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中沢新一編『東洋の不思議な職人たち』/中村雄二郎『問題群——哲学の贈り物——』/リチャード・セネット『クラフツマン』

☆mediopos3468  2024.5.16

現代のいわゆるハイテクは
西欧近代文明のなかで発達した
「技術のオートノマス(自律的)な発達」として
あらわれている「科学技術」の結果である

かつては「科学」と「技術」は
「科学技術」ではないという議論もありはしたが
実際のところ現代の「科学」は
ますます「科学技術」と同化しつつある

それによってもたらされる
さまざまな「危機」が論じられはするものの

「いまでは、技術といえばたったひとつのスタイル、
西欧近代文明のなかで発達した技術の体系が
つくりだしてきたスタイルだけが、
人間にとって技術というもののとりうる
ただひとつの可能性であるかのよう」だ
(中沢新一「技術のエコソフィアへ」)

しかし「技術」は
それ以外の方向性を見出すことができないのだろうか

西欧の哲学者のなかで
そうした「技術」の問題について
本格的に取り組もうとしたのは
ハイデガーの『技術論』である

「技術をあらわすテクノロジーという言葉は、
ギリシャ語の「テクネー」がもとになっている。
だが、このテクネーという言葉は、私たちがこんにち
テクノロジーという言葉で表現しようとしているのよりも、
はるかに深く、また広い内容をあらわそうとしていた、
とハイデッガーは語る。」

「テクネー」は古代ギリシアでは
「アレテイア」という言葉と近しく
「隠れてあること、隠れてあるもの=レテイア」を
「否定する=ア」という意味をもっていた

「テクネー」は
隠されている真理をあらわにする哲学や
自然のなかに隠れているピュシスの働きをあらわすにる
芸術などとも深くつながりのある言葉だったのである

つまり「テクネー」とは
「いまだに隠されてあるものやことを、
私たちの生きている世界のなかに出でー来たらす行為の
プロセスの全体」のことであり

「技術」の本性が
そうした「テクネー」であることをとらえかえすことで
「芸術や哲学や宗教や自然のプロセスとの本質的なつながりを、
深いレベルでもういちどとりもどすことができる」

中沢新一「技術のエコソフィアへ」は
「東洋文庫」のなかの職人に関する記事が編集された
『東洋の不思議な職人たち』のあとがきとして書かれているが
(刊行されたのは一九八九年)

「科学技術」という形でしかとらえられなくなっている「技術」を
東洋的な叡智をもった「職人」という視野のもとに

単純な技術的オプティミスム」でも
「ヒステリックな技術否定論に」でもなく
「自然のなかに隠されてあるものをあらわにする、
創造的なプロセス」として「技術」をとらえなおしている

そして地球環境や人間の精神の致命的な危機を回避する
「エコソフィア(地球惑星的な叡知)」へと向かうべく

「およそ技術と呼ばれるもののいっさいが生まれでてくる、
「技術のマトリックス(母形)」にたどりつき、
そこを出発点にしていくような、思考法」を示唆している

チャード・セネット『クラフツマン』(邦訳二〇一六年)も
クラフツマンシップの精神の重要性を示唆している著作だが

ハンナ・アレントが
「労働する動物 animal laborans」を軽んじたように
西欧では職人的なものが軽視される傾向にあるが

「人間という労働する動物は技術によって豊かになり、
クラフツマンシップの精神によって威厳を保つことができる」という

作るということは
創造でありかつ破壊であるという両義性を持ちながらも
人間が人間である
あるいは人間が人間になるための
もっとも基本的な条件でもあるといえる

そのことが等閑にされることで
現代の「科学技術」による危機的な状況が
招来されてしまっているように見える

「自然を挑発し、そのなかに隠されてあるものを、
むりやり立ち上がらせ」る方向へではなく
「隠されているもの」の叡智を
創造的に引き出し得るテクネーとともに
あることができますように

■中沢新一編『東洋の不思議な職人たち』(平凡社 1989/11)
■中村雄二郎『問題群——哲学の贈り物——』(岩波新書 1988/11)
■リチャード・セネット(高橋勇夫訳)
 『クラフツマン 作ることは考えることである』(筑摩書房 2016/7)

