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菅原百合絵『たましひの薄衣』

☆mediopos-3050  2023.3.25

短歌を読む歓びを
しかもあたらしく生まれくるそれを
読む歓びを味わえるのは格別だ

水原紫苑は
菅原百合絵の第一歌集『たましひの薄衣』を評し
「人間が荒れ狂う今世紀にこのような
美しい歌集が生まれたことをことほぎたい」といい

野崎歓は
「静謐で深い歌の探求が
続けられていたことに胸を打たれる」という

このところ短歌のブームらしく
さまざまな短歌が数多く詠まれ
歌集もさまざまに刊行され
書店にも並べられていたりもする

それに反して現代詩はその居場所を
なくしているようにも見えるが
短歌やそれよりもさらに短い俳句のほうが
五七五七七あるいは五七五という短い言葉ということで
感覚的かつ感情的に近づきやすいカジュアルさがあるのだろう
カジュアルさだけでほとんど詠になっていなさそうなのも多い

けれどこうした『たましひの薄衣』のような歌集をひらけば
そうしたカジュアルさを纏った「薄衣」の内で
秘やかで繊細なそして「たましひ」をふるわせるような
そんな言の葉がゆれているのを感じることができ
ある意味でそれぞれの「連作」は
それそのものが新鮮な現代詩であるとも感じられる

歌集には水原紫苑・野崎歓・星野太の評の書かれた
「栞」が付されているがそれぞれのタイトルには
「死をひらく水の手」
「水に書かれた物語」
「水についての若干」とあるように
すべて「水」と近しい言の葉で充たされている

ずっと続けているphotoposも
「水」の表情をさまざまに映したものであることが多く
その意味でもずいぶん近しく感じられる歌集となっている

ちなみにこの歌集には随所にエピグラフが置かれているが
それもまた歌集をひらく秘かな歓びにもつながっている
それをふたつほど挙げておきたい

  わたしたちの心は不完全な楽器である。
  それは弦が何本か欠けていて、
  憂愁に割り当てられた調子にのせて歓喜の響きを
  奏でなければならなう竪琴なのだ。
  (フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン『ルネ』

  本当のところは、道徳に出会う前に
  愛と出会わなければならないのだ。
  そうでなければ、その二つはともに死んでしまう。
  だがこの地上は残酷なものだ。
  愛しあう者たちが一緒に生まれればよいのだが、
  人は人生を生きるにつれてよりよく愛するようになるのであって、
  そして人生そのものが愛から人を隔てるのだ。
  打開策はない————幸運、ひらめき————あるいは苦しみのほかには。
  (カミュからシャールへの書簡)

さて歌集の「あとがき」に
「歌集のタイトル『たましひの薄衣』は、フランスの画家
アンリ・マルタンの作品「静謐(Sérénité)」に取材した歌からとった」
ということなのでその知らずにいた絵画を探してみた
リヨン美術館とオルセー美術館に収蔵されているという

■菅原百合絵『たましひの薄衣』( 書肆侃侃房 2023/2)

【収録歌より】

  ほぐれつつ咲く水中花——ゆつくりと死をひらきゆく水の手のみゆ
  一生は長き風葬 夕光(ゆふかげ)を曳きてあかるき樹下帰りきぬ
  語源なるpassio(苦)の泉よりpassion(情念)の潮(うしほ)吹き出すまでをたどりつ
  魂は水の浅きをなづさへりうつし身ゆゑにゆけざるところ
  きみの知らぬきみに触れえず午睡する幽(かそ)けき息を聴きゐたるのみ
  天使にも序列あたへし人間は愚かなり画布にセラフィム燃えて
  人死にて言語(ラング)絶えたるのちの世も風の言の葉そよぎてをらむ
  ネロ帝の若き晩年を思ふとき孤独とは火の燃えつくす芯
  たましひのまとふ薄衣(うすぎぬ)ほの白し天を舞ふときはつかたなびく
  水差し(カラフ)より水注(つ)ぐ刹那なだれゆくたましひたちの歓びを見き
  一生は長き風葬 夕光(ゆふかげ)を曳きてあかるき樹下帰りきぬ
  「わたしの夫(モン・マリ)」と呼ぶときはつか胸に満つる木々みな芽ぐむ森のしづけさ

