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小津夜景「空耳放浪記 22 あってないもの、なくてあるもの」(『すばる』)/ギャヴィン・プレイター=ピニー『「雲」の楽しみ方』/『アメリカ名詩選』/『藤原定家』

☆mediopos3632(2024.10.29.)

『すばる』で連載されている
小津夜景の「空耳放浪記」から
「あってないもの、なくてあるもの」

小津夜景は北海道の
霧の日が年間百日におよぶ
「霧の街」と呼ばれる地で生まれ育つ

町の霧は季節ごとに表情を変え
その「白い記憶」が原風景となって
それに親しみを抱いてる

しかしその原風景を振り返るときの感情は
懐かしさだけではなく
「心もとなさも同居」するという

「帰るべき情景」といっても
「それは形もなく、境もない、
ぼんやりとした白い無」であり
「思い出すたび、自分がどこにいるのか、
どこへ向かっているのかが、わからなくなってしまう」
というのである

そうした「霧」(人工霧)を使ってつくられた
「ブラー・ビルディング」という建物が
ニューヨークの建築家エリザベス・ディラーと
リカルド・スコフィディオによって
スイス・エキスポ2002の目玉として
湖面に「雲のパビリオン」として設計された例が紹介されている

ブラー・ビルディングは
「建築というものを固定された構造物としてではなく、
動的で一次的な現象として捉え直し」
「なにも見せない。あるいはただひとつ、
「なにも見えない」ということのみを見せている」

さらにいえばそれは
「存在そのものを再定義する挑戦」として
とらえることもできるという

そのブラー・ビルディングは
ギャヴィン・プレイター=ピニー
『「雲」の楽しみ方』でとりあげられているが

小津夜景のとりげている
カール・サンドバーグの「霧」というアメリカ風の俳句は
そこでも紹介されている有名な詩である

それは「物質と非物質、確実と不確実、固定と流動。
そういった境界が交錯する霧を写生」している

こんな詩だ

  霧はやってくる、
  小さな猫足で。
  そっと腰を下ろして、
  港と町を
  見渡すと、
  また静かに歩きだす。

霧のように
「あってもつかめない」のは
猫もまたおなじであるということから

小津夜景は
「猫の流動学について」という
イグ・ノーベル賞を受賞した
マーク=アントワーヌ・ファルダンの論文を紹介している

その研究は「猫がその動きのなかで物理的な境界を越え、
液体に変わることを証明したもの」で
その研究は「輪郭を曖昧にし、ときに形すら失いながらも、
確かにそこに存在している霧と猫の共通点を比喩ではなく、
真剣に自然現象として比較する時代に突入」させた
というのである

「物質と非物質、確実と不確実、固定と流動。」
境界は「あってないもの、なくてあるもの」
として現象している・・・

ここからは記事を離れるが

「あってないもの、なくてあるもの」といえば
想像=創造力こそそれであろう

藤原定家の有名な和歌がある

 見渡せば花も紅葉もなかりけり裏の苫屋の秋の夕暮れ

見渡してもそこには花も紅葉も「ない」が
むしろその存在は「ある」という以上に
そこに顕在化されて「ある」

隠されているものは隠されていることで
「ない」ものは「ない」ことで
「顕れているもの」「あるもの」よりも
強度をもって「存在」しているといえるのではないか

■小津夜景「空耳放浪記 22 あってないもの、なくてあるもの」
 (『すばる』2024年11月号)
■ギャヴィン・プレイター=ピニー(桃井緑美子訳)
 『「雲」の楽しみ方』(河出書房新社 2007/7)
■亀井俊介・川本皓嗣編『アメリカ名詩選』 (岩波文庫 1993/3)
■村尾誠一『藤原定家』(コレクション日本歌人選 11 笠間書院 2011/3)

**(小津夜景「空耳放浪記 22 あってないもの、なくてあるもの」より)

*「わたしは北海道の「霧の街」と呼ばれる地で生まれ育ったので、層雲の埋め尽くされた真っ白の空が嫌いではない。いや、嫌いではないという表現には語弊があるな。ひとかたならぬ親しみを抱いていると言い切るべきだった。なにしそそこは、霧の日が年間百日におよぶ場所。霧こそわが故郷とうそぶいても大げさではないのだ。」

「わたしが生まれ育った町の霧は季節ごとに表情が違う。冬ならば、水のほとりの蒸気霧。そのくすぶる煙幕を、まつ毛に張る霧氷をまばたきで砕きながら、じっと見ているのが面白い。で、夏になると、これまたしびれることに、灰そっくりの移動霧に包まれる。きらきらした灰をふみしめ、霧のホワイトアウトと波のホワイトノイズが重なり合う風景にたたずむと、えもいわれぬ非現実感を官能できる。秋は秋で、また趣が変わり、まだ日が昇るまえの静けさのなか、地面から放射霧が立ちのぼる。夜の名残と朝の気配が混じり合い、あたりがゆっくりと白んでいくさまは、夜明けそのものが霧から誕生するかのような風情だ。

 こうした白い記憶こそがわたしの原風景であることは、いまとなっては間違いのない事実である。ただし、それをいざ振り返るときの感情は懐かしさばかりではなく、心もとなさも同居するようだ。理由はわかっている。その原風景が「あれちょっと待って。わたしが帰るべき場所ってつまりどこなんだっけ?」という、なんとも答えづらい問いを誘発してやまない質のものだからだ。帰るべき情景といったところで、それは形もなく、境もない、ぼんやりとした白い無。思い出すたび、自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのかが、わからなくなってしまうのである。」

