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石沢麻依「透明な二人称」(『かりそめの星巡り』)/カフカ「皇帝の使者」/伊藤潤一郎『投壜通信』/ワイエス「遥か彼方に」

☆mediopos3703(2025.1.8.)

石沢麻依のエッセイ「透明な二人称」が
『かりそめの星巡り』に収められている

「二人称」というのは「あなた」だが
「透明」な「あなた」とは誰のことだろう

以前「投壜通信」について
あれこれ考えてみたことがあった
(伊藤潤一郎『投壜通信』)

「誰かは知り得ないが、どこかにいるあなた」へ
手紙を詰めた壜を海原に投じ
また自分に宛てられたものではなくても
自分宛のように手紙を受け取ることもある・・・

石沢麻依はドイツ滞在を始めた頃
カフカの「皇帝の使者」と再会する

死の床にある皇帝が
〈君〉に宛てた伝言を使者に託すが
伝言が〈君〉に届くことはない
それでも〈君〉は使者の到着を夢に見る

またアンドリュー・ワイエスの描く
〈遙か彼方に〉と題された絵の中の少年は
「夢想に沈んだ眼差しを彼の内に向け」
こちらの視線を拒んでいる

皇帝の伝言も
〈君〉には決してとどかず
少年の眼差しも決してこちらには向けられない

けれどふと想うことがある

「わたし」は
「わたし」という「あなた」へ
伝言と視線を送り続けているにもかかわらず
決して届かないと思いこんでいるのではないか

みずからの無限遠点に向け
それを指し示してしているにもかかわらず
それに気づくことができないでいるだけではないか

時折僥倖のように
伝言や視線の響きや形を
透明な「あなた」という「二人称」から
得ることができたと思える
そんな瞬間を感じることがありはしないだろうか

「投壜通信」が不意に届けられるように

■石沢麻依「透明な二人称」
 (石沢麻依『かりそめの星巡り』講談社 2024/11)
■カフカ(原田義人訳)「皇帝の使者」
 (『世界文学大系58 カフカ』1960/4 筑摩書房)
■伊藤潤一郎『投壜通信』(講談社 2023/10)
■ワイエス(Andrew Wyeth)「遥か彼方に」(Faraway)(1952)

**(石沢麻依「透明な二人称」)

*「目的地も曖昧なまま、途中にいるという感覚だけがある。それは、私にとって夜に至る迷宮や、冬の匂いを湛えた風の吹く場所と結びついているのかもしれなかった。

 ドイツ滞在を始めた頃、ぎこちない言葉の錆を落とすために、フランツ・カフカの短編集を読み返した。昼が切り詰められ、夜が青の更けて引き延ばされる秋。カフカと季節の迷宮性は、面倒な手続きや生活の変化で不透明に混乱する私の状況をなぞっているように思われた。しかし、その秋めいた孤独に奇妙な形で終止符を打ったのもまたカフカであった。ある夜のこと、図書館で広げた本の中で、「皇帝の使者」と再会した。」

「死の床から皇帝が、〈君〉に宛てた伝言を使者に託す。それを復唱し、使者は走り出す。伝言は放たれた。しかし、それが〈君〉に届くことはない。宮殿は、終わりのない多重構造をなしている。扉は外ではなく、さらなる内部を暗示する。仮に外に出ても、そこに広がるのは街という迷宮でしかないのだ。それでも夕方となると、〈君〉は使者の到着を夢に見る。」

「この寓話の迷宮性は、私を魅了する。しかし、それ以上に私を惹きつけるのは、永遠に途中にあり続ける使者と、窓辺でその訪れを想う〈君〉の存在である。使者の目的は多重の空間に阻まれ、ただ託された言葉と待ち人だけが、その進むべき方向を示すことだろう。だが、この話から〈君〉の姿は浮かび上がってこない。夕闇の夢想に潜り込むその顔は背けられ、永遠に不透明なままだ。」

*「光沢のない黒い文字のような樹の影が、夜を深くする帰り道、自分もまた目的地のない途中にあることに気づく。その感覚は孤独ではなく、むしろ解放感に近いものだった。私は馴染みのない場所で、何か拠り所のようなものを求めていた。それは、〈君〉と呼びかけられる対象だったのだろう。人や絵画、彫像、断片的な風景など、言葉を向ける堅固な対象としての二人称。ある意味、閉ざされた頑なな関係だと思う。しかし、その夜、白く皓々と凍えていた月の下、二人称は透明なものへと形を変えた。私はまだ途中にいる。夜の中で見出したその感覚は、私と二人称との関係を紬ぎ直す。使者の到着を夢見る〈君〉に似た人。輪郭すら曖昧な人ならば、眼差しの中に閉じ込められることなどない。」

