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岩野卓司「ケアの贈与論 連載第11回 嫉妬妄想」/三好春樹『関係障害論』/山本圭『嫉妬論』/三木清『人生論ノート』

☆mediopos3728(2025.2.2.)

法政大学出版局 別館(note)で連載中の
岩野卓司「ケアの贈与論」
第11回は「嫉妬妄想」

介護士・三好春樹『関係障害論』のなかの
「嫉妬妄想」がとりあげられている

男性は現在78歳
5年前に脳卒中で倒れ
妻の介護を受けているが
76歳の妻が浮気をしているのではないか
という妄想にとらわれている

男性は部屋で寝ているだけしかできないのに
妻は自由に動きまわれるため
男性の行動は完全に妻の視線の下にある

フーコーの『監獄の誕生』の
パノプティコンの例のように
「視線の一方的な贈与」がそこでは成立し
視線の暴力が贈与の暴力ともなっていて

そこに可視と不可視の空間があるため
夫婦関係が非対称的となり
そこに「嫉妬妄想」が生じている

男性は妻が「浮気していると
思い込むことで、心の安定を得」て
「無意識のうちに傷つくまいとしている」のである

三好はそうした
「一方的な視線の贈与から解放」するために
「第三者が介在して、開かれた空間をつく」り
「お互いに不可視な領域をつくる」ことを示唆している

そこで三好は「夫をショートステイに入れ、
妻から見ることのできない時間と空間を作」り
「夫は妻の監視から逃れる自由な世界を手に入れ」
「浮気をすることもできる」関係とし
「双方に不可視な空間をつくることで、
お互い様という相互的な関係」をつくった

「お互いに不可視な世界をつくり、
お互いに嫉妬し合える健全な関係」になることで
「嫉妬妄想」は見事に解消したのである

岩野卓司はこれを「贈与論」的に解釈し
「一方的な贈与による「主人と奴隷」のねじれた関係を、
相互の贈与に変えることで、
それまで生じていた「関係障がい」を治した
ということではない」かという

馬鹿馬鹿しくさえ感じられるような「嫉妬」の話だが
「嫉妬」とはこれほどに単純かつ根深い

ある意味で「嫉妬」というのは
それそのものが「妄想」的だともいえるのではないか

「嫉妬」については一年ほどまえ
mediopos3384(2024.2.22)で山本圭『嫉妬論』と
三木清『人生論ノート』の「嫉妬」の章を
とりあげたことがある

嫉妬が生まれるのは
自分を他者と比較し
そこにじぶんの劣勢の感覚が関係するときであり
その源には
「私が私であること」が成立するにあたり
他者との比較が避けられないということがある

他人と比較することではじめて
自分のアイデンティティを形成し
自らの立ち位置を確認することができるのだが

ふつうは嫉妬していると思われることは恥ずかしく
じぶんでそれを認めることは
自尊心を傷つけることにもなるため
それを外的なものに転嫁しようとしたりもする

上記の男性はじぶんの「嫉妬」という贈与の不均衡を
妻の浮気ということに転嫁しようとしたのだと思われる

三木清は『人生論ノート』のなかの「嫉妬」の章で
「嫉妬はつねに多忙である」
「個性的な人間ほど嫉妬的でない」
と示唆しているが

男性の妄想は
いわば単純なまでの男性上位の意識があったため
「非対称」となってしまった関係ゆえに「嫉妬」し
真に「個性的」であることのできないまま
多忙なまでに自らの劣位の解消に向けて
「転嫁」へと積極的に働いたのだろう

■岩野卓司「ケアの贈与論 連載第11回 嫉妬妄想」
 (法政大学出版局 別館(note))
■三好春樹『関係障害論──老人を縛らないために』
 (円窓社 2023/4/5))
■山本圭『嫉妬論/民主社会に渦巻く情念を解剖する』
 (光文社新書 1297 光文社 2024/2)
■三木清『人生論ノート』(新潮文庫)
(昭和四十九年十二月・五十冊(昭和四十二年三十五冊改版))

**(岩野卓司「ケアの贈与論 連載第11回 嫉妬妄想」)

「第11回は「嫉妬妄想」と題し、三好春樹さんのご著書『関係障害論』を手がかりに考え始めます。「視線の贈与」はどうして相手を支配してしまうのか。フーコーやヘーゲルの議論も取り入れながら、「贈与論」の視点から解釈します。」