**(『東洋の不思議な職人たち』〜中沢新一「技術のエコソフィアへ」より)

・西欧近代文明のなかで発達した技術の体系がつくりだしてきた
 技術のオートノマス(自律的)な発達をはばむ力としての
 東洋の文明へと視野を広げる

*「現代のテクノロジーは、惑星的な規模で、いままで人類と言われてきた生き物の本質に、ラジカルな変化をつくりだそうとしている。経済活動はしだいに情報化され、その情報化された経済のシステムは、国家や社会や民族の枠をこえて、地球に巨大なネットワークをはりめぐらそうとしている。核エネルギーの問題は、地球環境にたいする危機の意識といっしょになって、未来について何かのヴィジョンをもとうとするものの思考法に、根本的な転換をもたらそうとしている。私たちは、だんだん「いまだ名付けられない存在」へむかっての、変貌をとげようとしているのだ。(・・・)わたしたちを、そういう「いまだ名付けられない存在」のほうにむかって、ぐんぐんと押し出そうとしている力、その力の源泉が、ほかならぬ現代の技術なのだ。

 しかもその現代の技術は、おもにヨーロッパ文明の世界に生まれて、いまや地球全体をのみこんでしまおうとしている。そのためにかえって、技術のほんとうのすがたが見えなくなりはじめている、というのがほんとうのところだ。いまでは、技術といえばたったひとつのスタイル、西欧近代文明のなかで発達した技術の体系がつくりだしてきたスタイルだけが、人間にとって技術というもののとりうるただひとつの可能性であるかのようにさえ、見えるのである。」

「東洋の文明のなかには、ひょっとしたら、技術がその「本性にしたがって」発達をおこなうことが、人間にとってなにか正しいものではない、と考えるような叡智が存在して、そのためにそこでは技術のオートノマス(自律的)な発達をはばむ力が働きつづけていたのではないか。こういう疑問に答えをみいだしていくためには、ヨーロッパに発達した技術のかたちにだけ視野をかぎっていたのでは、いっこうに糸口は見えてこないのだ。」

・ハイデガーの「技術論」

*「ヨーロッパの哲学者のなかで、はじめてこういう問題に本格的にとりくんだのは、ハイデッガーだ。ハイデッガーの哲学は、ギリシャ古典の世界とルネッサンスをひとつながりにして、自分たちの精神の歴史を物語ろうとする、西欧でスタンダードとなった考えにたいする、鋭い批判がこめられている。彼には、古典ギリシャの世界は、西欧的なスピリチュアリティ(・・・)ではなく、まさに東方のスピリチュアリティの世界との深い結びつきから生み出されたものであるということにたいしての、正確な認識があった。(・・・)彼の「技術論」も、そういうこころみのなかから生みだされた。」

「彼(ハイデッガー)の技術論の画期的なところは、技術とは人間にとって何なのだろうか、という問いかけをおこなっていくときに、具体的なこれこれの道具の発明とか、それをあつかう職人たちの手腕がどうであったかとか、技術をとりかこむ政治体制とかに、実証的にかかずらっていくのではなく、むしろ「技術なるもの」のガイスト(たましい)とでも呼んだらいいようなものの核心にむかって、まっすぐに矢を射ぬいていこうとした点にある。具体的な技術や道具やそれをあつかう職人や技術者の技量のすべてをつくりだし、ささえている目に見えない技術の本性なるものをまずつかみだし、そこから具体的な技術の歴史や哲学を考える作業をおこなってみる、というやりかたを、彼はとったのだ。この方法は、東洋における職人たちの生について考えてみようとしている私たちにとって、とても刺激的な暗示をあたえてくれる。」

・「技術のマトリックス(母形)」を出発点とした思考法

*「東洋の技術について考えようとしている私たちには、いまやまったく新しい思考の方法が必要だ。それは西欧で発達した技術の歴史を基準にするのではなく、およそ技術と呼ばれるもののいっさいが生まれでてくる、「技術のマトリックス(母形)」にたどりつき、そこを出発点にしていくような、思考法となるだろう。」

・テクネーとアレテイア

*「技術をあらわすテクノロジーという言葉は、ギリシャ語の「テクネー」がもとになっている。だが、このテクネーという言葉は、私たちがこんにちテクノロジーという言葉で表現しようとしているのよりも、はるかに深く、また広い内容をあらわそうとしていた、とハイデッガーは語る。」

