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『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』/『世界哲学史1』/『世界哲学史8』/納富信留『世界哲学のすすめ』/山川偉也『パルメニデス 』

☆mediopos3450  2024.4.28

『ミリンダ王の問い』という
バクトリア周辺のギリシア王のミリンダと
仏教僧ナーガセーナとの対話が残されていて
「ミリンダ・パンハ」(パーリ語)と呼ばれる
仏教の外典となっている

ギリシア人が最初にインドに赴いたのは
前五〇〇年アレクサンドロスの遠征によってだが
それから二〇〇年近く経った前二世紀半ばに
上記の対話が行われたとされ
テクストの原型が成立したのは
前一世紀前半から半ば頃と考えられている

ミリンダ王は
「「ある」とあらぬ」を論じたパルメニデスから
始まっているといえるギリシア哲学の
実体論的な「有」を背景とし

ナーガセーナは
仏教の縁起論・無我説により
実体を否定している「無」を背景としているが

対話で論じられているのは
無我説と輪廻思想の調和である

無我説とは
「ウパニシャッド思想が「真実の自己」として
「我・アートマン」を追求し(有我説)、
それを宇宙の究極原理「梵・ブラフマン」と
一致させようとしたこと(梵我一如)に対する
批判と位置付けされる」

「「人格的主体」が存在することを否定する
ナーガセーナに対しミリンダ王は、
罪悪を犯した人間に行為主体がないならば
責任はどこにあるのか、贈与を行うのは何か、
戒律の遵守を行うのは何か、などの質問をぶつけ」

ナーガセーナは「車の比喩」で答える

「「車」とは、それを構成する様々な部分に
「縁って」成立した名称であるに過ぎず、
その名称を担う「車」という構成要素は
「車」の中には認められない」

ミリンダ王はいちおうはそうした無我説を受け入れるが
「輪廻思想での業の形成作用と無我説との調和の問題」で
両者の問いと答えの間には微妙なズレが生じている

そのズレとは
まさに「有」と「無」を背景としたものである

パルメニデスの
「あるはある あらぬはあらぬ」から展開されていく
実体論的な哲学である「有」の思想と
仏陀の実体を否定した縁起による「無」の思想である

その意味で『ミリンダ王の問い』は
「インドとギリシアの対決」を
古代において典型的に表しているといえる

この「有」と「無」だが
『世界哲学史8』所収の
朝倉友海「第9章 アジアの中の日本」で
重要な視点が示唆されている

西田幾多郎らの京都学派の特徴として
無ないし絶対無の概念が挙げられることが多いものの

「西洋哲学がパルメニデス以来
「有」をめぐる思索の道を進んだとすれば、
そして西洋哲学は長らく実体と神をめぐる
「有」の思索であったとすれば、
たしかに仏教は一貫してその逆をいったかのように見える」が

「近代哲学は大きな転回を遂げることで実体主義から離れ」
「ある種の「関係主義」がそれに取って代わっ」ている

しかも「無」は必ずしも「東洋思想の専有物ではなく、
ドイツ神秘主義にも、その影響を受けた
ドイツ観念論哲学にも、濃厚に見られる」のである

西田幾多郎も
「無」から出発する認識論を構想した
ヘルマン・コーエンの影響を受けその思索を進めたように
現代においては「無」の思想が東洋的であり
「有」の思想が西洋的であるとは必ずしもいえない

しかも「仏教的な哲学が「無」の概念を用いるのは
「心」の探求においてであるという点」も重要である
「対象が「有」であるのに対して
心は「無」であると言われる」からである

西田幾多郎の「場所」「無の場所」といった
場所の論理もそうしたことを考慮に入れて
理解する必要がある

なにが有って
なにが無いのか

有るといいながら無いといえるのかもしれず
無いといいながら有るといえるのかもしれず

その有ると無いをどのようにとらえるか

『ミリンダ王の問い』は
現代においてあらたなかたちで問い直されることで
有ると無いをめぐる存在論=認識論が
見出され開かれていくことになるかもしれない

■『ミリンダ王の問い1 インドとギリシアの対決』
 (中村元・早島鏡正訳 東洋文庫1 平凡社 1963/11)
■松浦和也「第6章 古代ギリシアの詩から哲学へ」
 金澤修「第10章 ギリシアとインドの出会いと交流」
(『世界哲学史1 古代Ⅰ 知恵から愛知へ』ちくま新書 2020/1)
■朝倉友海「第9章 アジアの中の日本」
(『世界哲学史8 現代 グローバル時代の知』ちくま新書 2020/8)
■納富信留「第8章 世界哲学をつくる邂逅と対決」
(納富信留『世界哲学のすすめ』ちくま新書 2024/1)
■山川偉也『パルメニデス 錯乱の女神の頭上を越えて』
 (講談選書メチエ 2023/1)

