德井いつこ「驚くべきもの、ただそこにあるだけ。」(ユリイカ 2024年9月号 特集=石)
☆mediopos3574(2024.9.1)
『ユリイカ』 2024年9月号で
「石」の特集が組まれている
そのなかから
mediopos3504(2024.6.21)でとりあげた
『夢みる石 石と人のふしぎな物語』の著者のエッセイ
德井いつこ「驚くべきもの、ただそこにあるだけ。」から
『夢みる石』は二七年前に出版された
『ミステリーストーン』の新装復刊だが
こうして『ユリイカ』が石の特集をするように
「四半世紀が経過し、
石をめぐる光景はすっかり変化した」という
ぼくも子どもの頃から石好きで
小学校の低学年の頃
科学雑誌の付録についていた鉱物標本を目にして以来
河原でいろんな石を拾い集めたり
鉱山跡などの山に分け入って石ころを探したり
工事現場に転がっている晶洞鉱物を探したりしていた
大人になってからも石への興味は続いているが
(いわゆる宝石にはあまり興味がないけれど)
たしかに四半世紀前頃でもまだ
「石をめぐる光景」は一般的には冷やかなものだった
しかしこうして『ユリイカ』が特集を組むまでになったのだ
(とはいえ反面ポピュラーになってくるとどこか興ざめだが)
さてエッセイは詩人のシンボルスカの
「石との対話」の話からはじまる
シンボルスカについては
mediopos2825(2022.8.12)でもとりあげたことがあるが
この詩では
石の扉を叩いて「入れてください」と言っても
石は頑なに拒むばかりだという
石は「ただ目の前にある、それだけなのだ。」
しかしこのエッセイを読み終えたとき
頑なな石のイメージは少しばかり変わってくる
最後にとりあげられている
アニー・ディラード『石に話すことを教える』では
石は「ポーカーフェイス」で
「人間に関心のないそぶりをして、
そのじつ呼びかけている」としている
頑固一徹でとりつく島のないような寡黙な爺さんが
ほんとうは別の顔を隠し持っているように・・・
このふたつの話のあいだに
石についての本などが紹介され
著者自身のインディアンに関連した著書からの
興味深い話も挿入されている
カイヨワ『石が書く』では
石との出会いは「通告」であるという
その出会いによって
ひとは「宇宙という織物にふれ」
「世界という巨大な迷路の存在」をありありと感じるのである
バード・ベイラーの絵本『すべてのひとに石がひつよう』では
「友だちの石、特別な石、いつまでも大切にできる石を、
どうやって見つけるか?」には「一〇のルール」があるが
最後のルールは「誰にも相談などしない」ことだという
じぶんだけの秘密にしておくということだろう
魂の奥にしまっておく大切な宝物として・・・
ムナーリ『遠くから見たら島だった』では
「石ころだらけの場所ですごくヴァカンスほど、
楽しいものはない」という
エッセイの最後が上記の
アニー・ディラード『石に話すことを教える』で
「子どものころ、ひとり暮らしの老人が死ぬまでに残したという
石のコレクションをそっくりゆずり受けた」話である
本の紹介ではないが
ジョージア・オキーフとマックス・エルンストが
砂漠に惹かれ石に魅せられる話も紹介されている
そうした話題のあいだに
著者がカリフォルニアに暮らしていたころの旅の話が語られる
著者は毎月のように旅をしていたが「行き先は、
アリゾナ、ニューメキシコ、ユタ、コロラドの四州と、
それらが接する「フォー・コーナーズ」と呼ばれるエリア」で
ひとは「middle of nowhere(何もない場所)」と呼ぶ
「砂漠、遺跡、居留地」だが
そこは「石の王国だった」のである
また著者はインディアンの人々を訪ね
「プエブロの土器づくりを取材」している
ホピの土器づくりの女性は「土器を成形しているとき、
たまに粘土が話しかけてくる」というが
「あるいは石の声も聴いていたかもしれない」と想像を広げている
石は「ただそこにあるだけ。」だが
だからこそ石にはひとのさまざまな思いが込められ
「驚くべきもの」ともなるのだろう
ちなみに家の中が石だらけになることから
ある時期から石拾いの習慣を止めているが
(学生の頃は石だらけになった押し入れの底が抜ける・・・と
知らない間に捨てられてしまった経験があったりもする)
それでも「石」に出会うとその魅力(魔力)に惹かれてしまう
■德井いつこ「驚くべきもの、ただそこにあるだけ。」
(ユリイカ 2024年9月号 特集=石 ―寡黙の極にある美―)
■『シンボルスカ詩集』 (つかだみちこ編・訳 世界現代詩文庫29 土曜美術社出版販売 (1999/12) 文庫 –
