと思うんですけど、彼らに届く言葉を書こうっていうのがすごくあったんです。」

*福祉はイノベーティブでおもしろい

「永井 特にケアという、漠然としていて、仲間と話すのにはあまりにベタに聞こえてしまうことを彼らに届く言葉で、というのはすごく大事ですよね。ケア? 知ってる知ってるみたいに言われちゃうところを、これは大事な概念だからって何度も掘り起こさないといけない。それを学生たちに届く言葉で書くには、どういうことを気にかけたんですか。

 竹端 僕は、福祉社会学が専門で、ゼミ訪問で学生が来ると、福祉って暗いんじゃないんですかって必ず言われるんです。福祉というのは不幸だったり可哀(かわい)そうだったりする人の話だって言われるのが、死ぬほど嫌いで。なぜかと言うと、実は、ケアとか福祉というのは、悪循環の状態にいるような人が、好循環になるためのものなんです。だから、すごくイノベーティブでおもろい営みのはずなんです。例えば、うちの6歳の娘がケアを必要としてる時は、お腹が減ってたり、疲れてたり、眠たかったり、不安で泣き叫んでたりする時なわけです。その状態は確かに不幸なんですが、適切なケアをすることによって、お腹いっぱいになった、安心して寝られた、不安な気持ちが抱っこされて落ち着いたとなったら、ハッピーになるわけです。だから、可哀そうとか、不幸な状態かというと違う。そういうことが、すごく大事なんだけど、18~20歳くらいの学生たちは、全くそれに気づいてない。もっと言うと、20歳の子が、お肌のお手入れはしてるかもしれへんけど、ほんまの意味では、セルフケアができてないっていうか、人のことばっかり気にしてしまって、自分をきちんと、豊かに満たすとか、自分の言葉を喋(しゃべ)って、自分として生きていくみたいなことができてないなと思って。そういう彼女や彼に届ける文章ってどうやって書けるんやろうかなってのが、頭の中にありました。」

*セルフケアという言葉の危うさ

「永井 自分を気にかけるという、セルフケアが今すごく流行(はや)ってますよね。なんでかわかんないんですけど、私のところにセルフケア系の取材とか原稿依頼がめちゃくちゃ来るんです。なんで私がって毎回思うぐらい。

 竹端 自分の言葉を取り戻すためのセルフケアっていう視点で、永井さんが着目されてるんじゃないですか。

 永井 セルフケアについて、なんか知ってそうみたいな勝手なイメージがあるんです。でも私、毎回答えるたびに、なんだそれってなっちゃうんです。竹端さんは、セルフケアという言葉が持つ危うさについてもすごく指摘をされてますよね。なんか、高いバスタオルを買うことの言い訳になっていたりとか。

 竹端 消費と連動したセルフケアね、うん。

 永井 そうやって物を買ったり、あるいは、ちょっと息抜きをして、明日から死ぬほど労働しようっていう、合間のセルフケアみたいなものとか。

 竹端 自発的隷従のためのセルフケアね。

 永井 かっこいい言葉で言ってくれる(笑)。セルフケアというのを、ほぐしてみると、「セルフをケア」じゃなくて、「セルフでケア」だと思っているんですよね、そういう人たちは。

 竹端 孤立するケアね。

 永井 そうやってケアというものがすれ違っていく中で、竹端さんが捉えたいセルフケアはどういうものですか。

 竹端 基本的に人は関係性の中で生きてると思うんですよ。その中で、多くの人は関係性の豊かさではなく、関係性のしがらみや生きづらさ、息苦しさの中で窒息しているわけです。そういう時に、窒息している人が自分の息を取り戻すということが、僕はある種のセルフケアだと思っています。

 永井 なるほど。

 竹端 さらに言うと、それは自分の言葉を取り戻すプロセスでもあるなと思ってます。永井さんのとこにセルフケアの取材が来るのはまっとうで、永井さんの哲学対話は、多分、自分の言葉を取り戻すための対話ですよね。

