吉田 量彦 『スピノザ 人間の自由の哲学』/ユング『タイプ論』
☆mediopos2673 2022.3.12
本書の副題は
「人間の自由の哲学」となっているが
すべては神であるとする
スピノザを論じるにあたって
「自由」というのはすこしばかり意外である
しかしスピノザは
『神学・政治論』において「哲学する自由」
つまり思想・言論・表現の自由がなければ
国の平和や道徳心は損なわれてしまうという
本書を読む限りでは
スピノザにとっての自由は
どうすればひとは「とらわれた状態」
「受け身の状態」を抜け出せるのか
というところに論点があるようだ
そしてそのためには
「感情と観念の非対症的関係」を
克服しなければならない
スピノザにとって「感情の原型」は
「自らの存在に固執しようとする力」であって
それを抑制したり排したりすることはできないがゆえに
自分を動かしている感情を
「きちんと認識する」ことが必要だという
スピノザはそれを
「十全な観念」という用語で表現していて
それがないときひとは
「十全でない観念」に動かされてしまうのだという
だから「十全でない観念を一つ一つ取り上げなおし、
これを十全な観念へと組み換えていく」ことで
感情を自発的・能動的なものに方向づけなければならない
しかしながらそれは非常に困難なことなのだという
「理性」はそうした方向づけを
事後的に処理するしかできないのだという
だから「整理されていない感情に」
つい振り回され、我を忘れた行動に出ることもある」
そうしたことを「最小化」するためには
「直観の知」が必要なのだという
スピノザにとって「知」には
「想像の知」「理性の知」「直観の知」
という3つがあり
「想像の知」は「十全でない観念を含んだ知」だが
ほかの2つの「知」は「必然的に正しい」
「理性の知」と「直観の知」とは
ともに「正しい」といっても「別系列の知」であって
両者が互いに支えあいながら
「十全な観念」をつくっていくことが可能となるのだという
以上本書で論じられている
スピノザの「自由」について少しばかり追ってみたが
スピノザには「知」や「正しさ」から
どうしても離れられないというイメージがある
だから新たな「感情」が起こってから事後的に
それを「知」で「正しい」ものにしていこうとするのだが
しかしそうした「正しさ」へ向かうことで
ひとは「自由」になれるのだろうか
そこには「感情」は否応ないものだが低次のものであり
「知」こそがそれを統御すべきものだという観念が
疑いもなく存在してはいないだろうか
そこでかなり唐突になるかもしれないが
(スピノザとユングはずいぶん異質である)
ユングの『タイプ論』の視点から
その「知」への偏向とでもいったものを見ておきたい
ユングの『タイプ論』には
基本的に人間には
内向型と外向型という心的態度と
感覚・思考・感情・直観という
四つの心理的機能の視点がある
そしてこれらが組み合わされ
内向的思考タイプや外向的直観タイプといった
合計8つのタイプに分かれて論じられている
どれかのタイプが優れていて
逆にどれかのタイプが劣っているというわけではなく
「意識が完全な方向づけを得るためには」
たとえば四つの心理的機能においても
感覚・思考・感情・直観の「機能がすべて
同程度に働かなければならない」のだが
「たいていはどれか一つの機能が前面に出て、
残りは背後で未分化なままになっている」という
ごく単純にスピノザをそうしたタイプに分ければ
「内向的思考」が優勢であるように思われる
そのために「感情」を克服し
その困難さをなんとかするために
「理性」と「直観」でなんとかしようとするのだが
どこかそこには無理がある
おそらく「感情」には「感情」の論理があって
そこに「思考」の論理を持ち込むことはできない
どんなに「思考」で「感情」を宥めて
「正しさ」に向かわせようとしても
火に油を注ぐようなものともなりかねない
とくに「未分化なまま」の心的機能は
対極にある心的機能と反発しあう
「自由」とはまず
みずからの「とらわれた状態」から
解放されたありかたでもあることを考えれば
まず必要なのはみずからの心的機能のうち
「未分化なまま」のものに気づき
それを少しずつ育てていくしか方法はないようだ
しかし「哲学」は「感情」が苦手だ
その意味では「哲学」において未分化なままの
「感情」機能を育てていく必要がありそうだ
■吉田 量彦
