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長谷川櫂『俳句の誕生』

☆mediopos-2373  2021.5.16

正岡子規が唱えた
俳句の方法としての「写生」は
「対象への凝視、精神の集中を要求する」ものだが

著者の長谷川櫂によれば
「集中ではなく」
「心を遊ばせること、いわば遊心こそが重大」だという

「人間の心は遊んでいるとき、自分を離れ」
「はるか昔に失われた言葉以前の
永遠の世界に遊んでいる」からだ

矛盾する表現になってしまうが
写生は「言葉によって失われた永遠の世界を
言葉で探ること」だというのだ

さて子規の後継者を名乗った高浜虚子は
写生をさらに進めて「客観写生」を唱えたが

そのことで
「目の前にあるものを言葉で写せば
誰でも俳句ができる」という写生が孕んでいた
「想像力の働きを無視する」という欠陥が
むしろ際立ってしまうことになり
「対象の形態だけを写したガラクタのような俳句」が
量産されることになってしまったようだ

その「客観」ということへの誤解から
虚子は今度は「客観写生と根本的に対立する」
「花鳥諷詠」を唱えたが今度は
「俳句の対象が花鳥の象徴する趣味的な
四季の風物だけに限定され」してまうことになった

そのほかにも虚子は
「漢字四文字の熟語を次々に作りだした」が
なぜそういうことになったかというと
それらは「膨張しつづける俳句大衆を束ねる
近代特有の標語」として作られていったようだ

この「標語」による啓蒙・指導は
俳句の問題だけではなく
とくに高度経済成長の時代以降の
「大衆化」の問題と深く関わっている

この問題を端的にいえば
理解・認識・体得することの難しいことは
ごく少数の人にしか可能ではなく
それを「大衆化」しようとするときには
「標語」のような表現で
啓蒙・指導するしか方法がないことである

「大衆を束ね、動かすため」には
そうした「標語」が必要であり
「近代とともに誕生した新聞、
のちにはラジオ、テレビ、インターネット」は
そのための強力な「マス」のメディアとなってきた

政治権力もそれに対するアンチ・権力も
また民主主義という陥穽にもなりがちな主義も
「標語」による印象操作で「大衆」を動員する

「大衆」はカンタンなことばで
カンタンに理解できて快く感じられる
情動的な言葉でなければ動かない
しかも現代ではだれもが「一家言」を持った
「批評家」のようにふるまって恥じなくなり
「承認欲求」によって自我を肥大させてゆく

俳句において虚子の死以降
「信頼できる批評と選句」が失われ
「俳句大衆は誰の批評を信じ、
誰の選句を信じていいかわからな」くなったように
「極端な大衆化」のもとで依拠できるのは
「人気」「本の売れ行き」「マスコミへの露出度」
「アンケート調査」のようなものでしかなくなってしまう

ほんらいの権威がある場合は
人はそれに従うことで道を歩むことができるが
「極端な大衆化」というのは
そうした権威が失われ
それぞれがみずからの道をつくりながら
歩む以外になくなってしまっているということである
つまり「大衆」の一人ひとりが
じぶんの権威になる以外にない
にもかかわらず「大衆」は「標語」で動く

現代においては
かつて秘教であった神秘学が
隠されたものではなく開示される必要があったのも
だれもが自己教育によって学べる環境が
必要とされたからだろうが
そこにも俳句の大衆化と同じ問題が
起こりがちなのはいうまでもない
「標語」のような神秘学ほど度しがたいものはない

■長谷川櫂『俳句の誕生』(筑摩書房 2018.3)

「正岡子規が明治時代に説いた写生という俳句の方法は対象への凝視、精神の集中を要求する。しかし私の乏しい経験からいえば、俳句ができるのは精神を集中させているときではなく、逆に集中に疲れて、ぼーっととするときである。心が自分を離れて果てしない時空をさまよう。そうしたときに心は言葉と出会い、俳句が誕生する。それは俳句が浮かんでくる、はるか彼方からやってくるという感じである。
 俳句を作るには子規が説いた集中ではなく、心を遊ばせること、いわば遊心こそが重大なのだ。芭蕉も蕪村も一茶も、また写生を唱えた子規や虚子自身も、さらに楸邨も龍太も心を遊ばせて俳句を作っていたのではなかったか。なぜならそれこそ古代の柿本人麻呂からつづいてきた詩歌の本道だからである。」