「まずテクネーは、古典時代のギリシャでは、アレテイアという言葉と、ごく近いところにあると考えられていた、アレテイアは「隠れてあること、隠れてあるもの=レテイア」を「否定する=ア」という意味をもった言葉だ。つまり、隠れてある事物をあらわにするというわけだから、これはとうぜん隠されてある真理をあらわにしようとする哲学や、自然のなかに隠れてあるピュシスの働きをあらわにする行為である芸術などとも、深いつながりのある言葉だということがわかる。テクネーは、このアレテイアに全面的なかかわりをもっているのである。」

(ハイデガー『技術論』:「テクネーは、隠れてあるものをあらわにあばく、隠されてあるものを出てきたらす、ような行為の全体性をさす言葉なのである。それはたんに、職人のたくみな腕前や手の技やじょうずに考案された、道具類をあらわしているのではない。職人の手業や技量や道具などを媒介にして人間は「テクネー」することをつうじて、なにか隠されてあるものをあらわなものに出てきたらせようとするのだ。」

・テクネーとは、プロセスなのだ。それは、あらわれでてこようとして、いまだに隠されてあるものやことを、私たちの生きている世界のなかに出でー来たらす行為のプロセスの全体を指している。技術史は、このプロセスとしての技術の全体をみすえた歴史のディスクールでなければならない。それと同時に、技術はいつも「アレテイア」にかかわりをもっている。ほかのすべての行為とのつながりのなかで、考えられなければならない。こうして、技術はその本性がまさに「テクネー」であることによって、芸術や哲学や宗教や自然のプロセスとの本質的なつながりを、深いレベルでもういちどとりもどすことができるようになる。」

・芸術・哲学とテクネー

*「芸術も、テクネーである技術と同じように非=隠蔽性を、じぶんの本性としている。ただ、芸術はそれをおこなうのに、自然(ピュシス)にみずからそなわった「自己を越え出ていこうとする働き」に謙虚にしたがいながら、それをおこなおうとする。ところが、技術は、そういうポイエシスの優しい行為にいどみかかっていくような、ちょっと危険な要素をもともと秘めもっているのだ。技術は、自然を挑発するのだ。自然を挑発し、そのなかに隠されてあるものを、むりやり立ち上がらせて、胸元をひらいた自然のなかから有用な力をひきだすための体系を組織しようとする。技術には、芸術や哲学といった同じアレテイアの行為でありながら、いつかはじめにあった自然にたいする謙虚さを失って、システマティックな挑発と立ち上がった力の組織化にむかって、自律的な運動をおこすようになる、逸脱のモメントがひそかにしまいこまれてあるのだ。」

・技術に対するエコソフィアの必要性

*「技術の歴史を考えるためには、はじめテクネーとして生まれたその本性についての、こういう叡智的な認識を、いつもベースにすえておく必要がある。そうでないと、すぐに単純な技術的オプティミスムや、ヒステリックな技術否定論におちってしまうからだ。しれは、いっぽうで、テクネーを生みの親とするものとして、真理の領域と自然のポイエシスの領域とに、ともどもに深いかかわりをもっている。それは、自然のなかに隠されてあるものをあらわにする、創造的なプロセスにほかならない。しかし、同時にそれは、自然にたいして挑発をおこなう(そのやりかたは、資本主義という経済システムが人間の欲望にたいしておこなっているやりかたと、本質的に同じものである)。そして挑発としての技術がみずからの組織化をおこなって、自律的な運動をおこしはじめるようになると、それは地球環境と人間の精神に、致命的な危機さえつくりだしていくようになるだろう。」

「技術にたいしての、エコソフィア(地球惑星的な叡知、と言ったほどの意味だ)が必要だ。ほんらいパラドキシカルな本性をもった技術にたいして、それをいつも凌駕していられるような叡知のかたちが、つくりだされなくてはならない(哲学なんて、このとおろテクノロジーにやられっぱなしではないか)。」

・日本語における「職人」:「庭訓往来」〜「市に招き据えるべき輩」

*「日本語のなかには、もともとテクネーのような抽象性をはらんだ言葉はなかったが、そのかわりにテクネー的行為にかかわっている人々を、ふつうとはちがうことをしている人たちだという意味をこめて、「職人」とひとまとめに分類することにとって、その本性にたいする認識を表現していた。」