(「あとがき」より)

「歌を詠むことは、言葉による展翅だと思う。言葉にしなければはかなく飛び去ってしまう想念やイマージュを、あたう限り忠実に定型というピンで留めること。過去の記憶をたどりながら、こうして歌集に収められた歌を読み返すと、エピグラフにも選んだシャトーブリアンの『ルネ』の一節が改めて浮かんでくる。「わたしたちの心は不完全な楽器である。それは弦が何本か欠けていて、憂愁に割り当てられた調子にのせて歓喜の響きを奏でなければならない竪琴なのだ」。憂愁や感傷といった竈、そして時にはペダンティズムのヴェールをまとわせなければ日々の思いを展翅することができなかった。竪琴としての「心」の不完全さを顧みつつ、それが奏でた響きが誰かの心の琴に届き、共鳴する瞬間のあることを祈らずにはいられない・
 歌集のタイトル『たましひの薄衣』は、フランスの画家アンリ・マルタンの作品「静謐(Sérénité)」に取材した歌からとった。リヨン美術館にある「静謐」が親しみやすい控えめなサイズなのに対して、オルセー美術館にある「静謐」は幅五・四メートルにもわたる大作である。死者の楽園エリュシオンを描いたいずれの絵からも、魂と肉体のあわいを心もとなくさまよいつづけながら歌を詠んできたが、いつかこの絵のような静謐さを歌でうつしとることができたら、と願う。」

(「たましひの薄衣 栞」〜水原紫苑「死をひらく水の手」より)

「現代の芸術において、優雅で繊細であることは、そして同時に鋭敏で明晰であることは、どれほどむずかしいだろう。
 人に優れた切れ味の氷の刃を持ちながら、それをひたすら内に向けて、他者ではなく、みずからを刺し続けることは、どれほど苦しいだろう。
 菅原百合絵の歌を前にすると、どうしてもこの問いかけを止めることができない。

  ほぐれつつ咲く水中花——ゆつくりと死をひらきゆく水の手のみゆ

 待望の第一歌集『たましひの薄衣』の巻頭近くの一首である。
 生から死に向かうのではなく、ひそやかにしなやかに、水の手が死をひらいて生を再び呼び出す。復活に似て非なる二度目の生は最初の生よりも典雅で美しい。一切の猥雑さから逃れて、マラルメが呼んだ「花」のように花となる。作者の精緻で陰影に富んだ詩法を明かしているかのような歌である。

  一生は長き風葬 夕光(ゆふかげ)を曳きてあかるき樹下帰りきぬ

 この歌の中の主体は生まれた時から死者である。長い風雅の一生を、光を曳いてその人は生きる。憂いに満ちた明るさと羞(やさ)しさが心に残る。優雅さに加える作者の美質は魂の高貴さである。まさに純白の百合のようにこのうたびとは独り立っている。

  語源なるpassio(苦)の泉よりpassion(情念)の潮(うしほ)吹き出すまでをたどりつ

 苛烈なpassionが垣間見えるが、詩歌は作者を情念から解き放つ。作者がエピグラフに掲げたシラーの言葉の通りである。

  魂は水の浅きをなづさへりうつし身ゆゑにゆけざるところ
  きみの知らぬきみに触れえず午睡する幽(かそ)けき息を聴きゐたるのみ
  天使にも序列あたへし人間は愚かなり画布にセラフィム燃えて
  人死にて言語(ラング)絶えたるのちの世も風の言の葉そよぎてをらむ

 この言の葉こそ作者の歌だろう。
 人間は荒れ狂う今世紀にこのような美しい歌集が生まれたことをこよほぎたい。」

(「たましひの薄衣 栞」〜野崎歓「水に書かれた物語/『たましひの薄衣』賛」より)

「次々と呼び覚まされる光景が、ひとつの流れを作り出していく。『たましひの薄衣』はその過程をたどることの愉悦をたっぷりと味わわせてくれる。とりわけ、豊かに描かれる「水」の変幻に引き込まれずにはいられない。」


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