**(松浦和也「第6章 古代ギリシアの詩から哲学へ」(『世界哲学史1』)より)

*「「ある」とあらぬ」をギリシア哲学に導入したのは、このパルメニデスである。ヘクサメトロス(六脚韻)という詩の形で伝えられた彼の思索は極めて難解であるが、特に注目されてきたのは生成変化の否定である。

  どのようにして「ある」が後で滅ぶのか。どのようにして生じるのか。もし生じたのであれば、それはあらぬ。もし、いつか生じることになるのでも、それはあらぬ。それゆえ、生成は消し去られ、生滅は聴かれないものになった。

 「ある」は生成も生滅もしない。この「ある」が「存在」を意味すると仮定すると、存在は生成も生滅もしない、ということになる。その理由は次のようなものである。この存在がかつて生成したものであるならば、存在以外のもの、すなわち非存在から生成しなければならない。しかし、非存在とは何ものでもないものである限り、非存在から存在が生じる根拠も必然性もない。パルメニデスの思索は、「ある」と「あらぬ」を用いた高い抽象性と、高度な論理性を有する。

 パルメニデスより後の思索は、彼の主張と議論への対応を余儀なくされた。

(・・・)

 パルメニデスが哲学者とみなせるのは、「ものは究極的には何からできているか」に答える原理について発言をしたことよりも、「ある」に対する論理的かつ抽象的議論によるものである。そして。もし抽象的な議論を行う能力を哲学者の特性と見るべきならば、パルメニデスを哲学の祖と考えることも文舞とは言えないだろう。」

**(金澤修「第10章 ギリシアとインドの出会いと交流」(『世界哲学史1』より)

*古代文明が栄えたギリシアとインド。異なる文化的伝統のもとで発展した両思想の出会いは、歴史的には偶然的要因が積み重なった結果とも言える。だがそれを出発点として、後に起こった両思想の交流は、或る意味では必然であった。」

*「ギリシアとインドの間では、時が経つにつれて積極的な対話も行われるに至った。バクトリア周辺のギリシア王のミリンダは、「アラサンダ」から自身の疑問を解決すべくやってきて、仏教僧ナーガセーナと対話をしたという。これをパーリ語で記録したものが『ミリンダ王の問い、ミリンダ・パンハ』と伝えられる作品である。「ミリンダ(Milinda)」とは、前二世紀半ば(前一五〇頃〜前一二〇頃)に在位していたバクトリア王「メナンドロス(Menandros)」の音韻変化で、「アラサンダ(Alasanda)」とは、アレクサンドロスによってバクトリア周辺に複数建てられた都市「アレクサンドレイア(Alexandreia)」の一つである。(・・・)

 この作品は様々な増補を後代受けているが、二つの漢訳バージョンで伝わっている『那先比丘経』との一致箇所が古層を示しているという推定が一般になされている。(・・・)とりわけ興味深いのは原型がギリシア語であったという説である。前二世紀半ば以降に成立したギリシア語での書『アリステアス書簡』との人物名や形式上の類似が多いというのがその根拠であり。ミリンダ王の死後、過去の記録をもとにして、ギリシア語の原本が書かれたというのである。いずれにせよ本作品の原型の成立は、前一世紀前半から半ば頃と考えられている。」

*「この対話篇で討論されているのは、無我説と輪廻思想の調和といってよい。無我説はウパニシャッド思想が「真実の自己」として「我・アートマン」を追求し(有我説)、それを宇宙の究極原理「梵・ブラフマン」と一致させようとしたこと(梵我一如)に対する批判と位置付けされるだろう。」

