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鈴木哲也『学術書を読む』

☆mediopos-2332  2021.4.5

専門領域はほんらい
氷山の海面上の部分にすぎない
それを支えているのは
海面下の部分であるにもかかわらず
現代ではますます
海面下の部分を失っている

いわゆる「教養」とされるものが
いまでは不要とさえされるようになっているが
それが海面下の部分にほかならない
それは専門領域に棲む者にとって
「評価」につながらない
「不要」な部分だとみなされているのだろう

いわゆる人文科学と自然科学の「断絶」の原因も
互いのあいだの水面下の共通した領域である
「教養」の部分を見失っているためだ

著者のいう「わかりやすい」パラダイムも
その流れへの警鐘のひとつだ

その流れが加速したのは
バブル経済期と重なる時代からと著者は見ている
そこにあるのは効率的に情報を利用し
運用することが求められていることや
評価の基準が「数値化」へと傾斜したことがあるようだ

専門外のことを知ろうとしないのは
「むずかしい」からではない
少々のむずかしさは好奇心さえあれば問題にならない
子供だましのようなわかりやすさは
好奇心をむしろスポイルしてしまうことにさえなる

それは専門家が専門領域に閉じこもり
専門外のことにますます疎くなることであり
じぶんの評価に関係のない専門外である
「他者」の領域を意識しなくなることで
社会と乖離してしまうことでもある

社会と乖離するのはかまわないとしても
人とも世界とも乖離してくると
その学問とされるものの存在そのものが
ただの機械の部品になり
だれも氷山全体のことを
わからなくなってしまったときを考えると
危機感をおぼえざるをえない

個人的にいえば
学問や専門の世界にいたこともなく
ただ興味の赴くままに
必要に応じてジャンルフリーで
じぶんにとって必要だと思えることを
可能な限り渉猟しているだけだが
好奇心さえあれば
ひとつの領域だけに閉じこもることはありえないし
やさしいかむずかしいかなども問題ではなく
どうしても氷山全体のことが気にかからざるをえない

学問が専門領域に閉じこもることは
じぶんが人間であることを
等閑にしてしまうことでもあるだろう
(これは学者だけではなく
すべての人間についていえることだろうが)
ハイゼンベルクの言うごとく
「科学は人間によってつくられるもの」なのだから
さらにいえば学ぶのは人間のレーゾンデートルなのだ

■鈴木哲也『学術書を読む』
 (京都大学学術出版会 2020.10)

「1990年代以降、大学においてそれまで「一般教養」「教養教育」と呼ばれていたもの、すなわち専門外の学びが弱体化したとしばしば言われますが、皮肉なことに、それ以降、日本では大きな自然災害が相次ぎ、防災や復興に関わる学術研究に対して、専門を越えた取り組みが求められるようになりました。」
「私の学生時代とは違い、大学受験のずっと前の段階で進路選択が迫られ、高校での履修内容ですら文系志望と理系志望では大きく異なっている今の時代は、専門的な事柄(多くの人にとっては専門以外)についての知識は人によって大きな差が生まれ、それが肝心なときの合意形成に影響していると感じるからです。」
多くの学問領域において、教育・研究のメディアの主流となっているんは学術雑誌です。しかも、学術雑誌での発表が研究者の業績評価の主軸となっている現状では、同じ領域の専門家同士のコミュニケーションは、ますます学術誌雑誌主体にならざるを得ないでしょう。(・・・)同じ領域の専門家(同業者)向けに書かれた論文は、その分野のトレーニングを欠いた者がきちんと理解するのは難しいことです。そこで、専門を越えたコミュニケ−ションのメディアとして「二回り、三回り」外に向けて書かれた本があれば、同じ問題を全く別の観点から考えていくための有効な道具になる。「現場の哲学」という観点から言えば、学術書は市民にとっての知的な武器にもなり得ると言って良いでしょう。」

「専門外の専門書を読むことは、喫緊の社会的課題への取り組みのためばかりでなく、自らの専門自体を豊かにする上でもとても大切なことです。」
「専門に閉じこもるだけでは決して得られない楽しさが、専門外の専門書の読書には、間違いなくあるのです。」

「必ず寄せられる声が二つあります。「楽しいと言うが、学術書は難しい。なぜもっとわかりやすいものにできないのか」と、「読んでわからないときはどうしますか?」というものです。確かに、自分の専門分野ならいざしらず、専門外となれば、どれほどに知性のある方でも「難しい」と感じることはあるでしょうし、敷居が高いと思うのは当然です。」

