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福山知佐子画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』/田中 徹『花の果て、草木の果て/命をつなぐ植物たち』

☆mediopos-2594  2021.12.23

「花咲ける」ではなく
「花裂ける」である

花を描いた画は
数えられないほどだが
花が萎れ朽ち果てていく
その姿を描いている画は
これまでに観たことがない

花なき
によって
花を想い描くことはあっても

花が花であることを
失っていくその姿を
ひたすら描きつづけているのは
この画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』の
福山知佐子をおいてほかにはなさそうだ

「花咲ける」姿は生を
「花裂ける」姿は死を
象徴しているともいえるだろうが

こうして「花裂ける」姿の画を前にすると
生と死についてのイメージは交錯してくる
そして生とはなにか死とはなにかが
否応ないかたちで問いなおされもする

植物にとって花は
その生のなかで限られた時だけのものだが
人はその花を求めそれを飾る
ひょっとするとそれはむしろ
隠された死を飾っているのではなかろうか
といった想いさえ浮かんできたりもする

本画集には
アガンベンが言葉を寄せている
やはり「花とは何か?」を問う言葉だ

画集の最後にも
水沢勉・鵜飼哲・鈴木創士という三者による
評が寄せられているが
どの評も「花裂ける」への驚きの前で
どこか戸惑っているように感じられもする
「花裂ける」の前では
言葉が言葉みずからを
「裂け」させてしまうのかもしれない

今回この画集をとりあげてみるにあたっても
言葉は「裂け」てしまうばかりだが
ふと思い出したのは
併せてご紹介している『花の果て、草木の果て』のこと
植物の『なれの果て図鑑』である

植物図鑑にはさまざまな図鑑があるが
『なれの果て図鑑』だけはなかったという
「花裂ける」画集がなかったであろうように

しかし「果て」というのは
時空の終わりではない
おそらく時空は円環している
生と死が円環しているように

私たちは「果て」を想わせるものを前にしながら
その「果て」へと視線を向けることで
その円環をゆくみずからを
幻視することもできるのではないだろうか

「花裂ける」を観
「なれの果て」を観るのは
生死を超えたみずからを観るということにもつながるからだ

■福山知佐子画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』
 (水声社 2021.12)
■田中 徹『花の果て、草木の果て/命をつなぐ植物たち』
 (淡交社  2017/2)

(福山知佐子画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』〜
 ジョルジョ・アガンベン「花/福山知佐子の絵画のために」(高桑和巳訳)より)

「花とは何か? 花は、生けるものが世界に向けてかくも開かれてあるところ、生けるものが我を忘れているところにある。
 だから、花はこれほどにも美しい。花の美しさがこれほど絶対的なもの、啞然とさせられるものであるのはただ、咲くということが我を忘れるということ、ただ形と色になるということ、もはや内部をもたないということを意味するからである。」

(福山知佐子画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』〜水沢 勉「砂粒の時間」より)

「植物はやがて萎れ、朽ち果て、一部は砕け、粉末化し、あたりに瀰漫する。一見、否定的に感じられるそのプロセスに潜む生命の循環を、この画家は、世界の片側に鋭敏に感じ取る。それは、結果として、「死」の図像といってよい痛ましさを湛えることになるのだが、それだからこそ逆説的に「生」の全的な解放も予感させもする。
 この矛盾の緊張。
 しかし、その不安な状態こそが、生きていることのまぎれもない証しなのだ。そしてその不安を日々の時間のなかでひたすらに描きつづけることで、その時間の質が確かなものとして描く本人にもその絵をまのあたりにする他者にも感じられるのである。
 このほとんどが枯れながら命を終えて無数の植物たちを描く作品集のイメージを辿るとき、わたしたちは、その死に立ち会うことを強いられているともいえる。が、しかし、それは、現代の「死の舞踏」ともいうべき、静かで、しかし壮麗なレクイエムの図像を追尾することでもある。その尽きることのない波動のなかに、気づくとわたしたちは浸されている。それはどこかで個人という枠組みも越えて広がっているのではなかろうか……ここでもやはり個々の死を越えた予感が萌す。そして痛苦と感謝のアマルガムのなかにわたしたちは包まれる。」

「たいせつなのは、日々、手から滑り落ちる砂粒の時間である。
 その時間を生き、そして死んでゆく覚悟と実践をこの作品集は、声低く、物語る。」

「  いかなる作品も、厳密には、崩壊の過程にある。死へと途上にある。
  崩壊そのものに宿る自然性に気づくとき、不思議なことに、それはただただ悲観するものではなく、慰藉の微香をまといはじめる。その微妙な転調ともいうべきものを、危うく、きわどく、響かせる、この作品は、ほんとうにけなげである。それは一見、私小説風な圏域の産物のようでありながら、崩壊を通じて、私物化、つまり所有を徹底して廃棄し、だれにも、そして自然全体にも開かれ、ひとつの関係の糸として、インドラの網の中に撚られ、世界に捧げられているからである。」