「ミリンダ王は対話相手の尊者が何という名前かと問う。或る「名」のもとに呼ばれている対象はどのような存在なのか。これに対し尊者ナーガセーナはこう答える(・・・)。

  王よ、私はナーガセーナとして知られています。修行者仲間は私をナーガセーナと呼び習わしており、母父はナーガセーナとか、シンハセーナとか(中略)。しかし王よ、その「ナーガセーナ」というのは呼称、通称、慣用名、単なる名なのです。そこには「人格的主体・ブッガラ」が存在することは認められません。

「人格的主体」としたパーリ語の「ブッガラ」は、サンスクリット語で「プドガラ」であり、「この私を私にしているもの」、「自己自身、魂」とも言える単語であり。「我」(サンスクリット語でアートマン、パーリ語でアッタン)とほぼ同義である。

(・・・)

「人格的主体・ブッガラ」が存在することを否定するナーガセーナに対して、ミリンダ王は。罪悪を犯した人間に行為主体がないならば責任はどこにあるのか、贈与を行うのは何か、戒律の遵守を行うのは何か、などの質問をぶつけている。

 これに対しナーガセーナは「車の比喩」によって自らの立場を説明する。「車」とは何か、それを構成する車輪や車体が「車」なのか。いやそうではない。「車」とは、それを構成する様々な部分に「縁って」成立した名称であるに過ぎず、その名称を担う「車」という構成要素は「車」の中には認められない、と。

(・・・)

 無我説を即座に受け入れたミリンダ王であるが、対話全体を見てみるとそうではないようである。そもそもミリンダ王は「人格的主体」を、戒律を遵守するか否かなど行為を選択する行為者として理解した上で、それがどこに存するのか、いわば「有我説」の立場から問いを発していた。確かに主体を想定すれば責任の所在は明らかだが、「無我説」ではそうではない。実際、輪廻説と組み合わされると、行為者と責任の問題は複雑な様相を呈する。

(・・・)

『ミリンダ王の問い』に存在するズレは、最終的には輪廻思想での業の形成作用と無我説との調和の問題に収斂する。ギリシア人であるミリンダ王は、縁起説など仏教の根源的思考を理解できたとしても。それとは別に輪廻思想を受け入れたとしても、行為者と責任という観点で二つを統一的に理解できたかという点では疑問が残る。これはさらに後でも、「身体内部に存在する生命」を行動原理として想定していることからも疑われる。

(・・・)

 それ故に『ミリンダ王の問い』は噛み合わない対話篇とも言えるのだが、なお評価すべき点が存在する。何故ならギリシアでもインドでも常に問題となっていた身体と魂、魂と行為主体などの問題、さらにインドの中心的な思想である輪廻の構造について、ギリシアの立場から質疑がなされることで、相互の思想の一致点と不一致点が明らかになったからである。その限りで『ミリンダ王の問い』は、ギリシア思想史にもインド思想史にも属するといえるであろう。

 さて、本作品にはミリンダ王が仏教に帰依したという後日談がある。これは劇中の報告ゆえに真偽は不明である。」

**(朝倉友海「第9章 アジアの中の日本」(『世界哲学史8』より)

*「西田幾多郎と牟宗三に典型的にみられる、仏教を背景にした東アジア的哲学がもつ特徴を、細部には立ち入らずにできるかぎり簡単に提示しておきたい。

 京都学派の特徴をめぐる一般によく挙げられるのは無ないし絶対無の概念であり、これは間違ってはいないのだが、大変に誤解を生みやすい説明である。西洋哲学がパルメニデス以来「有」をめぐる思索の道を進んだとすれば、そして西洋哲学は長らく実体と神をめぐる「有」の思索であったとすれば、たしかに仏教は一貫してその逆をいったかのように見える。しかし近代哲学は大きな転回を遂げることで実体主義から離れていった。ある種の「関係主義」がそれに取って代わったのである————そしてここに、大乗仏教との類似点を指摘することもできる。だとすれば、西洋哲学と仏教の違いは見えなくなってしまう。

「無」が東洋思想の専有物ではなく、ドイツ神秘主義にも、その影響を受けたドイツ観念論哲学にも、濃厚に見られるという点は、京都学派の共通理解である。より近い時代ではヘルマン・コーエン(一八四二〜一九一八)が「無」から出発する認識論を構想したし、その影響のもとに西田自身も思索を進めたのだった。「無」の思想もまたすぐれて西洋的なものなのだ。東西の違いを拙速に捉えることへの戒め、それは東アジア的哲学の大前提となる。

