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宇野常寛『砂漠と異人たち』/「庭の話 8.「庭」プロジェクト」(『群像 2023年02月号』)

☆mediopos2985  2023.1.19

宇野常寛は「庭」プロジェクトを立ち上げようとしている

「承認の交換」を行い
共同体的に身体を画一化させるような
「プラットフォーム」の支配力から逃れ
「事物とコミュニケーションする場所」として構想されている

それは
「情報社会を支配する相互評価のゲームの〈外部〉を求め」るための
とても興味深く共感できるプロジェクトなのだが
『砂漠と異人たち』 で繰り返し説かれている
ロレンスや村上春樹の陥穽から
ほんとうに自由になり得ているのかどうかは疑問である

ひとつには
「情報社会を支配する相互評価のゲームの〈外部〉を求め」る
といいながら
宇野常寛の依拠しているであろう諸認識の前提が
「陰謀論」へのお決まりのような批判など
マスメディア的な「常識」に立っているところだ
みずからの依拠している認識の前提に些かも疑いを持っていない

それはある意味で全共闘的なトラウマの影なのかもしれない
その影はいまだ消えないまま引き継がれていて
「外部」を求めながら「外部」が見えないまま
あらたな「ゲーム」の内部を「外部」だとみなしてしまいかねない

もうひとつは「走る」ことだ
宇野常寛は村上春樹的に走ることを超えて
ただ「快楽」のために
タイムにも完走することにも筋力トレーニングにもとらわれず
「変わるために走る」というが
「事物とのコミュニケーション」をする「庭」は
「走る」ことではむしろ取り逃がされてしまう

ときには「走る」ことも位置確認のためには有効かもしれないが
重要なのは立ち止まってそこにいること
その場をたしかに観察すること
さらにはその場とともにあることではないのだろうか
「庭」にはランナーではなく庭師が必要となる

その場とともにあることによって
ある意味職人的に「もの」と向き合うことで
ほんとうの意味で「変わる」こと
そのことにこそ可能性があるのではないか
「事物とのコミュニケーション」をするのであれば
それこそが最重要なことである

そんな疑問をあれこれ感じながらも
共同体的な「承認欲求」から自由であるための「庭」が
今後どのように構想されていくかに
今後注目していきたいと思っている

■宇野常寛『砂漠と異人たち』 (朝日新聞出版 2022/10)
■宇野常寛「庭の話 8.「庭」プロジェクト」
 (『群像 2023年02月号』講談社 所収)

(宇野 常寛『砂漠と異人たち』〜「第四部 脱ゲーム的身体」より)

「僕たちはグローバルな資本主義と結びついた情報技術の作り上げた、閉じた相互評価のゲームからいかに自立すべきなのか。(…)
 情報技術の濫用がもたらした閉じたネットワークと、そこで行われる相互評価のゲームは民主主義を疲弊させ、世界から多様性を失わせている。この問題は、百年前にロレンスの試みとその挫折によって、結果的に予見されていた(「アラビアのロレンス問題」)。ロレンスは自己解放の場として世界の外部を求めて砂漠に赴いた。そして砂漠を自己の身体を無化し、メディアの中で自由に自己像を確立するための舞台として設定し、そこで誤った。ロレンスは自らを解放するために進んで閉じた相互評価のネットワークの中に入り込み、そしてその自己像にとらわれることで自らを破壊していったのだ。
 対して村上春樹は外部に赴くのではなく内部に潜ることで、自己を確立しようとした。ロレンスは自らを歴史という物語の登場人物と化すことを試みたが、村上は異なるアプローチを試みたのだ。制作の力を借りて歴史を物語ではなくデータベースとしてとらえ、既存の文脈を排除して、ゼロから歴史的な事実に向き合いその善悪を判断してコミットすること。それが、村上春樹の提示した新しい歴史へのアプローチであり、その正しさを獲得することによる自己の確立の方法だった。しかしそこには同時期にオウム真理教が陥り、後にドナルド・トランプが悪用する罠が存在していた。既存の物語から自由になり、イデオロギーから解放された(データベースとしての)歴史を前にしたとき、人間は自らの欲望に負け、自分が見たいものだけを見てしまう。そしてそこに自分が欲望する物語を立ち上げてしまう。これが、陰謀論の温床になる。村上春樹はここに現代における新しい悪を発見し、対決を決意する。この誘惑に抗うために、彼が導入したのが女性からの承認だった。自分を無条件で承認する「母」的な女性を設定し、彼女からの承認で主人公は自己を安定させる。ときにはその女性が主人公のコミットメントを代行し、その責任を取る。そして主人公はコミットメントの成果だけを受け取る。村上春樹は、オウム真理教的な陰謀論に陥らないために、性搾取に依存しているのだ。
 この村上の提示した「壁抜け」に耐えうる強い主体を性搾取による男性性の強化で補うというモデルは二つの致命的な問題をかかえている。一つは、村上のモデルでは性搾取の度合いとコミットメントの深度が比例してしまうため、性搾取を緩和するとコミットメントも浅くなる。そしてもう一つの問題は、そもそもこのモデルはコミットメントに伴う責任を、そのまま「母」的な存在に転嫁することで事実上破棄してしまっているため、かつての(マルクス主義の代表した)古いコミットメントの快楽の虜になった人々の愚かさを克服するモデルになり得ないことだ。」