(福山知佐子画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』〜鵜飼 哲「もうひとつのリミット」より)

「作家の意図的な配置の効果とは次元を絶した所作の蠢きが、これらの作品を「生物画」(nature morte 死んだ自然)と呼ぶことを禁じている。

(※以下、福山知佐子『反絵、触れる、けだもののフラボン』からの引用)
  空間より時間に興味があるので、一秒ごとに変化するものを追うもどかしさや、既に失われたものの残像の記憶に関心をもつ。自分の身体感覚もそこで絶えず変化しているので、それによっての、ものの見え方の変化と持続自体に興味がある。
 いつ始まるのか、いつ終わるのかもわからない植物の死の時間を追っているとき、自分の浅薄な構想や構成を超えて、瞬間、瞬間にはるかに緊密で精緻な未知の演技がなされる。それに対してこちらがどれだけ受容体に成り得るか、時間と身体の鬩ぎ合いが、そこに現前しながら既に失われた時間への内密な地図を刻む。」

(福山知佐子画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』〜鈴木 創士「裂け目」より)

「かつては生きていて、あがきもせずに滅びるものは美しいが、死んだものはほんとうに生き返らないのだろうか。あるいは生きているものは死んではいないのだろうか。死がそこにあれば、生がここにある。それとも、死がここにあれば、生はそこにはない。しかしこれら二つの文章は同じ事柄を指している。これはとってつけたような撞着語法ではない。私は天国と地獄の中間にある煉獄の話をしているのではない。
 いま私は福山知佐子の植物デッサンを見ている。生に終わりがあっても、死そのものとは別の事柄だということはわれわれの経験が知り得たことである。植物は人間の死よりはるかに明瞭に、そしてゆるやかにそのことを物語っている。あまりにも生命を蓄えていたものは思いがけず死後の生に似てしまうことがあるのだ。死ぬこと自体を知ることは誰にもできないことであるとはいえ、だらこそ死ぬことは生のこちら側にしかないのではないか。死はそんな風にしていつまでもあてどなく想起され、そして想起のなかで自ら知り得ない忘却の地点を探しあぐねているのだろうか。だが実のところ、どうやって死を知ればいいというのか。
 植物を視覚の固有の底辺においてまで見続けること。植物の匂いを嗅ぎ、手で触れ、植物の生と死、再生、病、衰退、崩落に寄り添うごとく見続けること。不断の眼差しによって、デッサンによって、植物の孤独それ自体の瞬間が表面に出現した別の眺めとなる。」

(田中 徹『花の果て、草木の果て』より)

「植物は枯れる。プログラムされた遺伝子の発現によって枯れる場合もあれば、与えられた環境に適応できず、あるいは病害虫などによって枯れる場合もある。地上に固定して生育しているために植物がもっている特質の一つは、その生育場所を移動できないことであり、それだけ環境の変化によって大きく影響を受けるということである。
 さまざまに工夫を凝らした手段や方法で繁殖体や種子を散布し続ける植物ではあっても、好ましい場所を自ら選ぶということは不可能に近い。上手くいけばそこで根づいて生活を営み、そうでなければ枯死するのである。このやり方で植物は綿々と生きつないできた。
 現生するすべての植物は、はるかなる過去の瞬間をくぐり抜けてきた植物たちの「末裔」であり、あるいは「なての果て」ということができる。
 「果て」はいまも続き、くり返されている。」

「冬休みの頃になると、スズメバチの巣は空になっているはずなのに、近寄ると勢いよく働きバチが出撃してきた。冬になっても生き残っているのである。守らなければならないものなど、もはやないはずなのに。
 季節感が薄れ、四季がなくなりつつあるともいわれる。そのなかで、自然界の生き物は季節感覚においても、またその順応性においても、季節の消長を「科学的」に論ずる我々人間よりもはるかに優れている。
 『落葉図鑑』『冬芽図鑑』『樹皮図鑑』『種子図鑑』『芽ばえ図鑑』『根茎図鑑』など、近頃の図鑑は細分化され、じつに多岐にわたる。それらをそろえれば、ある植物についてのすべてがわかると勘違いしてしまうのも無理はないが、1つ欠けているものがある。それが植物の『なれの果て図鑑』である。
 本書がその序となれば幸いである。」


◎福山知佐子画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』を紹介しているHPがあります

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