「まず、せまい意味の技術にかかわる人たち。ここには、鍛冶、鋳物師、金銀の細工師のように、おもに金属をあつかう人々から、植物からとった染料で布などを染めるのを仕事とする人々や、轆轤師や塗師のように木を素材にするアルチザン、それに海女や船方のような海民、猟師や狩人のような山の民、酒や酢をつくる人々などがふくまれ、ここになぜかもろもろの商人が、いっしょにまとめられている。」

「つぎは芸能にかかわる職人たちがくる。田楽師や獅子舞琵琶法師などが、このジャンルに属する男の職人なら、女の職人として白拍子や遊女といった。セクシャリティの領域にかかわる職人たちが登場する。」

「つづいて、医師や陰陽師といった、人体や自然のなかに隠されていて目では見えない力の領域のことをあつかうプロフェッショナルたちが、禅律の僧(彼らの多くは、一所不定の放浪する修行僧たちであった)や顕密仏教の学僧、修験者などとならべられ、そのあいだになぜか武芸と相撲の達人がおかれている。」

「さらには、文字と言語と声の職人たちがつづく。詩歌の宗匠、古典テキストの専門家、楽器と歌にたくみなもの、法律の文書の解釈にくわしい知識をもった人、書に秀でた人、そしてレトリックと演説にたくみな「職人」。」

*「職人はたしかに、ここでも「テクネー」の技にたずさわる人々であったようだ。つまり自然のなかに隠されてあるものを、ポイエシスとはちがうやりかたで、あらわにひきだそうとする行為をおこなう人々が、職人と考えられている。(狭い意味の)義樹t者、芸能者、狩猟をおこなう人々、宗教者、武士、エクリチュールのプロ、法律や儀礼の専門家、博打打ち・・・・・・彼らはじぶんの身体をとおして、いまだ隠れてあるものの力に直接触れ、そこから挑発やらトリックやらをとおして、この世界のなかに魅惑的だったり、有用だったり、ときには危険だったりする何かをひきだしてこれる技を、身につけているのだ。」

*「「捕獲の技」にしたがう猟師や狩人たちは、あらゆる種類の職人のなかで、もっとも自然の生命プロセスと接近したところを仕事の場所にしている人たちだ。」

「「捕獲の技」の反対の極に「トリックの技」にたくみな職人たちがうる。いわゆる芸能の民の多くが、この技をつかって生計をたててきた。」

「「捕獲の技」と「トリック」を結ぶ軸に直交するようなかたちで、こんどは「再現の技」と「偶然の技」を結ぶ、別のタイプの軸があらわれてくる。これは表現や意味の生産に、深い関わりをもっている軸である。(・・・)

 この軸上に超越とか神とか権力とかが発生してくるのだ。その意味では、この軸はポイエシスに直交しながら、それに結びついていく。なぜなら、神や超越は、自然に内在しているとともに、それを超出していくものでもあるからだ。」

「「再現の技」の軸上で仕事をする別の職人たちは、一意性にむかおうとする記号活動を、ふたたび偶然にみちたピュシスの運動のなかにひきもどして、人間の生きている意味の世界に、自由と生命をとりもどさせようとするだろう。そういう職人たちは、絵や書や彫刻の技をとおして、言語の真実を「真実らしさ」に、「再現=リプリゼンテーション」を多義的なファジー(あいまいなもの)につくりかえていく技を生きる。芸術は、偶然と再現をつないでいる、この軸上におこるダイナミックな出来事なのである。」

「ふたつ(「捕獲の技」と「再現の技」)の軸のまじわるところに、「変成の技」があrわれる。もっとも職人的な技が、これだ。彼らは、文字どおり物質の変成のプロセスにかかわっている。(・・・)

 その意味では、鍛冶師も鋳物師も、ふだんこの世にあらわれてはならない「隠されてあるもの」をあらわにするのであるから、とりわけ危険なテクネーにしたがっているともいえる。」

・農業民の世界

「こういう職人の世界にたいして、農業民の世界は、ちょっと微妙な位置にたつことになる。(・・・)農業の技術がおこなう自然への働きかけのやり方は、これまであつかってきたようなさまざまな職人たちとまあきらかな違いをもっているのである。農業の技術は稲という植物のポイエシスに介入する。しかし、その介入のしかたは、変成や捕獲のテクネーにたずさわる職人たちの場合とちがって、まるで産婆のような役割しか、はたそうとはしないのである。農業民は、稲を育てるということにおいては、自然のもつはげしい運動に、直接的に触れたりはしない。ましてやそれを殺害して、運動を停止させることもしないし、自然の内蔵する強度を浮上させる変成のプロセスも、ここにはあらわれてはこない。