*「この透明な対象は、絵画でも出会うことがある。その中のひとりに、アンドリュー・ワイエスの描く青白い孤独に沈む少年がいた。〈遙か彼方に〉と題された絵の中で、毛皮の帽子と黒い外套という装いをした少年が、冬枯れた草原にひとり膝を抱えてうずくまっている。風が静かに通り抜ける場所で、少年は骨の白さを想わせる手を固く組み、夢想に沈んだ眼差しを彼の内に向けている。

 この絵が示すのは、こちらの視線を拒む少年の潔癖さである。たとえ言葉をかけても、彼は静かな水面のように私を無視し、沁みわたる冬の冷たさの中、肩が触れそうになれば身を引き離すだろう。石の静寂に似た青白さをまとう子供は、彼方を想いながら、こちらの呼びかけに決して答えることはしない。」

*「わたしの眼差しから顔を背ける〈君〉。彼らは遠くを夢想しつつ、こちらの手が届かないところにいる。その様子は、目的地であってほしいと願う私の甘えを突き放しさえするものだ。これまで〈君〉と私が呼びかける時、そこに無意識のうちに自分を受け入れる相手を思い描いていた。しかし、優しい理解者の眼差しに包まれれば動けなくなり、なし崩しにそこが目的地となってしまう。遠くまでゆくためには、途中にあり続けながら、自分の中にある甘やかな二人称を解く必要があるのかもしれない。小説を書く時、私が想うのは遠い透明な相手である。彼らは半ば不在でさえある。言葉や眼差しであらかじめ繋ぎ止めることのできない曖昧な二人称。その遠い自由さは、カフカの夢想者やワイエスの少年が想うものに続くはずである。そして、いつか〈君〉が彼方へ続く空想から少し覚めて、一瞬だけ眼差しを向けてくれるかもしれない。それを夢想する私は、夜の青に沈む迷宮や、風の音のする誰もいない絵の奥へ、今日もゆっくり足を進めてみる。」

**(カフカ「皇帝の使者」)

*「 皇帝が――そう呼ばれているのだ――君という単独者、みすぼらしい臣下、皇帝という太陽から貧弱な姿で遠い遠いところへ逃がれていく影、そういう君に皇帝が臨終のベッドから伝言を送った。皇帝は使者をベッドのそばにひざまずかせ、その耳にその伝言の文句をささやいた。皇帝にとってはその伝言がひどく大切だったので、使者にそれを自分の耳へ復誦ふくしょうさせたのだった。うなずいて見せることで、皇帝はその復誦の言葉の正しさを裏書きした。そして、自分の死に立ち会っている全員を前にして――障害となる四方の壁は打ちこわされ、ひろびろとのび、高くまでつづいている宮殿前の階段の上には、帝国の高官たちが輪形をつくって立っている――、こうしたすべての者を前にして皇帝は使者を派遣した。使者はすぐ途についた。力強い、疲れを知らぬ男だ。あるいは右腕、あるいは左腕と前にのばしながら、群集のあいだに自分の道を切り開いていった。抵抗する者がいると、彼は自分の胸を指さした。その胸の上には太陽のしるしがついている。彼はそうやってまた、ほかのどんな人間にもできないほどたやすく前進していくことができた。だが、群集はあまりにも多かった。彼らの住居は果てしなくつづいていた。ひろびろとした野原がひらけているならば、使者はどんなに飛ぶように走ったことだろう。そして、やがて君はきっと彼の拳こぶしが君の戸口をたたくすばらしい音を聞いたことだろう。ところが、そんなことにはならないで、彼はなんと無益に骨を折っていることだろう。いつまでたっても彼は宮殿の奥深くの部屋部屋をなんとかしてかけ抜けようとするのだ。だが、けっしてその部屋部屋を抜けきることはないだろう。そして、もしうまくかけ抜けたとしても、何一つ得るところはないだろう。つぎにはなんとかして階段をかけ下りようとしなければならないだろう。そして、その階段をうまくかけ下りることができても、何一つ得るところはないだろう。いくつもの内庭を越えていかなければならぬのだ。そして、かずかずの内庭のつぎには第二の壮大な宮殿がくる。それからふたたび、階段と内庭だ。それからまた宮殿だ。そういうことをくり返して何千年たっても終わることはない。そして、とうとういちばん外側の門から走り出たところで――だが、けっして、けっして、そんなことは起こるはずがない――やっと彼の前には首都が横たわっているのだ。その首都こそ世界の中央であり、世界の沈澱物ちんでんぶつで高く積み上げられている。だれ一人としてここをかけ抜けることはできないし、まして死者のたよりをたずさえてかけ抜けることはできない。――だが君は、夕べが訪れると、君の窓辺に坐り、心のなかでそのたよりを夢想するのだ。」

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