■ロジェ・カイヨワ(菅谷暁訳)『石が書く』(創元社 2022/8)
■バード・ベイラー (イラスト:ピーター・パーナル/北山耕平訳
『すべてのひとに石がひつよう』(河出書房新社 2022/8)
■ブルーノ・ムナーリ(関口英子訳)『遠くから見たら島だった』(創元社 2023/12)
■アニー・ディラード(内田美恵訳)『石に話すことを教える』(めるくまーる 1993/11)
■德井いつこ『夢みる石 石と人のふしぎな物語』(創元社 2024/6)
■德井いつこ『スピリットの器―プエブロ・インディアンの大地から』(地湧社 1992/10)
■德井いつこ『インディアンの夢のあと 北米大陸に神話と遺跡を訪ねて』(平凡社新書 2000/2)
**(德井いつこ「驚くべきもの、ただそこにあるだけ。」より)
・『シンボルスカ詩集』
*「ノーベル文学賞を受賞したポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカは、「石との対話」という詩を書いている。
石の扉を私は叩く
——私です 入れてください
周りを眺めまわし
吐息のようにあなたを吸い込む
——出ていくんだ——石がいう——
俺は、ぴっちりと閉ざしている
たとえ、部分的に叩き割ったとしても
われわれは しっかりと閉ざしている
砂粒のように砕きつぶしたとしても
だれも入ることなどできはしない」
「外からの理解と説明を、石ほど拒んでいる存在はないだろう。
あらゆるものが膨大な情報をもち、われ先に語りたがっているようなこの時代に、石ときたら、極端に少ない情報しか与えてくれない。わかっているのは産地と鉱物名、それに元素記号ぐらいなのだ。
だれかの作品のような圧倒的な形姿、あからさまに何かに見える模様がある。しかし、なぜ、そんなふうになっているのか・・・・・・知る由もない。
ただ目の前にある、それだけなのだ。」
・ロジェ・カイヨワ『石が書く』
*「フランスの思想家ロジェ・カイヨワは、自らの石のコレクション(風景石、瑪瑙、セプタリアなど特異な模様をもつ石)についての論考『石が書く』のなかで、こんな文章を著している。
「このような出会いは錯覚ではなく通告である。それは宇宙という織物はひとつながりであり、世界の巨大な迷宮のなかで、地理学のいう対蹠地よりはるかにかけ離れた対蹠地からやってきた相容れない歩みが、どこかの十字路で遭遇しないはずはないことを証言している。」
人が石に出会う。
それは、どこかの十字路で遭遇・・・・・・というよりも「遭難」と呼んだほうがしっくりくる。
石に驚愕する。唖然とする。」
「カイヨワがいう「通告」を感じとるのは、まさにそんなときだ。宇宙という織物にふれている。世界という巨大な迷路の存在を、人はありありと感じる。」
・不思議なステップ
*「今年六月の上梓した拙著『夢みる石 石と人のふしぎな物語』は、二七年前に出版された『ミステリーストーン』の新装復刊である。
四半世紀が経過し、石をめぐる光景はすっかり変化した。なにしろ『ユリイカ』が石の特集をする時代になったのだ。」
・鏡像のような世界
(德井いつこ『インディアンの夢のあと』『スピリットの器』)
*「カリフォルニアに暮らしていたころ、毎月のように旅をしていた。行き先は、アリゾナ、ニューメキシコ、ユタ、コロラドの四州と、それらが接する「フォー・コーナーズ」と呼ばれるエリアだ。
友人たちは呆れて言った。
「何があるの?」
「何?・・・・・砂漠、遺跡、居留地・・・・・・」と私。
彼らは笑う。なんというもの好き!という目だ、
英語で“middle of nowhere”という言葉がある。「何もない場所」と人が呼ぶところは、石の王国だった。」
*「そんな地域を好んで歩きまわっていたのは、鉱物採集のためではなかった。当時、プエブロの土器づくりを取材していた私は、インディアンの人々を訪ねて、村や遺跡に車を走らせていたのだ、
彼らは砂漠を歩いて粘土を採り、紐作りで成形し、鉱物を擦り潰した顔料で紋様を描き、ポリッシングストーンと呼ばれる石ころで磨きをかけ、野焼きで焼成するという古来のやり方で、目のさめるような美しい土器をつくり続けていた。」
「土器を成形しているとき、たまに粘土が話しかけてくる、と言う彼女だったから、あるいは石の声も聴いていたかもしれない。」
・バード・ベイラー『すべてのひとに石がひつよう』
*「私が好きな本に、インディアンの少女が登場する『すべてのひとに石がひつよう』という絵本がある。
友だちの石、特別な石、いつまでも大切にできる石を、どうやって見つけるか?
