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石井ゆかり「星占い的思考 55 模倣される感情」(群像)/閻連科『心経』/村澤真保呂・ 村澤和多里『中井久夫との対話』

☆mediopos3584(2024.9.11)

閻連科『心経』は
その内容から中国本土では出版できず
最初に日本で出版されることになった小説

仏教・道教・イスラム教・プロテスタント・カトリック
という五大宗教のプライドをかけた
思想と健康増進のための「綱引き」が行われ
それを背景に18歳の尼僧・雅慧と
23歳の道士・顧明生の禁じられた愛が
神と神・人と人・神と人との葛藤として描かれている・・・
というそれだけ聞けばよくわからないような小説だが

著者は「日本の読者のみなさんへ」のなかでこう語っている

「『心経』は私の創作歴の中で、きわめて特殊な作品です。
書かずにはいられず、言葉があふれ出たのでした。
読者はほんの数人しかいないとしても、
この作品は私の心の奥底で、絶えず光を放つことでしょう。」

さて『群像』で連載されている
石井ゆかり「星占い的思考」
一〇月号のテーマは「模倣される感情」は

その閻連科『心経』からの引用ではじまる

『心経』では宗教間の「綱引き」が行われるが
宗教を背景とした個々人の「感情」は
それぞれそのありようが異なっている

中国では儒教を背景に
「家族、社会、といった複数の人間同士の支え合い、
関わり合いにおいて人間は完全でありうる」
という家族的な感情を背景にした感情があり

欧米ではキリスト教を背景に
「神」への信仰を背景にした個人的な感情がある

そうした「感情」はどのようにして生まれるのだろう

石井ゆかりはこの連載のなかで
「感情は模倣である」
「感情は幼い頃の模倣によって形成される」
と示唆している

「愛や感情は個人の、ユニークなものだと
考えられがちだが、多分そうではない。
親が子を愛する愛、夫が妻を愛する愛、
その社会的元型、イデアのようなものがあり、
それを模倣して愛し、思いやり、活きていく。
感情も模倣である。モデルがなければ、感情は消える。
たとえば昨今「恋愛感情が薄れつつある」と言われるが、
一昔前は「情死」が珍しくなかった。」

「感情」はそれが育っていく環境によって
さまざまな姿をとっていく

そのことで思い出したのは
精神科医の中井久夫の言葉である

「人間はね、赤ん坊から
「喜怒哀楽」の順番に覚えていくんだけれど、
年をとったり精神を病んだりすると
「楽」から順番に感情を失っていくものなんだ」

「「喜怒哀」を全部受け入れて、
その先にあるのが「楽」というわけさ。」・・・

「喜怒哀楽」で表現されたりもする人の感情は
実際には無数の感情の種がそこにあるのだが
その感情を育てていくことができないと
ほとんどが「喜怒」という
「快」「不快」あるいは「好き」「嫌い」
という振り子運動に終始する

逆に感情の種をたしかに育てていくことができれば
「楽」を超えた深い感情さえ得ることができ
「思考」や「意志」とも共振しながら
さらにそれらのあいだの無数の感情が
自分のなかで息づいているのを感じることもできる

しかしそのように「感情」を育てていくのは
「思考」を育てていくよりもずいぶんと難しい

「悟性」的な「思考」を育てるのはまだ容易だが
それを意識魂的な方向へと育てるためには
「感情」が反省的な仕方で
そこに働いていかなければならないからだ

さて石井ゆかりは
「家族システムの解体とともに
感情の模倣のシステムも失われるとすれば、
人々は未来に、どんな感情を模倣するのだろう」
と危惧?しているが

果たして「感情」の未来はどうなっていくのだろう

それはともかくとして
少しばかり気になるのは
「9月5日、火星が蟹座に入宮し」
「2025年4月半ばまで」長期滞在することだ

「火星と蟹座の組み合わせはたとえば、
先鋭的なナショナリズムを連想させる。
怒りも模倣によって、野火のように
同時代の人々の心に燃え移る」

「仲間内、国の中、心の中。内側で増幅し、
失われた出口を求めて、爆発」
「怒りが醸成されていく」という

「怒り」が過剰に作用するとき
「哀」も「楽」も働くことが難しくなる

時代が激しく動いているときには
「喜怒」ばかりが力をもち
「哀楽」などの感情は損なわれがちである

そんなときにこそ
みずからの「感情」を育てることを
決して怠ってはならないと強く思う

■石井ゆかり「星占い的思考 55 模倣される感情」
 (群像2024年一〇月号)
■閻連科(飯塚容訳)『心経』(河出書房新社 2021/7)
■村澤真保呂・ 村澤和多里『中井久夫との対話 生命、こころ、世界』
 (河出書房新社 2018/8)

**(石井ゆかり「星占い的思考 55 模倣される感情」より)

*「〝何かうれしいことがあったのだろう。いつもの無邪気さと相まって、母親におめでたを報告しようとしている娘のように見えた。〟
 (閻連科作 飯塚容訳『心経』河出書房新社)