『スピノザ/人間の自由の哲学』 (講談社現代新書 2022/2)
■C.G. ユング(林道義訳)
『タイプ論』(みすず書房 1987/5)
(吉田 量彦『スピノザ』〜「第一三回 ひとは自由になれるのか/スピノザの思想(八)」より)
(「受け身を抜け出す突破口/感情と観念の非対症的関係」より)
「ひとはどうすれば(・・・)「とらわれた状態」「受け身の状態」を抜け出せるのでしょうか。あらゆる感情の原型は、わたしたちがコナートゥスと呼んできた「自らの存在に固執しようとする力」なのですから、人間が生きることは感情をもつことに直結します。したがって、理性を無理矢理にでも奮い立たせて感情を抑制したり打ち消したり、というやり方は当てになりません。それは生きることそのものの否定につながりかねないという意味で、そもそも選びようがない選択肢なのです。
では、どうするか。感情がストレートに抑制したり打ち消したりできないものであるならば、残る手立ては一つしかありません。自分をその都度動かしている感情、自分がその都度直面している感情を、一つ一つ認識していくことです。
「きちんと認識する」とは、『エチカ』の用語では「十全な観念 idea adaequata をもつ」という言い回しで表現されます。その反対、つまりきちんと認識していない状態では、ひとは「十全でない観念 idea inadaequata」をもち、この十全でない観念に動かされています。十全でない観念を一つ一つ取り上げなおし、これを十全な観念へと組み換えていく。そしてこの作業を地道に繰り返していくことにより、それまでの受け身の感情に流される一方だった人間のあり方が、感情を感情として持ち続けながらも自発的・能動的な方向に徐々に向けかえられていく。スピノザはそういう息の長い、しかし考えてみるとそれしかないような自分の感情との向き合い方を『エチカ』後半部で示そうとするのです。」
「スピノザによると、わたしたちがこれまで取り上げてきた愛や欲望といった感情も「思考様態 modi cogitandi」、つまり考えるという営みの一つのあり方です。理由は単純で(・・・)、愛も欲望も何かに対知る愛であり欲望であるわけで、この何かの「観念」つまり考えを伴っていなければそもそも感情として成立しないからです。」
(「稀であるとともに困難なこと」より)
「にもかかわらず「しかし」です。こうした生き方が貫かれるのは「滅多に見かけない quam rara」し「それくらいむずかしい tam difficilia」のだと、スピノザはよりによって『エチカ』の末尾でダメ押し的に確認しようとします。(・・・)受け取りようによっては『エチカ』全体の構想が覆ってしまいかねないこうした記述は、単にスピノザが同時代の感情的な偏見や差別や迫害を山ほど見てきた(そして、彼自身、山ほど味わった)からというだけで生まれたわけではありません。そこにはやはり、それまでに『エチカ』で確認されてきた理論的な裏付けがありのです。」
(「理性的な人も、時にはブチ切れる」より)
「わたしたちが日々接し合う現実世界は、まさにこの理性が直接空いてにできないし、そもそも相手にすることを想定していない、そういう一回性のものごとで構成されています。
(・・・)
わたしたちの精神に受け身で生じた感情が、その後(・・・)理性的な問題処理回路による整理を経て、わたしたちのあり方を受動から能動に転じさせることもあるでしょうし、『エチカ』はそもそもそれを狙って書かれています。しかしそれは、あくまで、そしていつでも「その後」の話です。理性とは本質的に、受け身のあり方を事後的に能動的なあり方へと修正する事後処理の装置であり、受け身の状態をその発生に先んじて回避するようにはできていません。要するに、一発食らってからでないと作動しないのが理性なのです。
つまり人間は、自らの精神のうちにどんなに十全な観念を形成し、十全な観念のネットワークをどんなに張り巡らせていっても(つまりどんなに理性的になっても)生きてる限りまだ整理されていない現実世界の一回限りのものごとと接触し続けるし、したがってまだ整理されていない感情に受け身で見舞われ続けるでしょう。そして時には、そうして生まれた新たな感情につい振り回され、我を忘れた行動に出ることもある。つまり「ブチ切れる」こともあるかもしれないのです。」
(「「受け身」を防ぐもう一つの可能性/直観の知とはどういうものか」より)