*「雲を愛する精神を広く同志と分かち合うために「雲を愛でる会」(The Cloud Appreciation Society)という団体を設立したギャヴィン・プレイター=ピニー。その著書『「雲」の楽しみ方』(桃井緑美子訳、河出書房新社)に、ある印象的な建物の話が出て来る。その名も「ブラー・ビルディング」。ニューヨークの建築家エリザベス・ディラーとリカルド・スコフィディオが、スイス・エキスポ2002の目玉として湖面に設計した建物で、なんと建材は水。それを濾過して、三万個以上の高圧ミストノズルから人工霧を噴出させると、建物らしき霧の空間が出現するという構造物である。つまり、その名の通り「ぼやけた建物」ってことだ。しかもこの建物にはスマート気象システムが搭載されており、温度や湿度、風の強さや方向に応じて水圧を調節し、常に環境に応じた建物を形成するのだ。プレイター=ピニーはこれを「雲のパビリオン」として紹介していた。

 万博といえば、最先端の技術や目を見張るような展示が目白押しだろうに、ブラー・ビルディングはその逆。なにも見せない。あるいはただひとつ、「なにも見えない」ということのみを見せている。建築というものを固定された構造物としてではなく、動的で一次的な現象として捉え直しているのだ。あるいはもっとさかのぼって、存在そのものを再定義する挑戦であると捉えることも可能だろう。」

*「物質と非物質、確実と不確実、固定と流動。そういった境界が交錯する霧を写生した、こんなアメリカ風俳句あがある。

  霧

  霧はやってくる、
  小さな猫足で。
  そっと腰を下ろして、
  港と町を
  見渡すと、
  また静かに歩きだす。

  (亀井俊介・川本皓嗣編『アメリカ名詩選』所収 岩波文庫)

 一九一六年刊行の第一作品『シカゴ詩集』に収められた一篇である。Norman Corman“The World of the Carl Sandburg”によれば、サンドバーグはこの時期、ポケットに日本の発句集を忍ばせていたという。ある日も発句集を手に、少年裁判所の裁判官との面接に向かう途中、グランド・パークを抜けてシカゴ港を見たら、霧がかかっていた。それまで幾度も見てきたサンドバーグだったが、その日は特別だった。裁判官を四十分を待たねばならず、ふと気まぐれにアメリカ風の俳句を作ってみようかと思い立ったとのことである。」

*「霧はあってもつかめない。猫もまたしかり。見えているけどどこかミステリアスで、なんともつかみどころがない。そんな印象を、サンドバーグが自由に、形式なんぞお構いなしで、素朴な片言で綴った詩が当時どれほど新鮮に響いたかた想像に難くない。

 ちなみに近年では、マーク=アントワーヌ・ファルダンの論文「猫の流動学について」がイグ・ノーベル賞を受賞したおかげで、霧と猫との関係がより深みを増している。ファルダンの研究は、猫がその動きのなかで物理的な境界を越え、液体に変わることを証明したもの。これによって、とうとう人類は、輪郭を曖昧にし、ときに形すら失いながらも、確かにそこに存在している霧と猫の共通点を比喩ではなく、真剣に自然現象として比較する時代に突入したというわけだ。」

**(ギャヴィン・プレイター=ピニー『「雲」の楽しみ方』
   〜「第3章 層雲————低くたれこめた幽玄の世界「霧雲」」より)

*「子供のころのわたしは、朝起きて窓の外が神秘的な霧のベールで覆われているとうっとりした。嵐も突風もこの変身を告げにこない。アメリカの詩人カール・サンドバーグがうたったように、霧は前触れもなく「小さな猫の足つきで」そっと訪れる。

  霧はしずかに腰をおろして
  港と町を見わたすと
  おもむろに動きだす

 霧がすべてをやさしく包み、景色を一変させるのがわたしは好きだった。
 わが家の猫のペプシが、ぼんやり霞んだ庭の向こうからゆっくりと近づいてくる。ペプシが小径を歩いてきた気配がするなと思っていると、いきなり姿が現れる。霧のなかでは音が変わるのも好きだった。どこからともなく聞こえてくる声は、遠くから届くようであり、すぐ近くで囁いているようでもある。層雲がなかったら、朝霧のベールの魔法を知ることもなかっただろう。」

*「霧のなかを歩く感覚は、スイスで開催された全国博覧会(スイス・エキスポ2002)の呼び物となった建築物の設計上のヒントになった。イヴェルドンに近いヌシャテル湖に掛けられた一二〇メートルの橋を渡ってその建物に近づいていくと、目に入るにはただ湖面に漂う大きな霧だけだ。「雲のパビリオン(ブラー・ビルディング)」はニューヨークの建築家エリザベス・ディーラーとリカルド・スコフィディオの設計によるもので、形もなければ面も奥行きもない。壁とか屋根といえるものがないのだ。雲のの建物である。クラウドウォッチャーとしては当然だが、もっと専門的にいっておくと、層雲で外郭を形づくったパビリオンなのだ。

 ディーラーとスコフィディオは、一九九九年にこのパビリオンの設計コンペで優勝した。二人の建築案は、ヌシャテル湖の湖面に金属製の骨組みを吊ってそこに細いノズルを隠すというものだ。湖の水をポンプで汲みあげて濾過し、それを噴射したしぶきで建物を形づくる。」

**(『アメリカ名詩選』 〜「カール・サンドバーグ「霧」」より)

*「Fog

  The fog comes
on little cat feet.
It sits looking
over haobor and city
on silent haunches
and then moves on.

  霧

  霧はやってくる、
  小さな猫足で。
  そっと腰を下ろして、
  港と町を
  見渡すと、
  また静かに歩きだす。」

◎ブラー・ビルディング
飲める建物? 水で作ったパビリオン


◎「猫は液体か?」 イグ・ノーベル賞で話題になった「猫は粘度の高い液体」説。


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