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隈 研吾『新・建築入門 ――思想と歴史』

☆mediopos2722 2022.4.30

建築とは何か

建築を問うことは
人間の主体を問うことでもあり

モダニズムもポストモダニズムもともに
事実上推し進めてきた人間中心主義を超える
新たな視座を見出そうとすることである

人間中心主義は
ある意味で「頭」によって
「物」を支配しようとするものだが

それを超えてゆくためには
「頭」と「物」との
つまりは人間中心主義と「物」との間の
新たな関係について問い直すことが求められる

それは建築という領域にはとどまらず
あらゆる領域における問い直しにつながっている
それを象徴的にあらわしているのは
昨今の人類学的な営為と示唆である

人間が問う以上
どんなかたちであれ
人間の視点が外れることはないのだが
人間にも「頭」だけではなく身体があり
(「頭」もまた「身体」であるともいえる)
身体は「物」と関わっているし「物」そのものでもある

しかも「物」をただの「物質」ではなく
モノノケの物でもあるような
両義的なものを含む「物」としてとらえるとき
「物」を問い直し
「物」との関わっていくということは
たとえば建築の場合にも
その素材としての「物」そのものの姿を
とらえなおすということにもなる

歴史的な意味でも「物」と
深くつきあってきているのは「職人」である

隈研吾が本書『新・建築入門』を書いた後
七年間にわたって日本の田舎を巡り始め
職人達と一緒に物を作り始めたというのも
「物」との関わり方を根底から学ぶためだったのだろう

「頭の中にはなんにもなくて、物と頭の間にこそ、
最も興味深い世界があることがわかってきた。
その物と物の間をどんどん掘り始め、
その物と頭の間にある場所で、建築を作り始めたのである」
というのだ

■隈 研吾『新・建築入門 ――思想と歴史』
  (ちくま学芸文庫 筑摩書房 2022/3)

(「第二章 建築とは何か」より)

「建築とは何かという問いは、困難な問いである。ドラッグと電子テクノロジーの出現によって、「すべてが建築」である状況が出現して以来、この問いは以前にも増して、一層困難なものになった。

 「すべてが建築」となってしまう以前には、「建築とは物質的な構築である」という定義が可能であった。物質化されていること、すなわちフィジカルであるということを、建築にとってほとんど決定的な要件とみなすことが可能であった。しかし「すべてが建築」であるという状況が出現し、物質的なものと非物質的なものが等価であるという状態が出現することによって、物質は建築にとってもはや決定的な要件ではありえなくなった。物質の特権性は失われたのである。物質が特権性を失った時に建築に何が残されているだろうか。「物質的な構築である」という定義から物質が取り除かれた結果、構築だけが残った。それゆえの人々の関心は構築自体へと向かい、構築そのものの是非が、そして功罪が問われはじめたと考えてもいい。

 そして構築とは主体と一体になった概念であった。すなわち構築医は特定の主語がある。主体が構築するのであり、しかも意志をもって、構築するのである。主体がないところに構築はない。一方建築という言葉は、必ずしも主語を必要としない。この言葉は主体の存在を曖昧にする。主体がなくても建築というものが存在するような錯覚を人々に与える。しかし、実際には主体がないところに、建築はあったためしはないのである。構築という言葉は、建築における主体の存在を明らかにする。そして建築を構築と言い換えることで、「すべてが建築である」状態へと拡散してしまった建築を、再び収束することも可能である。すなわち主体によって構築されるものが建築であり、それ以外のものは建築ではないと。」

「はっきりしておかなければならないのは、空間と建築は決して同義ではないということである。空間をいくら語っていても建築には到達することはできない。そこには決定的な断絶がある。その断絶とはすなわち何かを構築しようとする、主体の意志である。

 まなざしの位置が高く、遠ければ、自動的にそこに空間が発生する。しかし建築とは自動的に生み出されるものではない。そこには意志の存在が不可欠である。建築とは確かに空間的なものであるが、空間そのものではない。建築を空間としてみることは建築の幅を拡げ、建築と他の領域を結びつけてはくれるが、逆に建築が構築であり、意志の産物であるということを人々に忘れさせる。建築とは空間的な構築である。構築の本質を問わないでは、いくらまなざしを高く、遠く設定しても、永遠に建築にたどりつくことはできない。」

(「文庫版あとがき/歴史を乗り越えた」より)

