多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』/【鼎談】多和田葉子×関口裕昭×松永美穂/加地大介『[増補版]穴と境界/存在論的探究』
☆mediopos-3101 2023.5.15
多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』は
すでにmediopos-2982(2023.1.16)で
とりあげているが
「文學界」の2023年6月号に
「文学と文学研究の境界を越える
『パウル・ツェランと中国の天使』をめぐって」
という多和田葉子×関口裕昭×松永美穂よる
鼎談が掲載されている
mediopos-2982でも
パウル・ツェランの詩の翻訳における
「門構えの重要性」に関する
訳者の関口裕昭による示唆を紹介している
作者の多和田葉子が
「聞」と「閃」における「境界」に注目していること
そしてツェランの詩的言語の翻訳における
「穴冠」を用いた「穴」「空」「窓」という
三つの漢字によって
「新しい解釈の世界が見えてくる」という示唆である
訳者としても
「これが僕が今回一番この訳で力を入れた、
重要だと思った部分」なのだという
とくにツェランの詩や多和田葉子の作品とは
直接関係してはいないが
ちょうどその小説の訳が刊行された今年一月
ほぼ同時期に
『穴と境界/存在論的探究』という哲学論文の
「増補版」(初版は2008年)が刊行された
まさに「境界」であり「穴」
はたして「穴」とは何か
「境界」とは何か
について考える端緒となった興味深い論文である
「穴」も「境界」も
だれにとっても身近にあるにもかかわらず
それは存在しているのか存在していないのか
それは具象なのか抽象なのか
それは物質なのか非物質なのか
というように
「もの」と「こと」のあいだにあって
きわめて不思議である
「穴冠」のついている
「穴」「空」「窓」という漢字も
それは「もの」と「こと」の「境界」にあって
それそのものが存在と非存在のあいだで
ゆれている現象であるともいえる
つまりたとえば「穴」は
「穴」という現象としては成立していたとしても
「穴」そのものが存在しているわけではないように
ツェランの詩を
そうした「境界」としての「穴」によって
「解釈」するということ
そこに「翻訳」の創造性が
まさに「窓」のようにひらかれていることは興味深い
■多和田葉子(関口裕昭訳)『パウル・ツェランと中国の天使』(文藝春秋 2023/1)
■【鼎談】多和田葉子×関口裕昭×松永美穂
「文学と文学研究の境界を越える————『パウル・ツェランと中国の天使』をめぐって」
(文學界2023年6月号)
■加地大介『[増補版]穴と境界/存在論的探究』(春秋社 2023/1)
(多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』〜関口裕昭「訳者解説」より)
「八二年にドイツにわたり、日本語とドイツ語の両方で創作を始めた多和田は、大学でドイツ文学の学業を続け、自分なりにツェランを読み続けていた。あるとき『テクストと批評』という定期刊行物から「ドイツ文学は外国でどう読まれているか」というテーマで原稿の依頼があり、テーマ設定に多少の疑問を感じながらも、執筆を引き受けた際に書いたのが門構えをめぐるツェラン論であった。これは「モンガマエのツェランとわたし」と題して『現代詩手帖』(一九九四年五月号)に日本語に訳して発表され、さらに「翻訳者の門————ツェランが日本語を読む時」という題で『カタコトのうわごと』に収録された。
そのきっかけとなったのは知人のクラウス=リューティガー・ヴェアマンが、多和田がコピーを送った飯吉光夫の『閾から閾へ』の日本語訳に対して(ヴェアマンは日本語を学んでいた)、その翻訳における門構えの重要性を指摘したことに始まる。確かに『閾から閾へ』のその日本語訳には門構えの漢字————閾、闇、閃、開、間、門など————が頻出する。ツェランの「ぼくは聞いた」は「ぼくは「聞いた、水の中には/石と波紋があると、」と始まる。これらを踏まえて、多和田は「聞」という字についてこう述べる。「「聞」という字では、門の下に耳がひとつ立っている。聞くというのは、全身を耳にして境界に立つということらしい」。また「閃」という字については、「門の下に人がひとり立っている。(・・・)もしかしたら、門の下、つまり境界に立っている人の目には、見えない世界から閃き現れてくるものが見えやすいのかもしれない」と述べている。
注目したいのは多和田が双方の「境界」に注目していることだ。単にツェランの詩に「門」や「扉」と訳せるTorという形象が頻出するだけではなく、ツェランの詩的言語が境界そのものであることを暗示しており、そこに難解であるツェランの詩の「翻訳不可能性」ではなく「翻訳可能性」を多和田は読み取っている。多和田はこうしたことを計算したうえで、つまり日本語に訳された時にどうなるかを考えてこの小説もドイツで書いたと訳者には思われる。
彼は深夜の段数を数える。(・・・)彼が四十七を数えると、彼の鍵が鍵穴にぴったり会う。彼の住まいは毛むくじゃらの建物の屋根の真下にある。曇った小さな天窓だけが外に開かれており、空が賭けに加わると、その空間は薄暗い穴ではなくなる。(九四頁)」
(【鼎談】多和田葉子×関口裕昭×松永美穂「文学と文学研究の境界を越える————『パウル・ツェランと中国の天使』をめぐって」〜「空、窓、穴」より)
「関口/これが僕が今回一番この訳で力を入れた、重要だと思った部分です。
94頁「彼は深夜の段数を数える。登っては数え、その数が登り続けるモチベーションとなる。彼が四十七を数えると、彼の鍵が鍵穴にぴったり会う。彼の住まいは毛むくじゃらの建物の屋根の真下にある。曇った小さな天窓だけが外に開かれており、空が賭けに加わると、その空間は薄暗い穴ではなくなる(原文略)」。