「写生が量産する、眼前のものを言葉で写しただけのガラクタ俳句は写生の努力が足りないのではなく、心が遊んでいないということになるだろう。
 人間の心は遊んでいるとき、自分を離れ、言葉におおわれたこの世界を離れて、はるか昔に失われた言葉以前の永遠の世界に遊んでいる。人間が言葉を覚えたことによって失われた永遠の世界。その永遠の世界への脱出の企てが詩であるのなら、集中ではなく遊心こそが詩の母胎であることを認めなければならないだろう。
 言葉によって失われた永遠の世界を言葉で探ること。そこに重大な矛盾が潜んでいるのは誰にでもわかる。しかし人間はあえてこの矛盾に挑まなければならない。なぜなら世界は言葉で覆われているからである。そして言葉の覆いを剥がして永遠の世界と出会うには人間は言葉という道具を使うしかないのである。
 言葉を剥がす言葉、それこそが詩である。その詩の中で俳句はもっとも短い十七拍の定型詩である。しかも十七拍の内部に「切れ」という深淵を抱えこんでいる。俳句は永遠の世界をおおう言葉を最少の言葉で剥がそうとする恐るべき企てなのだ。」

「保田與重郎も三島由紀夫も大衆化ではなく西洋化を近代の指標と誤解したために、近代をどう超えるか、大衆化にどう対処するかという問題と出会わなかった。その結果、この問題は手つかずのまま現代に持ち越されてしまった。どの分野でも火急の課題は戦後の高度成長を機に新たな次元に入った大衆化にどう立ち向かうかである。俳句も例外ではない。
 大衆化が極限にまで進み、内部から崩壊しつつある現代俳句について考えるために時間を少し溯らなくてはならない。明治時代、正岡子規は「写生」を提唱した。子規の写生は一茶の時代にはじまった近代大衆俳句の方法だったが、言葉の想像力を視野に入れないという重大な欠陥を抱えていた。ところが子規は写生の欠陥が露呈する前に短い生涯を終える。写生の抱える問題に直面することになったのは子規の後継者を名乗った高浜虚子である。
 子規の死後、虚子は子規の写生をさらに進めて「客観写生」を唱えた。それは客観写生という言葉のとおり主観を排し、客観に徹して対症を描けということである。虚子の客観写生は、目の前にあるものを言葉で写せば誰でも俳句ができるという子規の写生をさらに先鋭にしてものだった。しかしこれが言葉における想像力の働きを無視するという、写生がもともと孕んでいた欠陥をさらに際立たせることになった。
 俳句にかぎらず、そもそも主観を排除して言葉を客観的に用いるということが可能かどうか、そこから考えなければならない。
(・・・)
 主観、客観は明治以降、さかんに使われるようになった言葉の一つだが、こうした言葉の常として世界を不要に分断し無用の対立を作り出す厄介な言葉である。主観といえば、それに対立する客観が立ち上がる。逆に客観といえば主観が立ち上がる。しかし主観にも客観にも実体はない。主観や客観が存在するというのは言葉の生み出す幻覚にすぎない。
 主観と客観がこうした弊害をもっていることを承知の上で使うなら実害は少ないかもしれない。しかし客観という実体、主観という実体が存在すると思いこんで客観写生に邁進すれば、いいかえると俳句から主観を排除しようとすれば、(果たしてそんなことができるとしての話だが)それは言葉の自殺行為にほかならない。
 じっさい虚子が客観写生を唱え始めると、主宰していた雑誌「ホトトギス」の雑詠欄(投句欄)は全国から寄せられるガラクタ俳句で埋まった。ガラクタ俳句とは客観写生に従って主観を排除しようとし、客観に徹して詠もうとした結果、想像力が働かず、対象の形態だけを写したガラクタのような俳句のことである。
 驚いた虚子はすぐ新たに「花鳥諷詠」を唱えて客観写生を修正しようとする。花鳥諷詠とは花や鳥に心を遊ばせて俳句を楽しむということであり、芭蕉の「風雅」を虚子風に言い換えたものである。いいかえれば言葉の想像力を虚子流に回復しようとしたのだった、花鳥に心を遊ばせよとは想像力をもっと働かせよ、簡単にいえば、ぼーっとせお、心を遊ばせよという遊心の勧めにほかならなかった。虚子はここで子規を離れて柿本人麻呂、紀貫之以来の詩歌の本道に帰ろうとしていたのである。
 花鳥諷詠は客観写生と根本的に対立する。それは虚子もわかっていたはずである。
(・・・)
 虚子が新たに唱えはじめた花鳥諷詠は俳句についての別の誤解を生むことになる。虚子の花鳥諷詠のもとになった芭蕉の風雅は宇宙に起こるすべてを文学の立場から眺めて俳諧(俳句)にするということだった。ところが虚子は風詠にあえて花鳥を冠して花鳥諷詠としたために、俳句の対象が花鳥の象徴する趣味的な四季の風物だけに限定され、花鳥以外の対象、戦争や災害や時事を詠んではならないという誤解を与えてしまった。虚子の花鳥諷詠は俳句を趣味の世界に閉じ込めてしまうことになる。」

