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『スピン/spin 第1号』

☆mediopos2874  2022.9.30

河出書房新社が2026年に
創業140周年を迎えるカウントダウン企画として
16号限定で季刊誌『スピン/spin』が創刊されたが
そこには「日常に「読書」の「栞」を」とある

なぜスピンが栞なのか
恩田陸による「創刊エッセイ」によれば
(それではじめて知ったのだが)

スピン(spin)はもちろん回転・旋回することだが
製本における「専門用語」で
洋装本で本の背表紙の上部に付けられている
「栞しおりとして用いるひも」のことだという

しかしスピンを「栞ひも」の意味で使うのは日本だけ
なぜそう呼ばれるようになったのかはわからないようだ
たとえば栞のことを英語ではブックマークという

ちなみに「スピン/spin」というタイトルは
恩田陸がつけたとのこと
そのことについて「創刊エッセイ」のなかで
なぜスピンと呼ばれるようになったのかについて
「未読の場合スピンは、
本の中にくるっと丸めて収められている」ことから
「製本中にスピンを丸める行為から
「スピン」と呼ばれるようになったんじゃなかろうか」
と想像したりもしている

そしてここからが面白いのだが
「本来挟んで「静止させておく」栞が、
本を作る人にとっては、
「動かず、回転させる」もの」なのだ

「じっとしている時こそ、大いに「動いて」いる」
そんな「両義的な意味が込められている」というわけだ

なかなかに深い(ような気がする)

ところでほんらいの「スピン」は回転だが
サルには見られず類人猿の子供に見られる遊びに
ぐるぐるとスピン(回転)する
「ピルエット」というのがあるという

そういえば振り返ってみると
小さなころなにかうれしくなると
ぐるぐると回転したり走り回っていた記憶がある

霊長類学者の山極壽一の寄稿しているエッセイによれば
人類が二足歩行をするようになった理由のひとつに
そうした「踊る身体」の獲得があり
それが言語にむすびつき
「他者と共鳴する身体を獲得した」のだという

スピンして他者と共鳴する・・・

表紙裏にポール・コックスという画家の
絵・文が掲載されているが
彼はスピンという言葉で「渦」を連想し
トリュフォーの映画『突然炎の如く』で
ジャンヌ・モローが歌う
「Le Tourbillon De La Vie(つむじ風)」を
思い出したという

人生の渦のなかで
  くるくる回り続けた
  二人抱き合って

栞ひものスピンの「両義性」でいえば
読書という身体が動かないときにこそ
心はつむじ風のように渦巻き
情熱的に踊っているともいえそうだ

雑誌『スピン/spin』も
静かな行為としての読書のなかで
情熱的なスピンのつむじ風になりますように

■『スピン/spin 第1号』
 (河出書房新社 2022/9)

(ポール・コックス 訳=伏見操)

「『スピン(spin)』という言葉に、ぼくは「tourbillonnement(渦)」を連想し、トリュフォーの映画『突然炎のごとく』で、ジャンヌ・モローが歌う「Le Tourbillon De La Vie(つむじ風)」を思い出しました。

人生の渦のなかで
  くるくる回り続けた
  二人抱き合って

二人の間にある空白は、燃える情熟を表す唐辛子のようでもあるし、フランス語で「籠に入った愛」とも呼ばれる。ほおずきのようでもあります。」

([創刊エッセイ] 恩田陸「スピン/spin」より)

「本の装幀というものに長らく興味を持っていて、ブックデザインの本を集めるようになり、帯、見返し、化粧扉、小口、花布など、いろいろな用語を覚えた。それらは感覚的に理解できる納得のネーミングだったのだが、ひとつだけ謎の用語があった
「スピン」である。本のてっぺんに付いている、栞の紐。なんだってまた、布のひょろっとした紐が「スピン」なの?
 通常、「スピン」といえば、「回転」のほうだと思うだろう。フィギュアスケートの「ビールマンスピン」とか「レイバックスピン」とか、氷上で選手がくるくる回っているところが目に浮かぶ。あるいは、爆走するF1マシンがコーナーを曲がり切れずにスピンしてクラッシュ、とか。少なくとも、本の栞は顔に浮かばないし、実際、これは日本独自の呼び方で、しかもなぜそう呼ばれるようになったのかは不詳だというのである。
 最近になって、ふと思いついたのは、未読の場合スピンは、本の中にくるっと丸めて収められていることだ。スピンが外に出ていれば、それは読書中というサイン。昔は製本のほとんどの行程を手作業でやっていただろうし、もしかして、製本中にスピンを丸める行為から「スピン」と呼ばれるようになったんじゃなかろうか。「それ、スピンしといて」なんて指示していたりして。本来挟んで「静止させておく」栞が、本を作る人にとっては、「動かず、回転させる」ものである、というところが面白い。
 人間はぼーっとしている時に、最も活発に脳が活動しているのだそうだ。じっとしている時こそ、大いに「動いて」いる。「スピン」という言葉に、日本ではそういう両義的な意味が込められているのだと思うと、ちょっと愉快な気持ちになる。」

([特別寄稿 山極壽一「踊る人類」〜「類人猿の遊び、ピルエット」より)

「類人猿の子供特有の遊びに、ピルエットがある。
 ピルエットとはぐるぐるとスピン(回転)することだ。この遊びはサルには見られず、類人猿にしか見られない。社会学者のロジェ・カイヨワが分類した四つの遊びの中で最も自由な、浮遊感に満たされた冒険的な緊張に包まれる遊びで、類人猿が人間に向かうにつれてこの遊びは拡大し、ダンスという音楽的な才能と結びついていった。私は人類が直立二足歩行を始めた理由の一つに、この「踊る身体」の獲得があったと考えている。
 二足で経つと支店が上がり、上半身と下半身が別々に動くので、ぐるぐる回ってダンスを踊れるようになる。四足歩行だと手に力が入り、腕に圧力がかかって自由に声を発することができない。しかし上半身がその圧力から解放されると喉頭が下がって様々な声を出せるようになる。そうやって人間は音楽的な発生が可能になり。最終的には言葉に結びついていく。言葉を獲得する以前の意味にならない音楽的な声と踊れる音楽的な身体が組み合わさり、人類は他者と共鳴する身体を獲得した。この身体の共鳴こそが共感力の始まりで、そこから人間は共感力を高め、社会の力を拡大していった。」

◎ジャンヌ・モロー「つむじ風」(『突然炎のごとく』)
Jeanne Moreau-Le Tourbillon De La Vie (in Jules et Jim)

Elle avait des bagues à chaque doigt,
Des tas de bracelets autour des poignets,
Et puis elle chantait avec une voix
Qui, sitôt, m’enjôla.

Elle avait des yeux, des yeux d’opale,
Qui me fascinaient, qui me fascinaient.
Y avait l’ovale de son visage
De femme fatale qui m’fut fatale
De femme fatale qui m’fut fatale

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