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藤原 辰史『歴史の屑拾い』

☆mediopos2905  2022.10.31

歴史も
歴史語りも
ほとんどが
「大きくて単純な物語」であり
しかもほとんどが勝者と生者のそれである

そして歴史とはそうした物語だと教えられ
そこからこぼれおちた断片の生は
敗者や死者も含めほとんどが捨象される

歴史とされているものや
歴史語りに違和感を覚えることが多いのは
そんな捨象されてしまったものの多くが
あまりにも見えなくなってしまうからだ

ベンヤミンは『パサージュ論』で
「ボロ、くず————それらの目録を作るのではなく、
ただ唯一可能なやり方で
それらに正当な位置を与えたい」という

ベンヤミンはその「ボロ、くず」への視線を
ボードレールの詩から影響を受けているそうだが
「屑屋」はぎくしゃくと歩き
「いつも立ち止まって屑を拾い、
それを背負い籠に投げ込まなくてはならない」

藤原辰史は本書『歴史の屑拾い』で
「屑拾い」のように「目線を下に向け、屑を探」し
「屑を背中の籠に投げ入れる」
そんな「身振り」で歴史を語ろうとする

そこで拾われた「屑から」は
大きな物語には回収されることのない
「歴史に生きた人びとの具体性を、
しかもその人びとにとっては
人生そのものを意味するようなこと」が
歴史として語られることになる

重要なのはそんな「屑拾い」のような「身振り」である

「考えるべきことを省略、縮減して、
論理の筋道をシンプルかつ明確にする、
という作業」は欠かすことはできないが
そこから「メインストリームからこぼれ落ちた
人や物や出来事を拾い集める「屑拾い」」の「身振り」が
捨象されてしまったとき
その論理からは大切なものが抜け落ちてしまう

歴史語りもそうだが
科学的なデータを処理する場合でも
データのなかにある「屑」が
ノイズであり意味のないものとして
捨象されてしまったとき
その科学からもまた
なにかが抜け落ちてしまうことにもなる

上ばかり見ていると
足下が見えなくなり
そこに大切なものがあることや
穴ボコのような危険があることにさえ
気づけなくなってしまわないか

■藤原 辰史『歴史の屑拾い』
 (講談社 2022/10)

「大きくて単純な物語が放つ魅力は抗しがたいものがあります。しかし、それと引き換えに、歴史に生きた人びとの具体性を、しかもその人びとにとっては人生そのものを意味するようなことを、見過ごしがちです。そんな大きな物語が、場合によってはその時代の為政者に利用されたことも注意しなければなりません。
 もちろん、考えるべきことを省略、縮減して、論理の筋道をシンプルかつ明確にする、という作業は、思考を続ける以上、手放してはならないことです。しかしながら、その態度と、論理の筋道に乗りにくい事象と出会い驚きつつ関わる、という態度は、簡単には融合しにくいとはいえ、決して矛盾するわけでもないと考えます。メインストリームからこぼれ落ちた人や物や出来事を拾い集める「屑拾い」として、歴史学の営みを取り上げたかったのは、自分が歴史を拾い集める中でいつも悩んだり、もがいたりしていることの意味を客観的にとらえてみたかったから、という個人的な目的もありました。
 たとえば、現代の国際社会に目をやると、「われわれ西側諸国が守ってきた民主主義に対するロシアや中国の挑戦というような、特定の歴史認識に基づいた大きな物語がしばしば政治家の口から出て来ますが、「西側」と「ロシア」の対立という構図から漏れ出る歴史や事象はとても多い。たとえば、現在のウクライナから(あるいは、ウクライナを通って)逃げてきたロマや中東の難民はウクライナ人ではないということで難民扱いされないという問題は、勧善懲悪論の物語から大きく外れるだけでなく、その物語自体に一石を投じます。これらと正直に向き合う屑拾いの身振りが求められているのだと感じます。」

「ファシズムの時代に生きた思想家ヴァルター・ベンヤミンは、草稿の寄せ集めである『パサージュ論』のなかで、自分のなすべき仕事についてこう述べている。

この仕事の方法は文学的モンタージュである。私のほうから語ることはなにもない。ただ見せるだけだ。価値のあるものを抜き取ることはいっさいしないし、気のきいた表現を手に入れて自分のものにすることもしない。だが、ボロ、くず————それらの目録を作るのではなく、ただ唯一可能なやり方でそれらに正当な位置を与えたいのだ。つまり、そのやり方とはそれらを用いることなのだ。

私に「歴史の屑拾い」というテーマで何かを書かせようとしたのは、まずこの一節である。が、それだけではない。よく知られているように、ベンヤミンにボロや屑への関心をもたせたのは一九世紀フランスの詩人、シャルル・ボードレールであり、特に「屑拾いの酒」である。

屑拾いがやって来るのが見られる 首をふり
  よろめき 壁にぶつかるその姿は まるで詩人のよう(宇佐美斉訳)

この屑拾いの描写を意識しながら、ベンヤミンは『パサージュ論』でこう注釈めいたコメントを遺している。「屑屋のぎくしゃくとした歩き方は、必ずしもアルコールの影響によるわけではない。なぜなら、彼はいつも立ち止まって屑を拾い、それを背負い籠に投げ込まなくてはならないからだ」。
 ボードレールの詩を媒介にしてベンヤミンが考えたことは、おそらく、屑拾いが、歴史叙述の対象としてばかりではなく、歴史叙述のモデルとしても魅力的であるということだろう。」

「よく指摘されるように、歴史は、危機の時代の勝者や生存者によってしか描かれてこなかった。危機の時代の敗者や死者は、歴史を語る口を封じられる。しかし、戦争の勝者しか歴史を書けない、という通俗的な見解と私の見解は異なる。多くの場合、打ち捨てられた人間は、歴史の泥沼に沈む。そこには、未遂の試みも分断されたまま深く沈んでいて、その中から再利用可能なものを探すのはおろか、「正当な位置」を与えることも困難である。
 ベンヤミンによれば、歴史学という学問ではこの試みは難しい。なぜなら、「歴史学の構成は軍隊の秩序になぞらえられる。つまりそこでは真の生が苛まれ兵舎に入れられる」からだ。歴史学は「一切を抽象化してしまう『感情移入』を要求する」。つまり、史的収集によって、歴史の泥沼に落とされた断片を一つ一つ拾い上げ、目録をつくることはできるが、それらを軍隊的な秩序のもと、大きな構成の部分に埋め直して、断片の生を窒息させてしまう、というわけだ。」

「大事なのは身振りだ。屑拾いは、目線を下に向け、屑を探す。屑を背中の籠に投げ入れる。だから、いちいち立ち止まる。目線を下に向けたまま前に進むことは難しい。目線が下では先を見通せない。(・・・)だが、捨てられたものをじっと観察する屑拾いは、下を向いて歩くことで、誰も到達できないあることに通暁する。屑の性質を見極めることで、再生可能なものが出やすい場所を熟知していく。それは、捨てる人間の性質も知っていなければ、できる芸当ではあい。さらに腕のいい屑拾いは、パリの人びとの卑しさと善良さを、そして、季節ごとの物と人の流れと性質をどんなパリ市民よりも知っている。そんな、地べたに捨てられたものの知からぎくしゃくした身振りで歴史を組み立て直すことを、私はこの書物でやってみたいと思う。」

【目次】
プロローグ ぎくしゃくした身振りで
1章 パンデミックの落としもの
2章 戦争体験の現在形
3章 大学生の歴史学
4章 一次史料の呪縛
5章 非人間の歴史学
6章 事件の背景
7章 歴史と文学
エピローグ 偶発を待ち受ける

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