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伊藤潤一郎「連載 投壜通信 3.岸辺のアーカイブ」 (群像 2022年 06 月号)

☆mediopos2741  2022.5.20

本を読むのが趣味なのかと問われれば
そうではないと答える

書くことが好きかと問われれば
好きだと思ったことはないと答える

なぜ毎日のように本や記事を紹介しているのか
そう問われれば
じぶんでもよくわからないのだが
だれにも届かないかもしれない投壜のように
未知のだれかのアーカイヴになることを
どこかで望んでいるのかもしれないと答える

本を買い求め蔵書があふれてしまう状況を
否応なくつくりだしてしまっているのは
それらの本の「潜勢力」がどこかで
いまはまだじぶんでもよくわからない
未知のじぶんに働きかけたい
そう願っているからなのだともいえる

昨今は「断捨離」がブームだが
すぐに役立つものや必要なもの以外を
「断捨離」によって捨てているのは
そんな未知のじぶんへの「投壜」を
捨てていることにもなるのかもしれない
いまここにいるじぶんしかいない
じぶんの知らないじぶんの「潜勢力」をも
「断捨離」してしまっているのだ

本だけのことではない
あらゆるものは
じぶんの未知の潜勢力をひらく
可能性を有している

そして潜勢力のひらかれる準備のできたとき
どこかから「呼び声」のような
「投壜通信」が届けられる

書店にでかけたときは
じぶんを呼んでいるような
そんな本を探しているところがある
呼ばれることがいつもあるわけではないが
いまじぶんにとって理解できない内容でも
呼ばれたときには応えなければならない

そしてこうして毎日のように
その「呼び声」から聞こえてきたものを
「投壜通信」のように海に投げ入れている
ひょっとしたらこの「投壜通信」が
だれかの「呼び声」になるかもしれない
そう思いながら

■伊藤潤一郎「連載 投壜通信 3.岸辺のアーカイブ」
(群像 2022年 06 月号 講談社 2022/5 所収)

「「ご趣味は何ですか」
 最近、久しぶりにこの質問に出くわした。何年も訊かれたことがなかったので、正直なところかなり戸惑い。一瞬言葉に詰まってしまった。

(・・・)

 けれども、答えは思わぬところに転がっていた。妻によれば、私の趣味は「本を買うこと」だというのである。たしかに言われてみれば、買い物に出たときは必ず駅前の書店で新刊をチェックし、大学に行けば生協の書籍部に寄り、旅行に行くときにまず調べるのはその土地の書店と古本屋、毎日の日課は「日本の古本屋」とお気に入りの古書店のサイトを巡回することとくれば、毎日どこかで本を買うタイミングを探しているようなものだろう。とはいえ、世にいう「書痴」と比べたら私など大したことはないと思うのだが、家のなかで蔵書が生活スペースを侵食するほどまでに膨れ上がっていることはまちがいなく、生活費を差し引いて残った私費のほとんどを書籍購入に投じていることも否定できない。

 「本を買うこと」という妻の答えのポイントは、「本を読むこと」ではないというところだ。本を買うことは、買った本を読むこととけっしてイコールでは結ばれない。だいたい、いま家にある未読の本をすべて読むだけでも残りの人生では絶対に足らないだろう。それにもかかわらず、今日も私はせっせと新たに本を買い集めている。だから当たり前のことだが、本を最初から最後まですべて読むものだと思っているひとつ話すとまったく話が合わない。「いまあるものを読めばいいじゃない」とか、「本は全部読み終わってから次のものを買うべきだよ」などと何度も言われたことがあるが(妻から言われたことはない)、その度に面倒くさいので「はいはい、まあ、でもそういうものではなくてね・・・・・・」と適当に流してきた。けれども、真面目に答えるなら、すべての本を読むために買うと思っているひとは、結局のところ本を有用なものだと考えているのではないだろうか。もう少し正確に言うと、そのようなひとにとっての本とは、現在の自分の価値観にとって使えるものにすぎず、いまの自分にとっては理解できない本やこれから先の自分にとって価値をもつかもしれない本、自分の手持ちの価値観を破壊する可能性を秘めたような本は買うべきものではないのである。もちろん、時間の経過とともにひとりのひとが何を大事と思うかは変わっていく。そんなことは誰にでもわかるはずなのに、こと本に関してはいま読んで意味のあるものだけを買って所有すべきだ(そして、必要がなくなったら売ればよい)と考えているひとは思うのほか多い。昨今の断捨離ブームなど、私からすると正気の沙汰ではないが、これほどまでに書店にハウツー本や賞味期限の短かそうなタイトルが並んでいる現状に鑑みれば、大多数の本は読み捨てられるために存在しているのではないかとさえ思えてくる。いまや多くのひとが本に求めているのは、何らかの目的のために役立つ有益な情報か、暇つぶしになる一時的な楽しみや快楽なのかもしれない。」