 重要なポイントは、仏教的な哲学が「無」の概念を用いるのは「心」の探求においてであるという点だ。対象が「有」であるのに対して心は「無」であると言われる。心を規定する意志的なものもまた「無根拠」なものであると言われる。そのため、心の探究の中では「無」が副次的に焦点となるのだが、場所ないし「無の場所」といった表現もこうした探求の中で出てくる。場所の理論へと向かう西田は、対象ではなく対象を摑んでいる「心」そのものを把握しようとしたのであり、これは超越論的な探求ということができる。

 近代哲学の課題を直に受け止めた超越論的な探求が、おのずと仏教的伝統と交錯するところに、独自の思索が生まれる。「無」としての「心」を焦点とした探求が、たんに認識論的であるだけではなく、また存在論的でもある点は。西田哲学の特色でもあるが。この点をより仏教に即してみてみよう。

 心には森羅万象が映されているが、それは心が何かを受け取っているからでも、心から何かが生まれるからでもない。拠るべき基体がないままに、いわば心とともに森羅万象が(無の中に)成立している————しかも極悪から極楽にいたるまでが、平等に欠けることなく、拠るべきものなくして存在している(一念三千)。ここにきわめて不可思議な、ある種の存在論的な知見を見出すことができる。牟宗三が「仏教的存在論」と呼んだこうした知見は、西田による「場所の理論」と並んで、近代哲学を引き受けた探求が仏教と結びついた著しい成果である。

 対象を成立させている心の構造ないし論理を把握しようとする超越論的な探求によって、また、あらゆるものを拠るべき基体のないものとして見つめなおすことによって、思索はおのずと仏教的伝統と共振し始める。こうして西田や牟は、東アジア的哲学がどこに焦点を結ぶのかを指し示したのだった。」

**(納富信留「第8章 世界哲学をつくる邂逅と対決」(『世界哲学のすすめ』)より)

*「ギリシア人が最初にインドに赴いた前五〇〇年、そしてアレクサンドロスの遠征によって哲学者が出会った場面から、さらに二〇〇年近く経った前二世紀半ば、両者は後世に残る重要な出会いを果たします。その出来事は、今日『ミリンダ王の問い』という表題で伝わる仏教の外典、パーリ語で「ミリンダ・パンハ」と呼ばれるテクストに残されています。

(・・・)

 本作に注目した一九世紀後半以来の研究者たちは。この対話がギリシアとインドの伝統のどちらに由来するのか、いや、パーリ語で残されたこの仏教の外典にギリシア哲学の要素な見られるのか、そういった問題をしきりに論じてきました。彼らはまた、ギリシア人の王であるメナンドロスは果たして仏教に改宗したのか、もし改宗したとしたら、どんな理由だったのかも気にしてきました。」

*「議論で「魂」にあたる単語はいくつかあり、その語義をめぐっては謎があって、現在も研究者たちの議論が続いている(・・・)。

 ミリンダ王が問いかける「ヴェーダグー」という単語は、中村元と早島鏡正の訳では「霊魂」となってしますが、宮本啓一の新訳では「我」とされ、漢訳仏典では「人」と訳されています。中村らがここで「霊魂」という訳語を与えて根拠は、『パーリ語・英語辞典』にあります。その辞書では、「ヴェーダグー」という語が基本的に「知恵の到達者」を意味するが、『ミリンダ王の問い』のまさにこの二箇所のみは「魂」という意味で特殊な使われ方をしている、と説明されているからです。それに基づいて中村はこの議論を「霊魂の否認」と解釈していますが、「我、人」と訳した場合は、また異なった解釈や印象を与えることになります。」

「これはあくまで推測に留まりますが、インド伝来の哲学用語を裂け、ギリシア哲学の概念を新たに吟味に持ち出すため、あえて異なる語彙が用いられたとすると、そこに二つの哲学伝統が対決した議論の機微を見ることができます。

 ナーガセーナの答えは「無魂」でした。仏教徒は、識別や智慧のような精神作用は現象的な形として認めますが、それを動かす能動的な存在を背後に想定することは断固拒んだのです。それに対して、問いを投げかけたミリンダ王は、ギリシア哲学の文脈で「魂は実体だ」という立場に立っています。しかしナーガセーナは、これを印度哲学の「魂実体説」と同等と見做して、私たち自身は関係性、つまり「縁」に過ぎないという論拠から魂の実在性を否定しようとしたのです。ただし、インドとギリシアという異なる背景での議論ゆえに、「ヴェーダグー」という新しい訳語が用いられたのでしょう。