 永井 そうですね。しかもそれは、自分の力でやらないっていうところがすごく大事で。この「ケアしケアされ、生きていく」っていう言葉、その通りなんです。対話ってなんですかってよく聞かれるんです。その度ごとに、「いや、なんですかね?」とか言って、みんながぎょっとするんですけど……。あなたがいなければ考えることができなかったっていうのが対話だと思うんです。あなたがいなければこの言葉は出てこなかった、あなたがいなければ考えなかったということが起きているっていうのが、対話的で、つまり聞き合う、響き合うっていうことだと思うんです。自分の言葉を取り戻していくと同時に、さっき福祉がクリエイティブだっておっしゃったんですけど、すごくクリエイティブな時間だと思っていて。誰かが言うから、それを「あ、それ私の言葉だ」って発見したり、そこと混ぜて作ったりとか、そういう感覚ですね。」

*一人でも二人

「永井 しんどいセルフケアって一人ぼっちで、自分自身と二人っきりになっちゃうのがしんどい気がする。これはぜひ竹端さんに聞いてみたいんですけど、福祉の文脈でも、私すごい大好きなNPO抱樸(ほうぼく)っていう 困窮者支援をしているところがあって。

 竹端 奥田(知志)さんのところですね。

 永井 はい。奥田さんがよく聖書の創世記の神がアダムを作った後に、 人は一人でいるのはよくないって言って、二人目としてイブを作るという描写の部分をよく引かれるんです。 そこに私は、人はもう1行足したくて、一人で生きるのは良くない、だが二人きりもよくないって、書きたいんですよ。二人きりって、もう息が詰まって、福祉やケアの場で、二人しかいないというのはすごくしんどい。

 竹端 密室のケアは危ないです。

 永井 そういった時に、一人っきりのセルフケアって、それとすごい似てると思ってて。私が私をという密室のケアになっていて危ないなって思うんです。

 竹端 だから、「哲学対話」もそうだと思うんですけど、いかに場を開き、自分を開くのかっていうことの中で、ケアされていく部分があるように思います。今、頭の中で浮かんでるのが、河合隼雄が、『こころの処方箋』(新潮文庫)の中で、「一人でも二人、二人でも一人で生きるつもりができているか」っていう名言があったんですよ。これってどういうことかなって、僕は18歳で、河合隼雄が好きになってから、30年ぐらいずっと、その言葉を自分の中で転がしてるんです。セルフケアというのも、それが一人で、閉じこもってしまうとやばいけど、例えば、想像上の永井さんが居て対応してたらどうなるだろうとか。あるいは、そういう風な形で開かれていくと、自分の気持ちも開かれていく。逆に言ったら、例えばそこに他者がいても、全くそこで対話してない、繋がってないと思ったら、全く一人になってしまうわけじゃないですか。二人でいても、それは開かれてないっていうことになります。セルフケアということを考えた時に一人でいても二人と思えるようなことは、セルフケアになってると思うんですよ。

 永井 一人でいても、二人でいるようなケア。

 竹端 開かれてるというか、自分自身が豊かになっている。逆に言うと、いくら、お互いにケアしましょうって言っても、ちゃんと繋がってないと、全く一人になってしまうっていう意味で、自分自身も追い込まれていくという部分があるような気がします。」

(「後編」より)

*「開かれる」とは?

「永井 竹端さんは、この本で「開かれる」ということについて、書いていますが、子どもは変に社会化されていないからこそ、開かれているというのはどういう意味ですか?

 竹端 ちょっと感覚的な話をしますけど、小さい子どもといると、子どもは魂が開かれてるような気がするんです。まっすぐ向かってくるし、ちょっと父親が怒って「あかんのちゃうか!」って強めに言ったら、うわーって泣き出す。こちらの表情とか、思いを100パーセント受け止めるんです。そうすると僕は、なんてひどいことしてるんだろうと思う。それは、僕が親になってこの6年間、自分がいかに世間的な親の役割に縛られてるのかということを痛いほど感じてしまって、苦しいからなんです。

 永井 苦しい……。

 竹端 2022年に出版した『家族は他人、じゃあどうする?--子育ては親の育ち直し』(現代書館)という本に書いたんですが、「ちゃんとしなさい」って言葉、みなさん、「ちゃんと」ってどういう意味かわかります? 「ちゃんとしなさい」って子どもに言ってもさっぱりわからないんですよ。大人たちが知っている社会的合意、社会の規範が求める「ちゃんと」に自分を合わせなさいっていうことなんだけれども、子どもが4、5歳ぐらいの時には、そんなこと全く知りもしないわけで。「ちゃんとしなさい」って言っても、ポカンとしてる。それに対して、さらに「ちゃんとしなさいって言ったのに、なんでちゃんとしないの!」って追い詰めたら、ますますポカンとするわけ。

(・・・)

 永井 ちゃんとしなさい、の「ちゃんと」って何でしょう?