「そもそも、「わかりやすい/わかりにくい」とは、どういうことなのか。
「要するに「わかりにくい」と言われる本は、たいていの場合、理解するにはそれなりの根気と時間と好奇心を必要とする程度のものだということです。逆に言えば、「わかりやすい」とは、基礎的な知識のない者でもほとんど何の躓きもなくすらすら読める、ということになるかと思いますが、その分、学問的な精密さや深さに欠けると言って良いでしょう。」
「ここで私が問題にしたいのは、「わかりやすい」という言葉が、読書や学びの持つ意味をむしろ損なっているのではないか、ということです。」
「「わかりやすく」という社会傾向が1970年代に始まっていたのは確かでしょうが、あたかも行動規範のように社会を覆っていったのは、それよりずっと後、いわゆるバブル経済期と重なる時代からなのかもしれません。「わかりやすさ」が社会の基底となるーーーーこれを私は「わかりやすい」パラダイムと呼んでいますーーーーのがバブル期のことであるとすれば、バブル期がその後の出版界・読書界の変化はもちろん。日本社会に何をもたらしたのかを説明できるかもしれない。」

「私は、学術書が読者の立場に立った記述の丁寧さを失ったのは、研究業績の評価の在り方が変わったことで、学術界が「他者」を意識しなくなり学術が社会と乖離したことに深く関わっていると考えています。それによって丁寧な説明が失われ学術書が「難しく」なり読者を遠ざけることで、「わかりやすい」パラダイムを推し進めたたのではないか。(・・・)ここで問題にしたいのは、「わかりやすさ」を求めることが、かえって、丁寧に説明する。丁寧に読み解くという努力を怠ることにつながりかねないということです。」
「わかりにくいことがあれば丁寧に説明する、説明に丁寧に耳を傾けるという、小学校では当たり前に指導される事柄が、なぜ、大人の世界では稀薄になってしまうのか。そして大人の世界を見て子どもが育つのならば、おそらくこの問題は、知識の伝達といった事柄のみならず、人と人の関わり方、より端的に言えば民主主義や人権といった問題にもつながると言って良いでしょう。(・・・)難しさを怖れずに、専門外の学び、専門外の読書に取り組むこちょは、「わかりやすい」パラダイムを脱却して、これからも予想される大きな社会変動に知的に対応することが求められる社会(・・・)、国の政策でも協調される」「知識基盤社会」を作っていく上でも、大切な営みだと言って良いと思うのです。」

「問題は、年間これほど多くの「読書本」が、中には通勤電車の車内広告まで行って私たちに多読・速読を強いるように見える、その社会傾向です。おそらくそこには、二つの問題があると私は考えていて、一つは、まとまった体系的な知、あるいは「現場の知」として有効な深く身体化された知というよりは。情報を効率的に利用し瞬時を乗り切っていく情報運用の技法が重視されるという社会的な流れです。そしてもう一つは、物事を総合的に評価するのではなく、細切れにデータ化して計量し「数値化できる事柄で評価する」という、計量評価文化とでも言うべき思考傾向です。」

「もともと哲学も数学も天文学も医学も渾然一体となっていた古典時代から、個別科学が独立した領域になり、今の高度な科学技術社会・知識社会に至ったように。学術が歴史の中で発展・分化するのは当然です。高度化、先端化、細分化によって、多くの市民にとって、学術研究の内容が見えにくくなっているのは、やむを得ないことではあります。しかし、専門の知が計量評価されることによって、専門家の間でさえ内容が問われなくなってしまえばどうなるのか。
 このように考えてくると、(・・・)「わかりやすい」パラダイムと今日の学術研究の評価方法が、深く関係し合っていることが見えてきます。私が(・・・)「速読・多読」という社会的圧力とその背後にある「数で計る」思考とを批判するのは、それらが、知の在り方を歪ませる評価分化と根っこのところでつながっていると思うからです。そして、その評価文化が「わかりやすい」パラダイムと一体になって、丁寧な知のコミュニケーションを妨げている。(・・・)重要なのは「数」であるとすれば、自ずと内容は問われなくなります。学術界においてそうであれば、研究内容は社会からはますます見えにくくなる。そして「わかりやすい」パラダイムが、研究内容を丁寧に説明しそれを懸命に理解しようとする努力を阻むーーーーそれが社会にとって有益でないことは明かです。」

「第一次大戦の時代は、いわゆる「スペイン風邪」が猛威を振るったときでもありました。当時の人口の4分の1にあたる5億人が感染し、死者は1700万人から5000万人、研究によってはそれ以上だったともされます。ヨーロッパ中を焼き払った戦争と人類史上最悪の感染症がもたらした災禍の中で、亡くなった人は、大戦後の方が多かったとも言います。そうした混乱の中で古典の知と出逢い、そこで抱いた問いに常に立ち返りながら現代物理学を拓き、迫害に晒されながらもナチスが支配するドイツに留まって、しかも生き抜いたハイゼンベルクはこう言います。

  科学は人間によってつくられるものであります。これはもともと自明のことですが、簡単に忘れられてしまわれがちです。このことをもう一度思いかえすならば、しばしば嘆かれるような人文科学ーー芸術と、技術ーー自然科学という二つの分野の間にある断絶を少なくすることに役立つのではないでしょうか。」

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