「客観写生、花鳥諷詠のほかにも虚子は漢字四文字の熟語を次々に作りだした。これらの四文字熟語は単に虚子の趣味だったのではなく、じつは膨張しつづける俳句大衆を束ねる近代特有の標語だった。
 近代大衆社会は指標となる言葉、つまり標語を必要とする。近代大衆社会の指導者は大衆を束ねて動かさなければならないからである。一方、大衆は自分一人で判断したがらない。大衆は自由を求めているようにみえながら、じつは自由を恐れているからである。
 明治時代の富国強兵、文明開化、殖産興業、昭和戦争時代の八紘一宇、鬼畜米英、一億玉砕、戦後の租特倍増、安保反対、列島改造など、どれも大衆を束ね、動かすための標語だった。指導者たちはこれらの標語を、同じく近代とともに誕生した新聞、のちにはラジオ、テレビ、インターネットを通じて大衆に繰り返し呼びかけ、指導者が望む方向へ大衆を導こうとする。大衆は嬉々としてそれに従った。客観写生、花鳥諷詠などの虚子の四文字熟語も俳句大衆に対してこれと同じ働きをした。
 俳句大衆の指導者という役割がいかに危険か、戦前戦後の虚子の動向をみればわかる。」

「昭和戦争での敗戦が日本と日本人を変えてしまったと誰でも思っているが、じつはそうではない。古い日本と日本人をその内部から破壊し、新しい日本と日本人を出現させたのは敗戦から十年後、昭和三十年代にはじまった高度成長だった。日本と日本人は敗戦という外部の力によって変えられたのではなく、日本人自身が推進した高度成長によってみずから変わったのである。敗戦はその遠因にすぎなかった。
 俳句もその例外ではない。高度成長時代に入ると、近代大衆俳句は飽和状態に達し、内部から崩壊がはじまる。俳句の変化の明らかな兆候はこの時代、俳句の選とそれを支える批評が衰退したことである。
 近代大衆俳句は江戸時代半ばの一茶の時代にはじまり、それ以来一貫して俳句人口は増えつづけてきた。これが現代までつづく俳句の大衆化現象である。ところが戦後の高度成長時代に入ると、俳句を作るだけでなく誰もが批評めいた発言をするようになり、誰もが選句をするようになった。その結果、どれがよい句でどれがダメな句なのかわからなくなってしまった。
 この変化の背景にあったのは半世紀にわたって俳句の世界に君臨してきた虚子の死である。虚子は優れた俳人であったばかりでなく、批評と選句の能力を備えた俳句大衆の指導者だった。その虚子が偶然にも高度経済成長の初期、昭和三十四年(一九五九年)八十五歳で亡くなる。虚子の死によって俳句は大俳人と同時に俳句の批評家であり選者である存在を失ったことになるだろう。
 どの句を評価し、どの句を評価しないか、どの句を選び、どの句を棄てるか、俳句の批評と選句は俳句大衆の道標である。それは単にどの俳句が好きか嫌いかというその人の好みの問題ではなく、言葉と詩歌の歴史を俯瞰しながら行われるべきものである。
 ところが虚子が没すると、俳句の世界では多数の結社が生まれ、細分化が進んだ。その結果、誰もが批評まがいの発言をし、選句まがいの選句をするようになった。こうなると俳句の批評と選句の信頼性は失墜し、俳句大衆は誰の批評を信じ、誰の選句を信じていいかわからない。
 信頼できる批評と選句。高度成長時代、これが衰退する代わりに幅を利かせはじめたのが人気である。俳句と俳人の人気を測る方法はいくつかあって、一つは本の売れ行き、もう一つはマスコミへの露出度、極めつきはアンケート調査である。」
「極端な大衆化がもたらした批評の衰退。これは俳句の世界だけの問題ではない。大衆社会全体が直面している現在進行形の問題である。」

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