 竹端 実は、そこで僕自身が すごく飼い慣らされて生きていて、ちゃんとした規範の中で縮こまるようになってたんだっていうことに、初めて気づいてしまって、それが、43か44歳ぐらいだったんです。僕は、それまで好き勝手に生きてると思ってた。でも、実はちゃんとしなさいの世界に閉じ込められていたんだと、初めて気づかされた。話がだいぶ回り道しましたが、子どもが「開かれ」てるというのは、そういう「ちゃんと」というような規範の世界ではなく、純粋な心持ちを持っているということです。それに対して、僕は「ちゃんと」という規範の中に自分の心を閉ざしていて、それ以外の領域をなかったことにしていたということに気づいたんです。それを言葉にするのにすごく時間がかかって、編集者とやり取りしながら3年かけて前作の『家族は他人、じゃあどうする?』を書きました。」

*もう令和なのにまだ昭和98年の世界!?

「永井  (この本を)書きながら、竹端さんが一番わからん!と思ったことはどこですか?

 竹端 この本は三つの世界で構成されていて、ひとつは僕が20年ぐらい接している20歳の大学生の世界、もうひとつはうちの娘、6歳の世界です。どちらも分からない部分もあるけれど、なんとなく分かる感じがある。そして、もうひとつが、48歳の僕の世界で、今年は令和5年ですが、昭和で言うと98年なんですよね。その昭和98年的世界を僕は本に書いたんですけど、一番わからないのは、昭和98年の世界です。

 永井 一番わからない?

 竹端 よく分かっているようでいて、よく分からないんです。令和の世の中になっているにもかかわらず、いまだに社会のOSは昭和なわけです。夫婦別姓にならないとか、男性中心主義型の働き方は変わらないとか、国会議員のクォーター制も導入されないとか。いまだに昭和が続いてるじゃないですか。この本でそれはなぜなのか考えたけど、やっぱりまだ全然答えがでてきません。

 永井 社会がなぜまだまだこんなにも強固に変わらないのかっていうことが、わからないっていうことですか。

 竹端 そうです。だって変わって欲しいじゃないですか。

 永井 変わって欲しいですね。」

*24時間戦う、のか?

「竹端 社会は変わらずに昭和98年で、「24時間戦えますか」の世界が続いている。今の若い人は知らないと思いますが、リゲインという栄養ドリンクのテレビCMに「24時間戦えますか」っていうフレーズがあったんです。1988年です。(・・・)今、令和になって変わったかというと、確かにワークライフバランスが大事だと言われたり、共働きが増えたりはしていますが、会社である程度昇進しようと思ったら、ものすごく働かないといけない。働いている人もしんどいと言ってるのに、いまだにそれが残存してる。それがわからない。

 永井 私、「哲学対話」という場を開いてるんですけど、そこでは、参加者から、問いを出してもらってそれについて話すんです。いかにも哲学っぽい「自由とは何か」みたいなかっこいい問いもありますが、私は手のひらサイズの問いというのをすごく大事にしていて。

 竹端 手のひらサイズ?