「完全に読み終えることができないという本のこの特性は、別の言い方をすれば本には無限の可能性が秘められているということである。読み手とのその時々の関係性のなかで、一冊の本はさまざまな姿をとって現れる。本連載のテーマである投壜通信も、本がこうした可能性をもった存在であればこそ生じる現象だ。けれども、(・・・)現在の本を取り巻く状況は、本からそうした可能性を削り取る方向へと進んでいるようにみえる。一度読んでそれで終わりとなるならば、本はたんなる消費物であり、汲めども尽きぬ可能性を蔵した、完全なる消費につねに抗うものであることをやめる。本は人間を必要としないものではなくなり、人間のためにただただ仕えるものとなってしまうのである。

 それに対し、ひたすら溜め込まれた本や書類は、人間にとって有用なものであることをやめ、果てしない可能性としてそこに存在している。役に立つかもしれないし、役に立たないかもしれない。それらすべての可能性を秘めて、家の中にも外にも本は溜まっていく。しかし、たいていの場合、可能性は現実化という基準による選別被っている。現実になるべきものはよい可能性、現実になるべきでないものは悪い可能性というように、暗黙の裡に可能性の選り分けがおこなわれているのである。「子どもには無限の可能性がある」という陳腐な言葉の裏には、よい可能性だけが現実化されるべきという前提が隠れていないだろうか。子どもが未来において現実化しうるありとあらゆる可能性がそこで本当に肯定されているだろうか。おそらくそうではないだろう。社会の既存の価値観に沿った可能性だけを子どもに期待しているとしたら、そのときの可能性とは、「よい」可能性のことなのであり、可能性のなかにいつのまにか価値判断を忍び込ませていることになる。こうした可能性の選別が、ときにきわめて抑圧的で暴力的なものとなりうることはいうまでもない。(・・・)「ひとつの生は。潜在的なものしか含まない」と語るドゥルーズにしろ、「人間は、いかなる同一性や働きによっても尽くされることのない純粋な潜勢力の存在である」と述べるアガンベンにしろ、現在の視点から整序されたのではない可能性を問うているのはまちがいない。アガンベンは『書斎の自画像』で、「書斎=アトリエは、潜勢力————作家にとっては書く潜勢力、画家や彫刻家にとっては描き彫る潜勢力————のイメージである」とも述べているが、本や書類を集めて捨てないということは、現実に役立つという狭隘な視野から解き放たれた可能性を存在させることを意味している。端的にいえば、蔵書やアーカイヴとは潜勢力なのである。

 投壜通信は、こうした潜勢力としての蔵書やアーカイヴがなければ起こりえない。言葉が記された本や紙片が残っていればこそ、あらんかぎりの時間と空間を隔てたところからであっても言葉は私のもとに漂着することができる。

(・・・)

 アーカイヴのない世界があるとしたら、それは岸辺を欠いた世界に等しい。船上から海へと投げ入れられた壜は、いつかどこかの岸辺に流れつくわけだが、もし岸辺そのものがなかったとしたらどうなるだろうか。壜は波間をあてどなく漂いつづけ、多くは海の藻屑と化し、拾い上げられる確率はきわめて低くなるにちがいない。岸辺は、いつか誰かがそれを手に取るまで壜を保存するアーカイヴなのであり、打ち上げられた壜はそこで誰でもよいあなたが現れるのを待っている。個人の蔵書であれ図書館であれ、誰にも把握しきれない潜勢力としてそこに存在する書物は、ある日ふとした瞬間に「あなた」へと届き、壜を拾い上げて手紙を読んだ当人を変化させる。書架から溢れて床に積みあがった本のなかには、いまは届かなくとも、いつの日かまさにこの私へと届く壜があるかもしれない。その可能性を信じることは、私自身の変容を肯定することなのである。だから今日も私は、岸辺のアーカイヴを広げるべく書店へと向かうのだ。」

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