 ギリシア哲学に通じたミリンダ王は、もしかしたら魂の「流動説」を提示したプラトン『テアイテトス』でのプロタゴラス・ヘラクレイトス説を連想したかもしれません。あるいは、魂の原子論に似たものとして、相手の議論を受け止めているのかもしれません。いずれにしても、魂の実在性を否定する議論は、ギリシア哲学ではほぼ見ることができない、特別で衝撃的な説でした。」

*「ミリンダ王に代表されるギリシア哲学は、魂という実体の実在性など絶対的存在を基盤にした西洋哲学を生み出します。それに対して、ナーガセーナが説いた仏教は、魂や自己(アートマン)の実在を否定する「無我論」を進め、「無」を基本とする哲学に至ります。それは「諸行無常」と呼ばれる、不変で永続的な自己や本質はない、という徹底した立場です。

 ギリシア哲学はキリスト教を通じて西洋哲学の存在論の伝統を生み出しましたが、インド哲学はやがて日本にまで伝播した「絶対無」をうたう西田幾多郎らの近代日本哲学を促しました・もっとも、この「無」という近代日本の概念も、実は仏教だけでなく西洋哲学の影響を受けていると考えるべきかもしれません。この点は『世界哲学8』第9章「アジアの中の日本」で朝倉友海が鋭く指摘しています。

 こうしてギリシア人とインド人の出会いと対立が、現代に至る哲学伝統の基本的な違いにつながっているのです。」

**(山川偉也『パルメニデス 錯乱の女神の頭上を越えて』より)

*「パルメニデスの生国エレアは、新興ペルシア帝国によって祖国を追われたフォカイア人たちが、およそ一〇年の歳月というのも、安住の地を求めてさまよったあげく、前五三五年に南イタリアのテュレニア海沿岸に建てた、貧しくも小さな国であった。その小さな国に生まれ育ったパルメニデスが、「ギリシア思想史上最大の分水嶺」と黙される哲学者になったのは、いかにしてであったか。」

*「ディオゲネス・ラエルティオス、ストラボン、プルタルコスの三者は、ともに、パルメニデスがエレアの立法者(ノモテテース)であったと証言している。」

*「キングズリーやウスティノヴァが主張するところによれば、パルメニデスは、神の啓示を授かろうと、ピュタゴラスのまねをして、冥界ないしエレアの地下の「お籠もり堂」へと下りていった、ということである。が、それを証拠立てる確かなテクストはない。テクストの上ではっきりしているのは、「真珠なす真理の揺るがざる心」を求め、「わたし」が「アーテー」(錯乱の女神)の虜囚となったすべての人々の頭上を越えて、上方、「光の方へ」「不可侵」(アシュロン)なるものを求めて旅した、と言われていることだけである。」

*「(パルメニデスの詩における)クーロスは女神のその言葉に聴き従う。そして「あるかあらぬか、いずれか一方」(「排中的選言」)と声に上す。そして、自分の声を聴きながら、「あるものがある」ということ(「自同律」)は必然、とクリネイン(ことわけ)する・その一方で「あらぬもの」については、「知ることも言表することもできぬ」ゆえの、つまりは充たされるべき十分な理由(「充足理由」)が欠如しているがゆえに、「あるものはありて、そのあらざるは不可能なり」、と断定する。

 注目すべきは、断片二の全体が帰謬論法による「論証」の態をなしていることである。パルメニデスは「否定的充足理由律」ならびに「無矛盾律」に訴えて、「帰謬論法」的に「あるものは有りて、その有らざるは不可能なり」と「あるもの」の実在性(あるもの性)を確証(ascertain)する。

 一つの論証を「真理に適う」(断片二・四行)ものたらしめる「信頼すべき強き力」(ピスティオス・イスキュス)(断片八・一二行)がある、とパルメニデスは主張する。その「強き力」を、わたしは、広狭二義に解する。一方でわたしはそれを「《ある》の縛り」と同定し、他方でそれを「充足理由律」、「自同律」、「排中律」、「無矛盾律」等々のパルメニデス特有の論理法則と解する。そして両者を一括して、「エレア的アルゴリズム」と呼ぶ。」

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