 こうして、ひとつのまぎれもない技術でありながら、農業はテクネーのもと「挑発性」をゼロ度に近づけていく。ポイエシス的な技術として、「職人の世界」の全体とむかいあうようになるのだ。」

**(中村雄二郎『問題群—』〜「一二 《技術とは手段ではなく、露わに発く仕方である》
   ————ルロワーグーラン、ハイデガー、レヴィ=ストロースほか————」より)

*「技術の原初形態から先端技術まで視野に入れて問題を捉える必要があるが、その際に大きな手掛かりを与えてくれるのは、ハイデガーの〈テクニーク〉論である。彼は「技術への問い」(一九五五年)において、近代技術を念頭におきながら、それをギリシア語のテクネーから、技術がまさに近代技術になったときにあらわになった技術の本質を。次のようにみごとに取り出している。

 すなわち、テクネーには二つの意味があり、一つは井で来たらすこと、つまりポイエーシス(創る、詩作)の意味である。ただし、この出で来たらすことはピューシス(自然)の業でもあるから、そこではテクネーとピューシスとが重なることになる。それに対して、テクネーのもう一つの意味は、認識し開明すること、アレテイア(覆いを取る、真理)につながること、つまり露わに発(あば)くことである。そして、この二つの意味は、いずれも可能的なものの現実化をもたらすこととして、互いに結び付く。」

*「根本的な問題としては。これまでのように能率的で性能のよい技術、人間生活に近い、技術的製作が同時に芸術的創造でもあるようなものに立ち帰るとともに、先端技術や巨大技術をいたずらに肥大させないようにすることが必要だ。

 その点で、私たちに多くの示唆を与えるのは、レヴィ=ストロースのいう具体の科学あるいはむしろ等身大の技術としての〈ブリコラージュ〉である。すなわち、それは、およそ土器や織物を人間が造り出し農耕や動物の家畜化を始めた新石器時代以来、今日の文明社会に至るまで人々の間で依然として存在し続けている人間活動の一形態であり、近代科学にもとづく工業技術とはまったく異なっている。つまり、工業技術の場合にはその仕事は、それぞれの計画に応じて考え出され開発された道具や材料によって行われている。

 それに対してブリコラージュでは、人が用いるものは在り合わせの既成の道具や品物など、そのときどきで限られている。それらの道具や品物の秩序立っていない総体のなかから、彼はもっとも適切なものを選び出して使うのである。その総体にしても、あらかじめ計画的に集められたものではなく、偶然に過去から残っているあれこれのかけらや、たまたま集められた大切に保存されたガラクタルイから成っている。(・・・)

 このブリコラージュはいま私たちにとって、二つの点で注目に値する。一つは、数の上でも性能の上でも限られた道具と材料をいろいろと組み合わせて実に多くのものがつくられる、つまり多くの創造がなされるということである。まさに技術がそのまま芸術であるような形態である。もう一つは、そこでは、ハイデガーのいう意味で、自然を挑発して立たせることが行われていないということである。ということは、人間自身が自然のエネルギーを持ち出すように挑発されていない状態を保っているということである。

 まことに、私たち人間にとって、自然のエネルギー、そしてさらには隠された情報を役立たせ、利用することの誘惑は大きい。しかし、いまわれわれに求められているのは、そのコントロールなく増大が地球の生態系のみならず、人類の神経系をも破壊することを見極める想像力であろう。」

**(リチャード・セネット『クラフツマン』〜「結論 哲学の作業場」より)

・プラグマティズム————経験の技術

*「この考察は、ハンナ・アレントが軽んじた「労働する動物 animal laborans」を救済しようとしてきた。人間という労働する動物は技術によって豊かになり、クラフツマンシップの精神によって威厳を保つことができるのである。」