・人は誰でも嫉妬する。

「今回取り上げる例は、「嫉妬妄想」である。今日、認知症患者が妄想にとらわれることがよく指摘されるが、そのなかに「嫉妬妄想」がある。なぜ、思い込んでしまって嫉妬してしまうのか。もちろん、認知症に限らず「嫉妬妄想」は存在するが、以下の例はひとつの答えを与えてくれる。」

「今回も介護士の三好春樹のテキストを参照する。取り上げる著書は『関係障害論』である。そのなかで彼は、ある男性の「嫉妬妄想」について語っている。」

・1 妻の浮気を疑う夫

「この男性は、現在の東京科学大学出身で、一部上場企業の技術者として働き、工場長にまで出世した人物である。昔はバリバリ働いていたが定年で退職し、5年前に脳卒中で倒れて、78歳今は寝たきりとなり、妻の介護を受けている。介護はきちんとおこなわれており、週一回日曜日には二人の息子のうち一人に手伝ってもらって風呂に入れるのを別にすれば、食事と排泄といった介助の仕事はすべて妻がおこなっている。彼は、病院にタクシーで行く以外は、家で5年間寝たきりで難しい専門書を読んでいる。この状況で、男性は76歳になる自分の妻が浮気をしているのではないかという妄想にとらわれ、「若い男と会っていたのだろう」と妻を責め始めたのである。妻が買い物から帰ってきたら男との関係を責め、隣の部屋の電話に出ただけで、「男からかかってきたのだろう」と焼きもちをやく。しかも、嫉妬もだんだんエスカレートしていき、病的になっていく。」

「このケースについて三好はこう分析している。

********
夫は部屋で寝ているだけなのに対し、妻は自由に動きまわれる。夫の行動は完全に妻の視線の下にあるが、妻の行動は彼女が部屋にあらわれたときしか夫の視線の対象にはならない。
********

 この状況を説明するために、三好はミシェル・フーコーの『監獄の誕生』のパノプティコンの例をひく。パノプティコンとは一望監視方式と呼ばれるもので、イギリスの功利主義の思想家ジェレミー・ベンサムが19世紀に考案した監獄である。この監獄では、獄舎の中央に監視塔があり、そこから看守は自分は見られることなく獄舎の囚人を監視することができるのだ。囚人は看守の一方的な視線の下にあるが、看守の姿を見ることはできない。しかも、この監視が常態化すると、看守は実際に見ていなくても、囚人はつねに見られていると思いこんでしまうようになる。

 さきほどの老夫婦の関係も同じなのだ。妻は看守のように自分が見られることなく夫を一方的に監視でき、夫は囚人のように一方的な視線の支配を受けているのである。」

「ここで贈与論の視点からの解釈を付け加えておこう。見ることや視線は、贈与と結びついている。「一瞥を与える」「視線を送る」「目を配る」といった表現があるように、目は与えることと深い結びつきがある。だから、パノプティコンによる監視も「視線の一方的な贈与」にほかならない。看守は一方的な視線の贈与によって囚人を支配しているし、同じように妻も自分の気づかないうちに、視線の贈与によって夫を支配している。視線の暴力は、贈与の暴力でもあるのだ。」

「このように可視と不可視の空間について、夫婦関係が非対称的であるから、障がいが生じるのだ。」

「逆説的だが、浮気していると思い込むことで、心の安定を得ようとしているのだ。「嫉妬妄想」は、妻の浮気をあらかじめ想定することで、まさかの場合のダメージを和らげようとする心的作用のことのなのだ。つまり、心の「防衛機制の先取り」と言えるだろう。夫は無意識のうちに傷つくまいとしているのである。」

・2 どう解決したか?

