『懐かしい未来/ラダックから学ぶ』 &山本哲士 『文化資本と知的資本』
☆mediopos-2311 2021.3.15
ラダックの人たちは
「足るを知る」ひとたちだったけれど
そのラダックも
ほんらい存在しなかったはずの「足らざること」が
あらたにつくりだされることで
それを充足させようとする社会へと
変化せざるを得なくなりはじめているようだ
より便利になることやより暮らしやすくなることが
「足るを知る」を疎外するわけではないだろう
おそらくそこで問題となるのは
資本主義経済とされるものの
「資本」のとらえかたなのではないだろうか
その捉え方が根底において錯誤しているがゆえに
近代化なるものは「開発」という名の
破壊になってしまいかねない
ほんらいの「資本」が
錯誤されスポイルされてしまうからだ
ラダックのことをあらためて
考えてみようとしていたところに
折良く山本哲士による
「知の新書」の刊行がはじまった
その第一巻目が
『甦れ 資本経済の力/文化資本と知的資本』である
まさに「資本」ということを
とらえなおすことを主題としている
現在「資本」という概念は
資金や資材のことだと考えられているが
山本哲士の論では経済のことだけではなく
ざっと網羅的概略的に挙げてみるだけでも
まず外在的な資本として
象徴資本・社会資本・想像資本・経済資本
その物的なものとして
場所資本・景観資本・環境資本・資本が配され
内的なものとして
言語資本・身体資本・技術資本・歴史資本が配され
それらの中核には「文化資本」が作用しているという
そうした外的かつ内的
物質的かつ精神的な「資本」が
現在は資金や資材のみでとらえられてしまうことで
経済は画一化された「社会」なるものに規定され
ほんらいの「資本」が失われたまま
金銭的な利益を増やすことだけを
目的として動くようになってしまっている
お金にお金を生ませるようなあり方もその癌細胞である
「足るを知る」ことが壊れてしまうということは
さまざまな「資本」がお金という一元的なものをめぐって
「社会化」されてしまうということでもある
たとえば
学校でないと学べない(学校化社会)
病院でないと治療できない(病院化社会)
○○という制度でないと△△できないというような
規制的なありかたをつくりだしてしまうのが
「社会」という錯誤でもあり
そこでは一人ひとりの「力」としての「資本」が
スポイルされてしまうことになる
そうした「社会」のなかで
あらたな「欲望」は次々とつくりだされてゆく
なくてもよかったはずのものを欲し
それを求めるようになることが社会的欲望である
まさに「足るを知る」から
「足らざる」がつくりだされるがゆえに
それを「求める」欲望が次々と
あらたな「商品」を通じて増殖させられてゆく
あらためて考えたいのは
ひとはなんのために生きているのかという問いだ
なくてもよかった欲望を充足させるために
生きているというのはまさに地獄環境の再生産である
そこでは人間にとっておそらく最重要なものである
「精神の自由」は失われてしまうことになる
より便利になることやより暮らしやすくなることが
悪いわけでは決してない
それらを生み出すために
ほんらい経済の基軸であった「文化資本」が
スポイルされてしまうということが問題なのだ
そこでは資本の中核にあるはずの
「一人ひとりの「力」」が不完全燃焼して
ときに有毒ガスさえ生み出してしまうことになる
そこで燃え尽きてしまうのが不全の「自我」なのだろう
病的なまでの承認欲求というのもそこからでてくる
「自らの力」というほんらいの「資本」
つまり「精神の自由」を基軸にした人の力を
どれだけほんらいの「経済」として展開できるか
それこそが「懐かしい未来」を
ほんとうの「未来」へと向かわせる道ではないだろうか
■ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ
『増補改訂版 懐かしい未来/ラダックから学ぶ』
(ヤマケイ文庫 2021.2)
■山本哲士
『甦れ 資本経済の力/文化資本と知的資本』
(知の新書001 文化科学高等研究院出版局 2021.2)
(ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ『増補改訂版 懐かしい未来』より)
「ラダックへ行く前、「進歩」に向かって進むことは避けがたいものであり、疑う余地のないものだと思っていた。」
「ラダックでの経験を通じて、私が以前、破壊的な変化に直面したとき無抵抗だったのは、少なくとも部分的には、人間の本性によるものと文化とを混同していたためだということを自覚するようになった。マイナスの動きの多くは、人間のコントロールを超えた自然の進化の力というよりはむしろ、私たち産業社会文化の結果なのだということを認識していなかった。深く考えることもせず、人間は基本的に自己中心的で、生き残るために競争し、闘うものと見なし、より共同的な社会というのはユートピア的な夢でしかないと思っていた。」
「ラダックで私が見たものは、廃棄物も汚染もなく、犯罪は事実上存在せず、地域共同体は健全で結束力が強く、十代の少年が母親や祖母に優しく愛情深く接するのに決して気後れすることのないような社会であった。そうした社会が近代化の圧力のもとで解体しはじめているとき、この教訓はラダックを超え、意義を持つ。」