・文化————パンドラとヘファイストス

*「ホメロスの『イリアス』第一八歌のほとんどは、オリュンポス山のすべての家を建てたヘファイストスへの賛辞に費やされている。この歌にはさらに、彼が銅細工師、宝石職人、一人乗り軽二輪洗車の発明者でもあることが書かれている。しかしヘファイストスはまた足が不自由————彼は内反足なのである————でもあり、古代ギリシアでは、身体的奇形は恥辱の深刻な原因であった。カロス・カガトスkalos kagathos(身心ともに美しい)という語は、アイスクロスaischros(醜くて恥ずかしい)という一語と対照をなしていた。いずれにしろ、この神には欠点があった訳である。

 ヘファイストスの内反足には社会的な何かが結実している。この内反足はクラフツマンの社会的価値を象徴しているのだ。ヘファイストスは銅というありふれた材料から宝石を造る。また彼のチャリオットは鳥の死骸の骨から作られている。ホメロスは、英雄や英雄的荒々しさにまつわる物語の真っ只中にヘファイストスを置いている。(・・・)ヘファイストスの奇形の姿が暗示するのは、物質的で家庭的な文明は栄光を求める欲望をけっして満足させることはない、ということである。つまりその点に彼の欠点があるということだ。」

*「これとは対照的に、ヘシオドスは、パンドラは「美しき悪」であると述べて、さらにこう続ける。「その途方もない欺瞞を目にしたとき、不死なる神々と死すべき人間たちは驚異に打たれ、人間は魂を奪われた」。(・・・)パンドラという名前そのものは「すべての贈り物」を意味している。贈り物が入った彼女の箱は、彼女がエピメテウスと同居する家庭の中に置かれている。その箱が開けられると、もっとも非物質的な贈り物、すなわち希望だけが箱から飛びだすことを免れて災いとならずに済む。箱に入っていた物質的な道具類、不老不死の霊薬、薬物は災いをもたらす。つまり物質的な品々は「美しき悪」をもたらすのである。」

*「パンドラ神話は、他者たちから急き立てられて初めてパンドラが箱を開けるという物語として、ギリシア文化に組み込まれた。彼らの性的な野心と、箱の中の物品に対する好奇心とそれらを我がものにしたいという欲望によって、パンドラは危機に見舞われる。彼女は彼らの願いを叶えてやるが、箱の蓋が取られると、彼女は甘い香りを有毒な蒸気に変え、黄金の剣は彼らの手を切り落とし、柔らかい布はそれを摑んだ彼らの首を絞めた。」

*「ヘファイストスとパンドラという神話的人物たちが示唆しているのは、人類の文明をその起源において規定した物質文化に対する両義性である。西洋文明はこの二人の神話的人物の中からどちらかを選び取ることをしないで、むしろ、二つの個性を融合して、人間によって作られる物質的経験に関わる両義性に仕立てあげてきた。ヘファイストスもパンドラもともに熟練工である。二人の職人はそれぞれ正反対の属性をもっれ¥ている。すなわち一方は値打ちのある日常品を作りはするが、その姿は醜く栄光とは無縁でもある高潔な神であり、他方は、自らの所有する品々が、自身の肉体と同様に美しく人びとを虜にするが、同時に悪意にも満ちている女神である。この二つの個性の融合があったからこそ、プラトンは古風で家庭的な技術の美点を祝福し、他方で非物質的な魂の超越美を主張することができた。初期キリスト教徒たちが、大工仕事、縫い物、庭造りの活動に美徳を見て、他方で物質的財貨それ自体への愛着を蔑むことができたのも、同じ理由である。啓蒙運動が機械の完全性を歓迎し、同時に恐れた理由も、またヴィトゲンシュタインが、美しく完璧な建物を造りたいという自身の願望を病的であると述べることができた理由も、同じである。人間の手になる物質的な品々はニュートラルな事実ではない。それは人為的であるという理由で、不安の原因なのである。」

*「クラフツマンの技術は、たとえ自然なものであるとしても、けっして無垢なものではないということである。」

・倫理学————仕事への誇り

*「プラグマティズムは、仕事への誇りによって提示される倫理的問題を一挙に解決する訳ではないが、部分的な矯正策を持っていることはたしかである。それは、手段と目的のつながりを強調することである。」

*「内反足のヘファイストスは、たとえ自分自身に対してではないとしても、自分の仕事に対しては誇りを持っていた。彼こそが私たちがなることのできる、もっとも威厳のある人物なのである。」

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