「これだけなら、いくら理性的な人でもブチ切れる危険と縁を切ることはできない、という身も蓋もない真実を指摘するだけで終わってしまいます。しかしスピノザは、じつは『エチカ』の終盤で、こうした受け身に戻ってしまう可能性を最小化するための、もう一つの手がかりについて語ってくれています。それは直観の知 scientia intuitiva と呼ばれているものです。(・・・)
直観の知がどういうものか説明するには、まずスピノザが『エチカ』第二部で分類している三つの知について触れておく必要があります。三つの知とは、それぞれ「想像の知 imaginatio」「理性の知 ratio」「直観の知 scientia intuitiva」です。(・・・)
知としての観念には、すでに見たように、十全なものとそうでないものがありました。あれとこの知の分類がどう対応するのかというと、まず最初の「想像の知」が十全でない観念を含んだ知であり「誤りの唯一の原因」とされます。これに対し残りの二つ、理性の知と直観の知は、十全な観念のみで成り立っていて「必然的に正しい」と言われます。」
(「なぜ、直観の知が重要なのか/神と個物を直接つなぐもの」より)
「その直観の知の、何がどうどんなに重要なのでしょう。ポイントは恐らく二つあります。
一つ目のポイントは、直観の知と理性の知が、同じく「必然的に正しい」と言われながらも、あくまで互いに別系列の知だということです。そして理性の知の構築プロセスと直接関係ない別系列の知であることにより、直観の知には理性の知にはない独特の安定性が期待できるのです。
(・・・)
直観の知で重要な二つ目のポイントは、理性の知と直観の知がそれぞれ別系統であるからこそ、逆説的に両者の間に相互支援関係、相互バックアップの関係ができる可能性があることです。」
(ユング『タイプ論』〜補論2「心理学的諸タイプ」より)
「タイプとは発達の偏りである。一方は外界との関係のみを発達させ、内界を無視する。他方は内界の方にのみ発達し、外的には停滞する。しかし時が経つにつれて、個人にとって、それまで無視してきたものも発達させる必要が生じてくる。この発達はある機能の分化という形で起こる。(・・・)
意識的な心は一種の適応ないし方向づけのための装置であり、いくつかの異なった心的機能からなっている。そうした基本機能として、感覚・思考・感情・直観を挙げることができる。私は感覚という概念の中に感覚器官によるすべての知覚を含めたい。また、思考は知的認識と論理的推論の機能、感情は主観的な価値判断の機能、直観は無意識的過程の知覚ないし無意識内容の知覚を指すものと理解する。
この四つの基本機能があれば、私の経験の及ぶかぎりでは、意識的な方向づけの手段や方法を表現し説明するのに十分と思われる。意識が完全な方向づけを得るためには、これらの機能がすべて同程度に働かなければならない。すなわち思考はわれわれの認識と判断を可能にしてくれ、感情はあるものがわれわれにとって如何にそしてどの程度に重要であるのか・重要でないのか・を告げてくれ、感覚は視覚・聴覚・味覚等を通して具体的現実の知覚を伝えてくれなければならず。最後に直観はある状況の多少なりとも隠された可能性や背景をすべて明らかにしてくれなければならない、というのはこうした可能性や背景も、その時点での全体像の一部をなしているからである。
しかし現実においてはこれらの基本機能が同じ程度に分化し、それに応じて使いこなされることはまったに、あるいは絶対にない。たいていはどれか一つの機能が前面に出て、残りは背後で未分化なままになっている。こうして、主として具体的現実を単に知覚するだけに留まり、それについて考えをめぐらしたりその感情的価値を勘案することのない人が大勢存在することになる。彼らはまたある状況に内在する可能性についてもあまり気にかけない。こうした人々を私は感覚型と名づける。別の人々はもっぱら自分の考えに基づいて決断を下し、理解できない状況にはまったく適応できない。これは思考型と言えよう。また別の人々は、何事においてももっぱら感情に基づいて決断を下す。彼らはただ、あるものが快であるか不快であるかを自問するだけで、自分の感情的印象を基準にして方針を決める。これは感情型である。最後に直観型の人は理解にも感情的反応にも事物の現実の姿にも興味を示さず、もっぱら可能性に引きつけられ、もはや何の可能性も感じとれない状況からは必ず立ち去ってしまう。」