「三好の介護論の優れたところは、関係に障がいが生じた場合、関係を通して直していくという点にある。彼は、夫と妻の関係を一方的なものではなく相互的なものにすることを提案している。」

「夫を一方的な視線の贈与から解放しなければならない。そのためにどうすればいいのか。」

 夫の自立を促すというやり方もあるかもしれないが、結婚してこのかた家庭での生活を妻に依存してきた昔の世代の男性に「自立しろ」といっても無理である。退職してお金を稼げなくなったら、急に「自立しろ」なんて冷たく言われたと、よけいに卑屈になってしまうだけである。
 また、妻も夫とつねに一緒にいてお互いに視線の対象にするという考えもあるかもしれないが、これもよくない。というのも、こういう二人だけの閉域をつくると、二人で妄想の世界に入ってしまうからである。「介護殺人」や「介護心中」が、介護する人と介護される人とが閉ざされた世界をつくってしまうことにその一因があったことを思い出してみよう。二人だけの密室は危険なのである。

 できるだけ、第三者が介在して、開かれた空間をつくることが必要なのである。そこで三好は、お互いに不可視な領域をつくるべきだと主張する。

********
ですから、逆のことをするわけです。お父さんの生活にも奥さんから見えないところを作るんです。
********」

「そこで彼は、夫をショートステイに入れ、妻から見ることのできない時間と空間を作る。視線の対象に入らない領域ができるのだ。」

「三好がしたことは、双方に不可視な空間をつくることで、お互い様という相互的な関係をつくることなのである。」

「それで、この夫婦はどうなったのだろうか。三好はこう述べている。

********
びっくりしましたね。在宅での状態をよく知っていたこともあり、見事に変わりました。ショートステイの制度が始まったばかりで、私はまだ体験していなかったのですが、難しい顔をして新聞と専門書を読んでいたお父さんが、看護婦さんのお尻に触るわ、胸は触るわ、エッチな話はするわで、おそらく会社帰りには、バーやキャバレーに行って女性とこういう会話をしていたのかと思うような、デレデレしてすごい変わりようでした。
********

 そして家に帰ってくると、

********
 打ち合わせ通り、奥さんが「向こうは、若い人で良かったでしょう」と言いましたら、ニタッと笑ったそうです。以後、見事に妄想はピタッと消えました。
********

「お互いに不可視の領域を持ち、お互いに嫉妬し合う可能性をもつ状況になることで、「嫉妬妄想」は解消されたのである。ここから一方的な視線の贈与による関係が障がいをもたらしていたことがわかるだろう。「嫉妬妄想」は、夫の心が不安から発したメッセージだったのだ。

「たぶん妻は誠意をもって介護していただろう。その妻に見捨てられたら自分は惨めだという不安が、屈折したかたちであらわれているわけである。二人だけの一方的な関係からこの妄想は生まれたのだ。だから、三好のアドバイスを受けながら、妻は夫の心のあり様を読み取り、お互いに不可視な世界をつくり、お互いに嫉妬し合える健全な関係になったのである。」

・3 「主人と奴隷の弁証法」から相互の関係へ

「ここでちょっと意外な本を援用しよう。ドイツの哲学者ヘーゲルの主著『精神現象学』である。この書のなかに「主人と奴隷の弁証法」と呼ばれる箇所がある。後にマルクスの革命理論に影響を与えたと言われる部分である。この夫と妻の関係に、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」に似たものを見ることができるのではないのか。今日では、この「弁証法」の前に書かれている「承認を求めての闘い」のほうがネット社会での承認欲求を説明するのによく使われているが、ここでは「主人と奴隷の弁証法」のほうが役に立つ。それは、主人は奴隷を支配するが、実は奴隷の労働、服従、奉仕に依存しており、この依存を通していつのまにかその関係は逆転しているという話だ。」

「三好がおこなったことを「贈与論」的に解釈してみると、一方的な贈与による「主人と奴隷」のねじれた関係を、相互の贈与に変えることで、それまで生じていた「関係障がい」を治したということではないだろうか。」

**(山本圭『嫉妬論』)

・嫉妬と憧憬

「どちら(嫉妬と憧憬)も他人が持っているものが欲望の原因になる点で違いはない。しかし憧憬の場合、私たちは自分が持っていない才能や容姿などを持つ誰かにあこがれの感情を抱き、自分もそれを手に入れられるよう努力するだろう。それに対し、嫉妬に特徴的なことは、他人が持っているものを自分が持っていないという状況に苦しみ、他人がそれを失うことを切望する点にある。自分をより高みへと引き上げるのではなく、むしろ他人の足を引っ張ることで溜飲を下げる、これこそ嫉妬が邪悪であるとされるゆえんだろう。」