「ここで一番書きたかったことが、モダニズムもポストモダニズムも共に、自己中心的な破壊行為だということである。構築という概念を使い、人間の考え方の歴史を溯りながら、その破壊行為の本質に迫りたいと思った。そして同時に、脱構築という概念を駆使して、自己の建築スタイルを正当化しようとする、九〇年代のスター建築家————アイゼンマンや磯崎新————の方法も、同じまな板の上にのせて批判したいと考えた。彼らはデリダを始めとする脱構築の思想家を海外から招き、まだまだゼネコンが文化イベントのスポンサーをする余裕のあった九〇年代、さかんに知的雑談、知的イベントで盛り上がっていた。僕はその罪悪感のかけらもないエリート的なはしゃぎようと自己弁護を、鼻もちならなく感じたのである。彼らの、もちろん僕も含めてすべての建築家の「罪」にせまろうと試みたのである。それが、当時の僕の気分であった。
(・・・)
 九〇年代のスター建築家達が、ポスト構造主義の哲学者のフレーズを借りていた脱構築の建築は、頭の中だけで考えたフィクションあるいはファッションにしか見えなかった。彼らは西欧的方法の批判としての脱構築建築を唱えていたが、彼が作っている建築は、自分の頭の中で組み上げた頭でっかちの脱構築を、従来通りの建築的工法、建築的物質(たとえばコンクリート)を用いて、工業化社会のマニュアル通りに実体化しただけの、退屈な代物に見えたのである。彼らは西欧的方法を批判しているように見えて、実は彼らの方法自体が、依然として、あるいは以前以上に西欧的なものに感じられたのである。

 僕はこの本を書き終えたちょうどその頃から、日本の田舎を巡り始めた。田舎の職人さん達と一緒に物を作り始めた。それが頭を卒業するための、一番の方法だと考えたのである。こちらのひとりよがりの頭で考えたものを図面にして、職人さんに渡してバイバイするのではなく、田舎の現場に腰を据えて、ああだこうだといい合いながら、最後の最後までしぶとく、物と向き合い続けるやり方を始めたのである。田舎で、職人さん達から物とのつきあい方を学んだ。物ってこんなにおもしろい世界だったんだということを発見した。その学びから逆向きのフィードバックがたくさんあって、不思議なことに、僕のデザイン自体が、どんどん変わり始め、頭とのつきあい方も変わり始めたのである。田舎にいると、頭なんてものが、何の役にもたたないことがわかってきたのである。

 頭の中にはなんにもなくて、物と頭の間にこそ、最も興味深い世界があることがわかってきた。その物と物の間をどんどん掘り始め、その物と頭の間にある場所で、建築を作り始めたのである。

 その後、こんなやり方を田舎で七年続けた二〇〇一年、ソフィ・ウダールというフランスの人類学者————その時は人類学者の卵という感じだった————から、突然、不思議なオファーがあった。これから一年、僕の後を追いかけさせてくれ、何も邪魔しないからと、彼女は表情を変えずにつぶやいたのである。

 ソフィはアクターネットワーク理論で知られる人類学者ブルーノ・ラトゥールの弟子の優秀な研究者であった。ラトゥールは、彼の上の世代である脱構築の哲学者達を徹底的に批判した。脱構築の哲学こそ、西欧というシステムの根底にある人間中心主義そのものだといって否定した。彼は人と物とが対等な形で、協働する状態に注目し、人間中心主義を超克しようとしたのである。人は純然たる主体でなく、非人間の物達もまた、純然たる客体ではなく、それらは共にアクターとして、世界というネットワークを構成しているよいうのがラトゥールのアクターネットワーク理論、略してANTである。ソフィは、西欧的な人間中心主義設計システム————僕の言葉でいえばえらそうな設計————にかわる新しい方法を捜しに、田舎で物と格闘する僕のところにやってきたのであった。

 その一年間にわたる観察を彼女は、「小さなリズム」(フランス語版・英語版二〇〇九年、日本語版二〇一六年)という書物にまとめたのである。僕は彼女からラトゥールを紹介されてラトゥールと直接対話し、僕が九四年の後にたどった軌跡の意味を、はじめて自分なりに理解することができた。頭から卒業して、物と頭の間を掘り下げようとする『新・建築入門』以降の僕の田舎巡り、田舎オデッセイは、西欧的な人間中心主義を脱却して、新しい、非西欧的な人間と物のネットワークを具体化しようとする試みだったのである。ソフィやラトゥールと知り合えたことで、僕の前に新しいマップが見えてきたのである。」

【目次】
まえがき
第一章 建築の危機
1 すべてが建築である/2 脱構築=脱建築
第二章 建築とは何か
1 物質/2 シェルター/3 空間
第三章 構築
1 洞窟/2 垂直/3 構造
第四章 構築と拡張
1 多柱室/2 比例/3 台座/4 ルーフ/5 視覚補正
第五章 構築と自然
1 生贄/2 植物/3 身体
第六章 構築と主体
1 家型原型説/2 外部対内部/3 光による統合
第七章 主観対客観
1 主観的救出と客観的救出/2 ローマという統合/3 ゴシックという主観
第八章 建築の解体
1 透視図法/2 書き割りとテクノロジー/3 絶対的な主観
第九章 普遍の終焉
1 普遍対逸脱/2 新古典主義/3 幾何学と自然/4 自然と崇高
第十章 建築のモダニズム
1 自然の逆転/2 社会の発見/3 理想都市とマルクス/4 構築の否定とミース/5 構築を超えて
文庫版あとがき ―― 歴史を乗り越えた

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