「かつてのラダックの人たちは、精神的にも物質的にも自足していた。後に必要だと見なされるようになった開発への欲望はなかった。起こっている変化についてラダックの人に聞いたとき、大方の人は近代化に無関心であった。ときには開発に対して懐疑的でさえあった。遠隔の地に道路が造られようというとき、将来の見通しについては、ためらいがあった。電気についてもそうであった。一九七五年、スタクモ村の一部の人びとが、近隣の村落を電化するための大騒ぎを冗談の種にし、大笑いしていたことをはっきり覚えている。彼らは、大変な努力とお金を、滑稽としか思えない利益のためにそそぎ込むことなど馬鹿ばかしいと思っていた。」
「ラダックの人たちが自己の尊厳と価値観が揺さぶられる前には、そこに住む人びとが文化的であるということを証明するのに、電気は必要ではなかった。だが、私が見てきたほんの短いあいだに、開発の影響力が人びとの自信を傷つけたため、電気だけでなく、南方のパンジャブ米やプラスチック製品までもが必要なものとみなされるようになった。人びとが自慢げに、使う必要もない腕時計をはめているのを見たことがある。近代化しているように見せたいという欲求が大きくなるほど、ラダックの人たちは自分の文化を否定するようになった。伝統的な食事でさえ、誇りに思わないようになる。今では、私が客として村へ行くと、インスタント麺ではなくンガンペを出すことを村人は謝るのである。」
「開発は必ず破壊につながるのだろうか。私はそうは思わない。ラダックの人たちは何世紀ものあいだ大切にしてきた社会的、環境的なバランスを犠牲にすることなく、生活水準を上げることができると私は確信している。だがそうするためには、ラダックの人たちは、自分たちの古来からの基盤の上に新しいものを築いていく必要がある。基盤を突き崩して新しいものを築くというのは、従来の開発の発想である。」
(山本哲士『甦れ 資本経済の力』より)
「ーーーー「資本」という概念が、一般では、お金、マネーの資金や資材のことだと考えられています。それだけではない、批判的な考えでは「悪」であるとさえ一般化されています。マルクス主義の影響だと思いますが、山本理論では「資本」の概念が他とまったく違います、ポジティブに考えられています。どうして、そのような概念の使い方になったのですか?
わたしは、すべてが「資本capitalである」と考えています。実際にそうです。
「文化資本」がその核に配置されますが、主要には社会資本、経済資本、そして象徴資本ですが、さらに言語資本、場所資本、環境資本、さらには政治資本、国家資本など、として理論化しています。世界線では「資本」概念はまったく転じられているのです。
客観化された資本だけではない、個々人の力能も資本です。
つまり、資本概念によって、経済関係を考え直すだけではない、主客の分離している近代二元論をもこえる概念が必要です。哲学、経済、政治を環境や文化とともに考察することです。」
「ーーーー「資本」は自らの力だということですね。
ええ、<資本>を自律性の自己技術として個々人は働かせています。小さな資本ですが、これが基軸です。労働者は自分の資本を働かせて、労働している。お金ではない、スキル/力能です。企業活動は資本の運営です。政治も、国家資本のもとで自らの政治資本を動かしている。
そうしますと<資本ーー労働>関係は、<資本>間関係へと概念が転じられます。これが、実際に企業活動で健全になされていくべきことです。資本間関係を「資本ーー労働」関係へ分節化する企業は、旧態のヒエラルキー的組織秩序の企業です。資本を削ぎ落とすと「労働力」になる。」
「資本経済を考えていくには(・・・)まず産業社会経済をクリティカルに考察すること、そして資本主義とは心的・精神的などまで含んでいる文化様態であると見直していかねばならない。文化土壌なくして経済は成立していないのです。
なのに経済が社会へ絡みとられて、経済自体ではないものになってしまっている。つまり組織運営に転じてしまっています。社会をつくっているからです。ですから社会が今回のように感染予防でストップしてしまうと経済もストップしてしまった。しかし、生存に関わる経済はストップしていない、また生存経済は不可避に復活します。経済とは、儲けや利潤のための活動ではないし、ましてや最大利益をだす最大効率の物理的営みではないのです。経済が利益を出すのは目的ではない、構造として剰余価値生産を<剰余享楽>とともに構造化しえていることで経済は存続します。(・・・)知的資本はその物象化を批判明証にすることです。
商品経済は、環境経済と対立しているかのように出現していますが、資本経済は環境経済を場所経済として成しますので共存します。<経済、環境、文化>が協働するのが資本経済です。たとえば評判になっていますが、里山資本主義ではない、里山場所資本経済なのです。」
「ーーーー(・・・)消費行動に「欲望」と「享楽」とはどのように構成されているのでしょうか?「欲望」と「享楽」とはどんな関係にあるのでしょうか?