「嫉妬はどのようなときに生じるか。これは割合はっきりしている。そう、嫉妬心が首をもたげるのは、自分を他人と比較するときにほかならない。つまり、嫉妬の感情は比較可能な者同士のあいだに生じるということだ。裏を返せば、比較できない相手に対しては、私たちは嫉妬を感じないということでもある。」

「いけないと分かっていながらも、なにかと隣人の境遇と比較してしまう、これは人間の性であると言ってよい。私たちは他人と比較することではじめて、自分のアイデンティティを形成したり、社会における自らの立ち位置を確認することができる。その意味で比較することそれ自体にいいも悪いもない。」

・上方嫉妬と下方嫉妬
「一般に、社会的比較は、優れた身体能力や知性、あるいは財産やプライベートの充実度などの点で、自分より優れた他者と比較する「上方比較」と、自分より劣位にある他者との比較を指す「下方比較」に分けることができる。私たちはたえず上と下を見ながら、自分の立ち位置をはかる悲しい生き物なのである。」
「上方嫉妬はある意味で分かりやすい。自分よりも優位な状況にある人々を見ることで、私たちの心は深くかき乱される。
 より興味深いのは、「下方嫉妬」の存在である。(・・・)私たちは自分より下方にある、もしくは劣位にある人々に嫉妬することがありうる。
(・・・)
 自分が苦労して手に入れたものを、ほかの誰かが簡単に手に入れたときにも嫉妬することがある。自分が血の滲むような努力の末に成し遂げたと思っているものを誰かが難なく達成してしまうのを見たとき、あるいいは自分は高額の支払いをしたのに、同じものを運よく安価で手に入れたような人がいると、その人物の才能や幸運に嫉妬が生じるというわけだ。」

・相対的剥奪
「自分が感じる満足の絶対量の多寡ではなく、他人と比較することで生じる不満や欠乏感のことを、社会学や社会心理学の分野では「相対的剥奪」と呼ぶ。」

・嫉妬とジェラシー
「嫉妬とジェラシーをはっきり区別するのは難しく、両者はかないrのところ入り混じっている。」
「じつは嫉妬とジェラシーがいくら似ているとしても、両者には決定的な違いがある。すなわち、ジェラシーが「喪失」にかかわるのに対し。嫉妬はおもに「欠如」にかかわっているということだ。(・・・)つまり、ジェラシーを感じる人は、ライバルが自分のものを奪おうとしていると考えるのに対し、嫉妬者の場合、自分が欲しているものをライバルが持っていると考えるわけだ。(・・・)別の言い方をすれば、ジェラシーが防御的であるとすれば、嫉妬はむしろ攻撃的なのである。」

・ルサンチマン
「嫉妬感情はルサンチマンを引き起こす一つの燃料であり、そのかぎりで高貴な価値を否定するルサンチマンそのものとはさしあたり区別できるはずである。」

・シャーデンフロイデ
「この言葉(シャーデンフロイデ)は、「害」を意味する「シャーデン」と「喜び」を意味する「フロイデ」が組み合わさったドイツ語である。(・・・)「他人の不幸は蜜の味」や「隣の貧乏鴨の味」といったところである。」
「シャーデンフロイデは、他人の不幸から悦びを引き出している点で大いに恥ずべき感情だ。容易に想像できるようにこれは嫉妬感情とも密接に絡み合っている。つまり、妬みの対象が不幸のどん底にあるのを目の当たりにすると、妬みはシャーデンフロイデに転生するというわけだ。」

・自分が嫉妬していると他人に思われる恐怖
「私たちは一般に、嫉妬感情を表に出すことを極端に嫌う。嫉妬心は道徳的に擁護しがたく、恥ずかしいものであることを知っているからだ。(・・・)誰かへの嫉妬を疑われることは、私たちを非常に難しい立場に追いやることを意味するだろう。」