「かつてハンナ・アーレントが指摘したように、ゲームのプレイを目的にした主体はゲームの存在とその拡張を疑うことができなくなる。
 そして、ゲームのプレイスタイルを変えること(所有から関係性へ)も、ゲームを複数化すること(プラットフォームとコミュニティの分散)も突破口になり得ない。ではどうするべきか。僕の回答はこの(関係性mの絶対性のもたらす)ゲームから降りることだ。
 自己幻想を肥大させること(預言者の高潔な精神への到達)、対幻想に依存すること(S・Aへの献詩)、そして共同幻想に埋没すること(砂漠の英雄としての虚像)のすべてが百年前に失敗し、それが大規模かつ大衆化するかたちで反復されている現在、もはや解はそれしかない。ゲームのプレイスタイルを変えることでも、ゲームを複数化することでもなく、相互評価ゲームそのものから離脱することが必要なのだ。では、どのようにそれは可能なのだろうか。
 それは外部に脱出するのではなく、内部に潜ることでなければいけない。そうでなければ、僕たちはロレンスと同じ罠に陥る。そして対幻想に依拠すること、誰かとつながることなく時間的に自立しなければならない。そうでなければ僕たちは村上春樹と同じ暗唱に乗り上げる。
 僕はここで、一つだけ、手がかりのようなものを提示できる。そもそも僕はこの手がかりがなければこの時代に、ロレンスや村上春樹を追いかけようとは思わなかっただろう。その手がかりはロレンスの、そして村上春樹の日常の、暮らしの内部にある。それも誰かとつながるのではなく、一人の個として過ごす時間の内部にある。僕たちはここで、あることを思い出すべきだ。ロレンスも、村上春樹もある時期から「走る」ことをその暮らしの中に取り入れていったことを。それも一定以上の「速さ」で走ることを、彼らが求めた(求めている)ことを。」

「村上春樹にとって走ることは、不自由に耐えるための訓練のようなものだ。しかし、僕にとっては違う。僕は走ることそのものが楽しく、快楽のために走っている。孤独にその土地に触れ、自由な速度と経路で身体を動かす快楽を手にするために走っている。だから疲れたら歩くし、スターバックスでパッションティーも買う。タイムも一切気にしないし、大会に出て完走することを目標にしたいと考えたこともない。筋力トレーニングにも興味はない。もちろん、歩かなかったことを他人に誇ろうと考えたことなど一度もない。僕は村上が走ることで得ようとしている速さとか強さとか、そういったものにまったく興味がない。村上春樹は変わらないために走る。しかし僕は変わるために走るのだ。」

「走ることは、歩くのとはまた違った土地との関係を僕に与えてくれた。歩くときに比べ、走ると移動距離が二倍から三倍に広がることになる。建物一つ一つ、路地一つ一つへ触れる時間は短くなるが、街と街とのつながりを強く感じることになる。」

「共同体はメンバーシップに規定される。同じ物語を信じることが、参加の条件になる。対して場=プラットフォームはパーミッションさえあれば、同じルールでゲームをプレイすることが参加の条件になる。その意味において、プラットフォームは共同体の呪縛から人々を自由にする。選べない親の呪縛から、国家の抑圧から、人間を自由にした。しかし、そのために人間は巨大なゲームに支配されるようになったのだ。
 では、どうするのか。このプラットフォームを、人間外の事物に触れられる場所——たとえば「庭」のようなものにすることが、僕の提案だ。ロレンスは家族や国家といった共同体から自由になるために、その外部=プラットフォームを砂漠に求めた。しかし、彼はむしろ内部に砂漠を見出すべきだったことは、既に確認した通りだ。そしてその内部に裁くもある場所とはなにか。その世界の内部に裁く=砂場もあれば、岩場もあり、そして森も池もある場所——それが「庭」なのだ。」

(宇野 常寛「庭の話 8.「庭」プロジェクト」より)

「プラットフォームは人間の身体を画一化させる。プラットフォーム上で人間の身体は、承認の交換以外の機能を失う。したがって、プラットフォームの支配力から逃れるためには相互評価の、人間間の承認の交換のゲームの外部としての、事物とのコミュニケーションが必要になる。そうすることで、プラットフォームが人間の心身を画一化する力に抗うことができる。こうして私は、事物とコミュニケーションする場所としての「庭」を構想し始めた。この連載はその「庭」の条件を理論的に考えるものだ。そして、その理論を一つの叩き台として、実現されるべき「庭」のビジョンを具体的に提示するのが、この「庭」プロジェクトなのだ。」

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