 永井 等身大の、人肌のあるような問いっていうのをお聞きするんです。そこで出てくる言葉って、なんで二日酔いになると分かっているのに飲むんだろうとか、エレベーターの中ってなんであんなに気まずいんだろうとか、髪の毛は生えてる時は平気なのに、抜けるとなんで急に気持ち悪いんだろうとか、そういう手触りのある問いが出てくるんです。今、ひとつ目の、なんで二日酔いになるとわかってるのに……という問いは、「わかっちゃいるけど、やめられない」っていう、昭和の曲なんですよね。竹端さんのお話を聞いていて、今の社会への認識はすごく進んでいて、全員がいろいろわかっているんですよね。で、それはいろんなイシューに当てはまって、まず、戦争もそうだし、気候危機もそうだし、労働問題も、資本主義も、ケアにまつわることも、「わかっちゃいるけど、やめられない」。私、朝日新聞の「問いでつながる」という連載で、迷惑とは何かという回に、昭和のCMで「風邪は、社会の迷惑です」というのがあったと書いたんです。風邪が社会の迷惑! とテレビで普通に放映されていて、さすがにそれは、変じゃないかと今の私たちの価値観としては感じるんだけど、それでも誰も手を止められない。そういう意味では、より悪質になってるんじゃないかと思うんです。認識は進んでいると希望的に見ることはできるんだけれども、それが今度は陳腐化、形骸化していって、大変だよねとか、地球環境やばいよねって言いながら冷房の温度下げちゃうみたいな時代に入りかけてるんじゃないか、と。」

*我慢して迷惑かけない人になっていくのがいい、のか?

「竹端 今日、朝の授業でジェンダー平等について話をした時に、皆さんだったら社会問題についてモヤモヤした時に、声を上げますか、それとも我慢しますかって聞いたら、大半の子が、自分が直接被害を受けるのであれば声を出すかもしれないけど、大概の場合、我慢するって答えたんです。

 永井 我慢ですか……。

 竹端 それは、やっぱり言っても仕方がないとか、自分一人が言ったところで、みたいなことなんです。これと、「他人に迷惑をかけてはいけない」をかけ合わせると、ものすごく世間にとって都合のいい子が出来上がるなって僕は思います。(・・・)そういう子は、企業にも簡単に就職できるし。社会の主流の価値観にそれはおかしい! と言わないし、社会に迷惑をかけてはいけないから、何か違うと思っても、主張せずに我慢する。自発的隷従ですね。要は自分の方から奴隷のように飼いならされていく。そのようにこの社会は巧妙に仕組まれているような気がして。昭和は終わったけど、30年かけて我々を飼いならすことに大成功したんじゃないかと思うんです。(・・・)

何が言いたいかというと、社会はスムーズに進むかもしれない。でも、そのために、社会に迷惑かけないようにしんどくても休まず風邪薬を飲んで、無理してでも頑張れっていう世界です。それは嫌だなと思うし、さっきの話に戻ると、魂に良くないと思う。「他人に迷惑をかけない」ことって、「自分の魂に迷惑をかけ続けること」なんじゃないかと思います。まずは自分の魂をケアすること、そこが大事なんですよね。

*ケア的な社会運動

「永井 ケアっていうと、ほんのり優しいみたいなイメージを持たれがちですけど、そういうことじゃないんですよね。ケアは、自分の魂を社会や政治の問題のすごく大きな枠組みとして見ないといけない言葉なんですよね。(・・・)これまでの社会運動で声を上げてきた人たちにすごく尊敬の念を抱いてるんですけども、でも同時に、その抵抗の運動もまた非常にマッチョだったということも言及しないといけない。マッチョではない、優しい、穏やかなケア的な社会運動ってどういうものなんだろうっていう問いがここで生まれるんですが……。

 竹端 僕は10代から社会運動に興味をもったり、コミットしてたりしていて思うのは、「反権力」の運動の中にも「権力性」があるということです。(・・・)僕は今48歳で、永井さんたちのような社会運動2.0とマッチョな社会運動1.0との間ぐらいにいるので、「社会のため、いいことするためには歯を食いしばって耐えるのも仕方ない」みたいなことが言われた、昭和の論理も見てます。この昭和の論理は、あまりにも不健全だから少なくとも社会運動的には根絶したいです。

 ケアの世界では、ミクロポリティクス、一人一人の関係性の中の政治と、マクロポリティクス、小文字のp(politics)と大文字のP(Politics)っていう言い方をするんですけども、大文字のPに対して、反権力だ、今の首相のやり方はどうなんだって言っている人が、 身近な仲間の中で、男尊女卑であったり、女性に対してセクハラしたりとかが許されてしまってる。いくら理念や主義主張の世界(大文字のP)で素晴らしいことを言ってても身近な人間関係(つまりは小文字p)の実践の中でハラスメントしていたら、言行不一致だと思う。なので僕は、「世界平和の前の、家庭の平和」って言ってるんですよ。社会運動1.0のおじさん達には非常に評判悪いんですが。

 永井 え、なぜですか?