・自分が嫉妬していることを自分で認める恐怖
「自分の嫉妬に自分で気づいてしまうことは、それとは別の残酷さが伴っている。つまり、誰かへの嫉妬を認めることは、同時にその人物に帯する劣等感を認めることにもなるのだ。これは当人の自尊心を大いに傷つけるものであり、なかなか受け入れがたいだろう。
 そのため、私たちが自分の嫉妬を受け入れるためには、その劣等感を自分の責任にするのではなく、何か別の理由、たとえば私たちにはコントロールすることができない運や運命のせいにしてくれる文化的装置がとても重要になる。たとえば失敗や不運を神の意志であると考えることができれば、それは私の能力不足のためではないと自尊心を傷つけることなく諦めがつくかもしれない。」

・エピローグ

「嫉妬に何かしら意味があるとすれば、それはこの感情が「私は何者であるか」を教えてくれるからである。たいていの場合、私の嫉妬は他人には共感されない。私の嫉妬は私だけのものである。私は誰の何に嫉妬しているのか、なぜ彼や彼女に嫉妬してしまうのか。これは翻って、私がどういう人間であるか、私は誰と自分を比べているのか、私はどんな準拠集団のなかに自分を見出しているかを教えてくれるだろう。確かにそれは客観的な自己像とは言えないかもしれないが、ときに自分でも気付かないもう一人の自分を開示してくれることがあるのだ。」

「個人レベルでの嫉妬はどうだろうか。まず、嫉妬と折り合いをつける方法として、各人が倫理的な精神的態度を涵養することで嫉妬を乗り越えることが挙げられる。」

「多くの自己啓発本が指南してくれているように、嫉妬から確実に逃れる方法が一つだけある。それは比較をやめることだ。他人との比較さえしなければ嫉妬心が芽生えることはない。比較をやめたいなら競争かた降りてみるのも一つの手だろう。だが、誰もが知っているように、比較をやめること、これが存外に難しい。
(・・・)
 なら逆に考えてみてはどうだろう。比較をやめられないなら、比較をとことん突き詰めてみるのだ。ある部分にだけ特化した半端な比較こそが、嫉妬心を膨らませているとすればどうだろうか。疎ましく思う優れた隣人をよくよく観察すると、思いもしなかった一面が見えてくるものだ。当たり前だが、完璧な人間などそうそういない。そのような意外な事実が目に入れば、あなたの嫉妬心もかなりのところ和らぐはずなのだ。比較をやめられないならあえて徹底してみること、逆説的ではあるが、これだけが嫉妬という怪物を宥める確実な方法であるように思われる。」

**「三木清『人生論ノート』〜「嫉妬」)

「愛と嫉妬との強さは、それらが激しく想像力を働かせることに基づいている。想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する。愛と嫉妬とが術策的であるということも、それらが想像力を駆り立て、想像力に駆り立てられて動くところから生ずる。しかも嫉妬において想像力が働くのはその中に混入している何等かの愛に依ってである。嫉妬の底に愛がなく、愛のうちに悪魔がいないと、誰が知ろうか。」

「嫉妬は自分よりも高い位置にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起こる。だがその差異が絶対的でなく、自分も彼のようになり得ると考えられることが必要である。全く異質的でなく。共通のものがなければならぬ。しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。嫉妬がより他界ものを目指しているように見えるのは表面上のことである。それは本質的には平均的なものに向かっているのである。この点、愛がその本質においてつねにより他界ものに憧れるのと異なっている。」

「嫉妬とはすべての人間が神の前においては平等であることを知らぬ者の人間の世界において平均かを求める傾向である。」

「一つの情念は知性に依ってよりも他の情念によって一層よく制することができるというのは、一般的な真理である。英雄は嫉妬的でないという言葉がもしほんとであるとしたら、彼等においては功名心とか競争心とかいう他の情念が嫉妬よりも強く、そして重要なことは、一層持続的な力となっているということである。」

「嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない。」

「もし無邪気な心というものを定義しようとするなら、嫉妬的でない心というのが何よりも適当であろう。」

「嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって、嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性的にんる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。」

○岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。

○三好春樹 (みよし・はるき)
1950年、広島県生まれ。特別養護老人ホームに生活指導員として勤務後、31歳で理学療法士の資格を取得。35歳で独立し「生活とリハビリ研究所」を設立。近年は、生活リハビリ講座を全国各地で主催する傍ら、年間100回以上の講演活動を行っている。一般社団法人「考える杖」代表理事。

■岩野卓司「ケアの贈与論 連載第11回 嫉妬妄想」
 (法政大学出版局 別館(note))


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