『談 2022 no.124/特集 声のポリフォニー…グルーヴ・ラップ・ダイアローグ』
☆mediopos2796 2022.7.14
存在論と認識論は
両者の成り立つ場において
プロセスとしての一元論として
とらえられる必要がある
「私」はじぶんの外にある対象世界に対する主観ではなく
「〈主体〉も〈対象〉も
それじたいさまざまな生成の過程」だからだ
ホワイトヘッドが「自然の二重分岐」と呼ぶ
「意識において感知される自然と意識の原因である自然」の
絶対的な対立が乗り越えられねばならない
ライプニッツに「モナド」という概念があるが
それは仏教における摩尼宝珠のように
互いが互いを照らし合う存在であり
さらにいえば「窓のない」モナドではなく
「相互に開かれ相互に結びつき、
自らのうちに過去と未来を含みながら、
その原始的個体性を実現する時空的統一体」である
「主体も対象もそれ自体さまざまな生成プロセス」であり
そのプロセスにおいて響き合っているということができる
その意味で音楽をとらえるとき
「私が音楽を経験するとき、
私は音楽に憑依していると共に、
音楽も私に憑依している」といえ
「「音象徴」は「音(=聴覚)」と「意味」という
「感覚間のつながり」として解釈でき」
また「バフチンのダイアローグ論の逆説」のように
「対話の不可能性に可能性を見る」ことで
「ダイアローグを通して新たな意味を創出する」
という視点が得られる
以上ざっと今回の『談』の特集のポイントをさらってみたが
やはりその基本となるのは
主体と対象の関係を相容れないものとしてとらえるのではなく
両者とも「生成プロセス」として
ホワイトヘッドの示唆する「活動的存在 actual entity」として
すべてが響き合っているとしてとらえるという視点である
それを開かれたモナドであるといってもいい
私が私であることも
あなたがあなたであることと
響き合ってはじめてプロセスとして成立する
私がそれを見るということも
私とそれが響き合ってはじめて
プロセスとして成立するということだ
まさに実在は過程そのものであり
認識することも存在することも
すべては過程そのものとして生成している
■『談 2022 no.124/特集 声のポリフォニー…グルーヴ・ラップ・ダイアローグ ムック』
(水曜社 2022/7)
(佐藤真「モノ・人が響き合う世界」より)
「ヨーロッパ近代の思想の核心に人間中心主義が君臨していたことは言うまでもないことです。その人間中心主義に疑問を投げかけた哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの哲学を見直す試みが始まっています。思弁的実在論のスティーヴン・シャヴィロもその一人ですが、シャヴィロは、とくに思弁的実在論との思想的連動性に注目します。思弁的実在論や新しい実在論、オブジェクト志向存在論と呼ばれる新しい哲学の潮流と関連付けることで、哲学・思想における現代性を炙り出そうというのがシャヴィロの戦略のようです。
ホワイトヘッドの基本的な目的は、「自然の二重分岐(bifurcation of nature)」と呼ぶもの、言い換えれば「意識において感知される自然と意識の原因である自然」の絶対的な対立を乗り越えることにありました。シャヴィロはホワイトヘッドの著書『自然という概念』を引用しつつ次のように言います。
「一方でぼくらの前には世界のフェノメナルなあらわれがある。つまり、〈樹々の緑、鳥たちのさえずり、太陽の暖かみ、椅子の硬さ、ヴェルヴェットの肌触り〉といったように。他方、ぼくらには隠された物理的現実があって、たとえば、〈現れとしての自然の意識を生み出せるように心に作用する分子や電子の結びつきのシステム〉がある。近代思想の多くはこの分岐にもとづいていて、一次性質と二次性質〔ロックとデカルト〕、ヌーメナ(叡智界)とフェノメナ(現象界)〔カント〕、顕在イメージと科学イメージ〔ウィルフリード・セラーズ〕など二つの間のいろいろな対立のかたちをとっているが、どれも同じ分岐である」と。現象学、より一般的には大陸系の哲学が、この分岐の一方に位置していて、他方には、より科学的で還元主義的なかたちの分析的思考が控えています。ところが、ホワイトヘッドは、この分岐を、まとめて手放そうとするのです。
「われわれはどちらかをとって、選ぶことはしない。(・・・)〈赤く盛る夕日〉や地表すれすれで屈折する陽炎の〈分子や電磁波〉がどちらも同等の存在論的地位をもっている」。それゆえ、そういう世界であることを説明する必要があるとホワイトヘッドは言います。ホワイトヘッドによれば、世界はさまざまな過程(プロセス)によって構成されていて、単なるモノから成り立っているわけではない。何ものも前もって与えられることはなく。すべてはまずそれがある通りのものにならなければならない。「いかにして活動的存在 actual entity は生成するかということが、その活動敵存在が何であるかを構成している(・・・)その〈存在〉は、その〈生成〉によって構成されている」というわけです。
まず、このように理解してみようとホワイトヘッドは問いかけます。そうすると、プロセスは、自然の分岐の両方の側面をまたいでいることがわかるというのです。つまり、プロセスとは私が理解する当のものにも、私が理解するやり方にも等しく適用されるということです。
「私は、自分の外にある対象世界に相対する(あるいは現象学者たちが言うように〈志向する〉)主観ではない。なぜなら〈主体〉も〈対象〉もそれじたいさまざまな生成の過程なのであって、あらゆる活動的存在は、等しく対象でありまた主体でもある」からです。主観というかたちで取り出すそのことに問題がある。とホワイトヘッドは言うのです。」