 18歳の尼僧・雅慧と23歳の道士・顧明生は恋に落ちるが、仏教、道教にはそれぞれに淫欲を禁じる戒律がある。彼らが所属する宗教研修センターには仏教、道教の他にイスラム教、プロテスタント、カトリックの信徒達が学んでおり、とある思想と健康増進のために、各宗教が互いに競い合う綱引きが行われていた——かなり荒唐無稽な設定のようだが、解説によれば中国の宗教の現状に照らすと、あながちそうともいえないらしい。現代の中国に遠藤周作の『沈黙』の命題をおろすとこんな感じなのか、とも思えた(解説でも『沈黙』に触れられていた)。祈っているその相手が直接には「決して応えてくれない」という絶望的事実は、信じた心を残酷に抉る。私は宗教的な悩みを抱いたことはないが、なぜか、本作がとても好きだ。」

*「現代の中国の小説をたくさん読んだわけではないが、私にとって、妙に面白く思える表現がある。それは引用部のような、家族の関係からとった比喩表現だ。「黄(ホアン)准教授は四十一、二歳で、容姿も学識もすぐれている。キリストに関する理解は、父親が息子を知るのと同様に深い」「たまたま留まっている数台の車は、墓場にしゃがんでいる孤児のようだった」などもある。前者の比喩は、神のように学識が深い、というダブルミーニング的な表現なのかもしれない。後者の比喩は、主人公の二人が孤児であることに重なるのかもしれない」。いずれにせよ、家族の風景を全体としている。

「キリスト教的な考え方によれば、人間は人間自体によっては完全ではあり得ない、神を信頼することによってのみ人間は救われるとする。(中略)ところが中国の人人の考え方はそうではないのでありまして、人間は人間の力のみで完全であり得る、少なくとも完全であり得るという、人間に対する強い信頼があります」(吉川幸次郎著『中国詩史』ちくま学芸文庫)。これは、人間がひとりぼっちで完全である、という意味ではない。「人は常に人人としてある。常に複数の人間としてある」(同書)。家族、社会、といった複数の人間同士の支え合い、関わり合いにおいて人間は完全でありうる、という考え方なのだ。儒教は家族を重視する。人と人との関わりを言う。たとえば『活きる』(余華著 飯塚容訳 中公文庫)は、一人の老人の個人史、個人の愛の歴史を語るが、ちっとも「個人的」でない。その愛は普遍的で、家族愛のイデアのようである。神話のようである。愛や感情は個人の、ユニークなものだと考えられがちだが、多分そうではない。親が子を愛する愛、夫が妻を愛する愛、その社会的元型、イデアのようなものがあり、それを模倣して愛し、思いやり、活きていく。感情も模倣である。モデルがなければ、感情は消える。たとえば昨今「恋愛感情が薄れつつある」と言われるが、一昔前は「情死」が珍しくなかった。」

*「9月5日、火星が蟹座に入宮した。ここから2025年4月半ばまで、2ヶ月間の獅子座入りをはさんで長期滞在する。蟹座は記憶の星座であり、感情の星座、模倣の星座でもある。感情は幼い頃の模倣によって形成される。そう考えると誠に辻褄が合う。しかし昨今、「家族・家庭」の意義は大きく変わった。家族は無条件にいいものではないし、一人暮らしの人はどんどん増えている。「毒親」「親ガチャ」などの言い方もある。家族システムの解体とともに感情の模倣のシステムも失われるとすれば、人々は未来に、どんな感情を模倣するのだろう。

 火星と蟹座の組み合わせはたとえば、先鋭的なナショナリズムを連想させる。怒りも模倣によって、野火のように同時代の人々の心に燃え移る。しかし蟹座は「甲羅」の世界で、その燃え移る範囲はあくまで「内側」に限定される。仲間内、国の中、心の中。内側で増幅し、失われた出口を求めて、爆発する。たとえば「エコチェンバー」のような仕組みで、怒りが醸成されていく。それぞれが甲羅の中に怒りや闘争心を燃え上がらせながら対峙するとすれば、どうなるか。蟹座の神話は、蛮勇の神話である。ヒュドラを守ろうとヘラクレスに立ち向かい。ひと息で踏みつぶされた大蟹の悲劇である。」

**(「村澤真保呂・ 村澤和多里『中井久夫との対話』より)

*「人間はね、赤ん坊から「喜怒哀楽」の順番に覚えていくんだけれど、年をとったり精神を病んだりすると「楽」から順番に感情を失っていくものなんだ。満足すると「喜」、満足できないと「怒」、それが続くと「哀」。でも「楽」っていうのはその三つを超えた感情だね。ゲームに勝つと喜び、負けると怒る。そして負けつづけると哀しい。それでも「もう一度」ってゲームを続けようと思うのが、楽しむってことだな。つまり、「喜怒哀」を全部受け入れて、その先にあるのが「楽」というわけさ。」

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