非常に本質的な問いですね。
消費社会への批判は、「消費財の豊かさは真に生きられるものを貧しくする、それは物品で与えられるだけで、その物品は消費される、物品への愛着を抱くことができない」とされます。ところが、実際の感覚はそうではないでしょう。そのような破壊可能なことより、得られる快楽の方が大きいし、真に生きられることよりも楽しいことの方が大事だ、となっています。つまり、生において、何が構成されているのかです。物品のことではないからです。
「享楽」というのはとてもわかりにくい概念です。(・・・)わたしが申し上げたいのは「享楽社会」などは無いということです。「欲望社会」は構成されます。ここも<資本>と<商品>とが概念空間で識別されていないために、社会概念が曖昧に拡張されて誤認されてしまうところです。
「享楽」とは、快楽を味わうことだと実体化されてしまうから誤認がおきます。
「享楽joissance/joyfulness」は「快楽pleasure」とも「欲望dosire」とも違います。
「享楽」は「剰余」なのですが、この剰余は余ったものではなく、余ったものを生み出す剰余のシニフィアンです。」
「「欲望」もシニフィアンですが、その構造は「ランガージュとしての無意識」に配備されます。無意識の欲應です。「大文字の他者の欲望」です。実体などない。商品はこの実態のない欲望を物の世界へ固着させているから魅力があるのです。商品生産を侮ってはならないのは、この曲芸(とわたしは言いますが)をなしているからです。欲望がそのように働くには、快楽原則と現実原則の反転を結ぶ「社会」というランガージュが必要になります。」
「享楽には他者も主体もいません。<もの>からの心的疎外のシニフィアンです。そこに対応するのが実は「資本」です。資本は享楽に配置されています。
わかりやすく言いましょう。例えば「美」です。美は資本です。それが欲望を媒介にして「化粧品」や「ファッション」に造られます。その作られたものを使用することに「快楽」があるのです。欲望を満たしてくれるはずの快楽です(しかし、実際に欲望充足は不可能です)。
美そのものの実体はないですが、その享楽のシニフィアンが消費にゃ芸術作品へ疎外表出されてシニフィエとして感知されるものになりますが、欲動による生産です。しかし、この疎外表出は遡及的なのです。近代的な因果関係ではありません。それが「構造」の関係構成になります。」
「つまり、欲望の構造は「社会」の構造なのです。社会はしかし規範化されていますから、欲望を抑圧すると見なされてしまっています。でも、欲望は主体化され個人化され個々人の内部に欲望がある、というように。しかも氾濫している。
規範社会は、欲望社会であるということです。それを司っているのが商品の魅力です。商品は一見すると自由自在、勝手に作られていると思うでしょうが違います。非常に規制されています、賞味期限とか、毒性の排除とか、医療的なものを入れてはならないとか、完全に規範化されている、つまり快楽への善、でないと欲望主体へ応えられないのです。商品は社会市場で、欲求を超える「欲望」に応じて売買されるのです。商品は社会市場でしか機能しないからです。
享楽はそこには配置されないもっと根源的なもの。自然疎外表出です。」
「わたしは商品を否定しているのではありません。商品の本誌湯をちゃんと理解して、その限界を知るべきだと言っています。欲望は「欲する」前に規制されている、商品も規制されています。それは実は剰余を生み出さないのです。差額を生み出すことが可能なだけです。剰余を生み出すことへの大事な論点は、物質文化と資本です。使用価値文化です。交換価値ではないのです。」
「経済は「商品」世界だけではない、根源に「資本」がある。資本がなければ、商品生産は可能になりません。冷静に観察してみれば、商品世界は粗悪です。それを粗悪にしていないのは資本が作用している<もの>だからです。デザインは<もの>を表出しているのですけど。」
「繰り返し強調します。産業社会経済の市場は「社会」です。そこは、経済の場ではないのです。物象化と社会の物象化との共謀なのですが。それでも、実際にそれは経済市場ではないのです。
「商品を消費して生活しなさい/できる」という社会規範になっている、そこが市場です。
「規範化された社会」が市場なのです。商品が市場なのではない。ここを、ほんとにはき違えているのは、学校へ行かないと教育されないというのと同じなのですけど、産業社会経済が見事に意識編制したものです。(・・・)
商品のパワーがすごいと思うのは、そうではないことをそうであるとしてしまう力です。」