 竹端  社会運動1.0の人たちは、「家庭の平和を犠牲にして世界の平和を目指している」ことが美談のように語られるから……。優しい社会運動に繋がるかどうかわからないけど、身近な世界(小文字のp)の平和があった上で、より大きな世界(大文字のP)の平和を構築しなかったら、筋が通らないと思うんです。この2冊の本が書けたのは、6歳の子の世界を絶対基準にして書けたからです。僕は、子どもが生まれるまでめちゃくちゃ仕事人間で。

 永井 でもいくら福祉のことを語っていても家族関係をおろそかにしてたら嘘じゃないかと思っていたんですね。

 竹端 (・・・)まずは、自分や身近な人のケアをしていかないことには広がらないんですよね。」

□竹端寛『ケアしケアされ、生きていく』【目次】
  
第一章 ケア? 自分には関係ないよ!
一 「迷惑をかけるな憲法」
他人に迷惑をかけてはならない/都合のいい子!?/大人から学んだ「いい子」
二 しんどいと言えない
意見を表明する権利/他人の顔色をうかがう/苦しいことと苦しみ
三 自分自身を取り戻す
ゼミで涙を流す学生/ペラペラしない他者/ about-ness からwith-nessへ
四 面倒な中に豊かさがある
ケア不在を超えるために/自分の魂に迷惑をかける?

第二章 ケアって何だろう?
一 確かに面倒なのだけれど
めっちゃ可愛く、めっちゃややこしい/存在をぶつける/意見表明の主体としての子ども/一方的にケアされる存在ではない!
二 自分へのケアと他人へのケア
子どもの「開かれ」/自分の人生へのリミッター/忖度の危機/作られた悪循環/偽解決を超えるために
三 他者へのケアの前に
支援か支配か?/関係性のダンス/同調圧力に異を唱える/誰へのケア?
四 互いが気にかけあう
自分へのケア/共に思いやること/ with-ness で生活を回す/何を見ようとしてこなかったのか

第三章 ケアが奪われている世界
一 ケアのないわたし
ケアレスとはなにか/同調圧力と「空気を読む」/自己責任とわきまえ/ケアレスな社会
二 「昭和九八年」的世界
労働ファースト/最も眠れていない国/頑張れば報われる、の呪い/前時代の大成功、ゆえに
三 標準化・規格化の「大成功」の陰で
昭和の成功を支えたもの/銀行型教育システムへの囚われ/「正解」幻想/昭和的価値観の限界
四 ケアの自己責任化を超えて
「発達」の「障害」?/置き去りにしてきたケア世界/自分が学んだことはこれなのか!/「ちゃんと」のリミッターを外す

第四章 生産性至上主義の社会からケア中心の社会へ
一 生産性とケア
誰のための、何のための効率?/男性中心主義の外にある世界/能力主義の呪縛/「生産離脱者」の排除
二 責任の共有化で楽になる
依存先を増やす/関係性に基づくケア/懲罰ではなくエンパワーする責任/切り分けるのではなく、分かち合う責任
三 共に思い合う関係性
中核的感情欲求と向き合う/生き様の理解と支援/迷惑をかけるな、より大切なもの/他者の他者性に気づくこと
四 ケア中心の社会へ
己の唯一無二性とも出会い直す/魂の脱植民地化/葛藤を共に味わい社会化する/できる一つの方法論

○竹端 寛(たけばた ひろし)

1975年京都市生まれ。兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は福祉社会学、社会福祉学。主著は『「当たり前」をひっくり返す――バザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』、『権利擁護が支援を変える――セルフアドボカシーから虐待防止まで』(共に現代書館)、『枠組み外しの旅――「個性化」が変える福祉社会』(青灯社)、『家族は他人、じゃあどうする?』(現代書館)など。

○永井 玲衣(ながい・れい)

哲学研究と並行して、さまざまな場所で哲学対話を幅広く行っている。エッセイの連載、坂本龍一・Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と将棋と念入りな散歩が好き。

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