一〇のルールが語られる。」
「とりわけ最後のルールは、胸に響く。
「誰にも相談などしない」」
・ジョージア・オキーフ、マックス・エルンスト
*「砂漠に惹かれている、ということは、石に魅せられているということだ。
二〇世紀アメリカを代表する画家ジョージア・オキーフ、ドイツ生まれのシュールレアリスムの画家マックス・エルンストもそんなひとりだった、
オキーフはニューヨークを去ってニューメキシコ州のアビキューに四〇余年暮らし、エルンストはパリからアリゾナ州のセドナに移り住んだ。
鉱物学的な価値に何の関心もなかったオキーフは、いつもきっぱりとした美しい形をもつ滑らかな感触の石を探し求めた。」
「偶然の幻覚体験からフロッタージュという技法を編み出し、アナロジーの宝庫である石に傾倒したいたマックス・エルンストは、原初の風景さながら赤い巨岩が屹立するセドナに暮らした。」
・ムナーリ『遠くから見たら島だった』
*「イタリアの美術家ブルーノ・ムナーリは、『遠くから見たら島だった』というチャーミングな本を書いている。
登場するのは、浜辺で拾い集めた石ころたち。チョコレート、サクランボ、アーモンドヌガー、使いかけの石けんみたいな石・・・・・・。
「石ころだらけの場所ですごくヴァカンスほど、楽しいものはない」とムナーリは書く。」
・アニー ディラード『石に話すことを教える』
*「ピューリッツァー賞を受賞したアメリカの作家アニー・ディラードは、『石に話すことを教える』という本を書いている。
「わたしの住む島にはわたしのような変わり者の住民が多い。ある崖の上に、ヒマラヤスギの板葺きの掘っ立て小屋に——といっても、みんな多かれ少なかれそんな暮らしぶりなのだが——三十がらみの男性がひとり、ある石とともに暮らしている。その石に話すことを教えているのだ」
こんな文章から始まるエッセイは、奇妙な味わいに満ちている。」
*「ディラードは子どものころ、ひとり暮らしの老人が死ぬまでに残したという石のコレクションをそっくりゆずり受けたという。重晶石の薔薇や、星のような苔瑪瑙、金色に輝く黄銅鉱、黒曜石やホルンフェルスの塊・・・・・・。一見なんの脈絡もないコレクションの蒐集に全力を傾けるようになった。ディラードは書いている。
「それはまるで、どきどきするような夢のかけらを探すために、私自身の何もないまっ暗な内面を旅するようなものだった。青い湖、魔女、灯台、黄色い小道があった。薄汚れた脇道でどころかまわずほじくり返し、古い古いコインを見つけるようなものだった。みかけどおりのものはなにもなかった」
小さな少女に、大事な石のコレクションをそっくりゆずる渡すことにした老人は、まさに慧眼だった。老人の思惑どおり?
いや、もしかしたら、石たちのたくらみだったのかもしれない。
そうでないと言えるだろうか?
石たちは、筋肉をもたないあのポーカーフェイスで、人間に関心のないそぶりをして、そのじつ呼びかけているのだから。」