「デカルト以来、とりわけカント以来のほとんどの西欧哲学は、認識の諸問題を中心にしているために「自然の二重分岐」をよりいっそう強めてきたといえます。「それは存在論(あるところのものの問いをじかに提起する)を犠牲にして認識論(ぼくたちが知るものをぼくたちがいかにして知りうるかを問う)を特別扱いして、「デカルト主義のコギトやカント主義の超越論的演繹、現象学のエポケー(判断停止)のどれも、世界についての私たちの知識に世界を依存させている。これらの全てが知られるものをぼくらが知るさいのやり方に従属させている」という。しかし、ホワイトヘッドは、これとまったく反対のことを主張します。「経験されるモノたちは、それらについての私たちの知識から区別されてしかるべきである。この依存関係があるかぎりにおいて、事物(モノたち)が認識に道を開くのであって、その逆ではない。(・・・)経験される現勢的=活動的なモノたちは、それじたいが知識を含みながらも、知識を超越する共通世界に参入する」。つまり、「いかにしてぼくらが知るのかという問いが最初に来る。なぜなら、ぼくらが知るやりかたそれじたいが、どのようにモノたちが存在しており、何をなしているかということの帰結であり産物であるからである」。その逆ではないというのです。
「認識論を特別あつかいするのをやめなければならない」し、「特権を取り去らなければならない。なぜなら、ぼくらはモノたちそのものを、モノについてのぼくらの経験に従属させることはできないから」だというのです。この文脈のポイントは、経験をどう捉えるかにあると思われます。端的に言えば、経験されるものと経験それ自体に、主従関係はないということです。
この考えは、ホワイトヘッドの主要概念であるプロセスにあてはめると理解しやすい。「プロセスは、その対極にある事物を実体と考える立場、言い換えれば、事物の究極の姿を根元粒子的に設定し、認識を事象の分解という操作において特徴づけようとする考え方に、異議申し立てをする、という形で提示された」というのです。もとより、この概念はホワイトヘッドだけのものではなく、ベルクソンやジェームズの哲学、ヘラクレイトスや東洋思想などにおいても見受けられるものです。
「経験世界の構成要素は、それぞれ独立の原始的単位などではなく、相互に浸透しあうような不可分の流動のうちに認められねばならない。存在とは、絶え間のない持続的な創造的発展なのであって、数量的な処理の可能な根源粒子という概念は、人知のもたらした抽象に過ぎない」。
けれども、ホワイトヘッドは自然科学が前提にしている原子論的立場をやみくもに否定したわけではありません。というのも『過程と実在』において全面的に展開された actual entity という概念を吟味してみるとよくわかるという。 actual entity は「ライプニッツのモナドのようにミクロの世界でありながら、同時にマクロの世界を自らのうちに映し、自らにおいて実現するものと規定されているが、一方窓のないモナドとは異なって、相互に開かれ相互に結びつき、自らのうちに過去と未来を含みながら、その原始的個体性を実現する時空的統一体ということになってい」ます。
actual entity は経験的主体としてモノ(無機物)から神にいたるまですべての存在者に適用される一元論的な概念です。そして、絶えざる流動にあって、同時に自らを限定する限定者として次々に自らを更新していく。その時に、原始的個体性を実現する時空統一体として、不変性や粒子性をアピールするという。」
「われわれは、自らの外にある対象世界に相対する主観(主体)ではありません。主体も対象もそれ自体さまざまな生成プロセスであって、あらゆる活動的存在は、 actual entity あるいはプロセスのなかにあっては、等しく対象であり、また主体です。その actual entity の響き合いこそ、われわれであり、われわれが生きる世界です。
そこで今年度は、世界の響き合いという視点から、私、身体、モノの関係を問い直します。」
(山田陽一「〈声のきめ〉を聴く…グルーヴのなかへ」より)
「私が音楽を経験するとき、私と音楽は互いを所有しあっています。つまり、私が音楽に棲みつき、音楽を所有するとき、音楽も私に棲みつき、私を所有しているのです。この、相手の中に棲みついて、その相手を所有するというのは、まさに相手に憑依することを意味していますから、この「所有」は、言葉の本来の意味において「憑依」と言い換えることができます。つまり、私が音楽を経験するとき、私は音楽に憑依していると共に、音楽も私に憑依しているのです。」
(川原繁人「声に出すことば…言語と意味を超えて」より)
「「音声学」の枠を超えて、認知科学の立場から捉え直すと、「音象徴」は「音(=聴覚)」と「意味」という「感覚間のつながり」として解釈できます。このような「感覚間のつながり」に着目するという流れのなかで、過去から存在していたけれども研究対象にならなかった「音象徴」という現象について、「音声を考えるうえで重要な意味をもつのではないか」というふうに考えられるようになってきたということだと思います。」
(田島充士「「わかったつもり」から異質な他者との声が響き合う「対話」の地平へ」より)
「他者との絶望的なまでのわかりあえなさとは、人々が既存の世界に一方的に飲み込まれることなく、ダイアローグを通して新たな意味を創出する原理であり、世界の革新性へのかけがえのない希望を示すものだ。「対話の不可能性に可能性を見る」というバフチンのダイアローグ論の逆説は、永遠に融合し得ないからこそ、常に/すでに、ダイアローグを通した更新可能性を担保しているのである。」