日本語の「空」には、英語のskyとかドイツ語のHimmelとちょっと違うニュアンスが含まれています。漢字の「空」は、穴冠なんですよね、空は一つの空洞で、穴の下に工という文字がある。工具でつらぬく、という意味です。ですから、漢字を見ると、普段見えていた空が、別のイメージになってくるわけです。「むなしい」とか「うわのそら」といった意味が導き出される。
これに気づいたのは、実は学生向けに白雪姫を翻訳していたときでした。お妃が雪を見ているシーンに窓と空、指を突くという言葉が出てきて、偶然、穴冠が重なっているな、と。多和田さんがこの小説で、門構えや草冠の漢字について、ツェランの詩を通して書いていることを僕も使わせていただいて、穴、窓、空と穴冠の漢字を用いて訳しました。
松永/多和田さんの「翻訳者の門」というツェラン論に、ツェランの日本語の詩集に門構えの漢字たくさん出て来ることから、新しい解釈の世界が見えてくる、とありましたね。」
(加地大介『[増補版]穴と境界/存在論的探究』〜「第2章 穴」より)
「世界は穴で充ち満ちている。しかし他方、穴ほど「存在感」のいものも珍しい。穴など存在しない、少なくとも「実在」しない、と言いたくなる要因は山ほどある。穴を穴たらしめる一つの本質的要件は、そこに何もないということである。穴は無によって存在する、という逆説的構造がそこにはある。また、穴が存在するとすれば、それは時空間の中に存在する以上、「具体的な対象」であるはずである。しかし、それは「物理的な対象」すなわち、「物体」であると言えるだろうか? むしろ物体の欠如によってこそ穴たり得るのだとすれば、やはり物体とは言えないのではないか。もしも言えないとすれば、穴の存在を承認することは、「非物理的な具体的対象」の存在を承認するということになる。現代に生きる多くの物理主義者にとって、そのような穴という存在者は容認しがたいものであるはずだ。
もちろん、先に挙げたような穴たち(註:(自然的対象)洞穴、窪地、谷間、盆地、川、池、湖、海溝など/(人工物)CDの中心の穴、フロッピードライブ・USBプラグ・電気コンセントなどの差し込み口、スピーカーの細かな穴、引き出し、ゴミ箱、洗面台、コップ、バケツ、電線チューブ、水道管など)は、あくまでも私たちとその環境という、日常的・生物的レベル、いわゆる中間レベルでの話なので、量子論的なミクロレベルおよび宇宙論的なマクロレベルという物理学的(および化学的)レベルにおいては、穴のような非物質的存在者は必要ないと言えるかもしれない。しかし、物理学によって記述される世界にも穴はしばしば登場する。ディラックによって「負エネルギー粒子(negativ-energy particles)の海」の中の「穴(泡)」としてその存在を予言されたのが、その直後に発見された陽電子を代表とする反粒子である。またマクロレベルにおいても、例えばブラック「ホール」の理論は現行の宇宙論の要である。これらの点で、いわゆる「穴の実体化」の最良の例を提供しているのが実は最先端の物理学であるとさえ言える。自然科学においても、穴は決して「侮れない」のだ。」」
(加地大介『[増補版]穴と境界/存在論的探究』〜「第3章 境界」より)
「カサティとヴァルツィおよびスミスは、真正境界と規約的境界という区別と、ボルツァーノ的境界とブレンターノ的境界という区別とを連動させて捉えていた。しかしむしろ、両者は独立の区別と見なすべきではないだろうか。彼らによれば、真正境界はボルツァーノ的境界であり。規約的境界においてのみ、それをブレンターノ的境界として捉える余地があった。しかし、ボルツァーノ的・ブレンターノ的という区別は、非対称性・対称性という区別を中心とする抽象的・構造的対比であるという点において、そもそも真性的・規約的という具体的・内容的対比とは異質のものなのではないだろうか。
また、真正的・規約的という区別は、当該の対象がどのような由来によって(広い意味での)「実在性(reality)」もしくは「客観性(objectivity)」を帯びているのかに関する区別であると考えられる。すなわち、それが物理的、自然的な要因によってもたらされているのか、それとも社会的、制度的な要因によってもたらされているのかという相違である。そしてその区別には色々な解釈や程度の余地があり、また、(例えば、地理的不連続性に基づいて定められた国境のように)必ずしも両者は排他的ではないようにも思われる。
私はこれに対し、むしろ境界に関して重要な区別は、現実的(顕在的actual):可能的(潜在的potential)という様相論的な区別ではないかと考える。したがって例えば、国境のような「規約的」境界であっても、それは制度的に定められたところの「現実的」な境界であり、また逆に、心臓とその周辺部分の身体的境界は、少なくとも生理学的な機能に裏打ちされた自然的境界であるという点で「真正的」であるが、少なくともそこに顕在的な不連続性は存在しないという点で、「可能的」な境界であることになる。(・・・)
もしも以上のような二種類の基準を採用すると、境界には、表のような四種類が存在することになる。」
※以下、「表」も文字部分のみ記載
現実的(顕在的) 可能的(潜在的)
非対象的 非対症的現実的境界 非対症的可能的境界
(ボルツァーノ的)例:物体とその補空間との境界 例:物体のある(真)部分
とそれ以外の部分との境界
現実的(顕在的) 可能的(潜在的)
対象的 対症的現実的境界 対症的可能的境界
(ブレンターノ的)非対症的現実的境界 非対症的可能的境界
例:接触し合う物体間の境界 例:物体の接触し合う
ある(真)部分間の境界
「そしてこのように分類してみると、結局のところ、非対症的境界と対象的境界との相違は、そこで問題とされている物体が一つであるか二つであるかという相違に他ならないことがわかる。」