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赤坂憲雄・藤原辰史(写真=荒井卓)『言葉をもみほぐす』

☆mediopos-2288  2021.2.20

言葉を使うのは恥ずかしい

学校でいちばん嫌だったのが作文で
次に嫌だったのがホームルームのような
きれいごとばかりの議論の場だった

思ったこと考えたことを
そのまま言葉にすることはできないのに
作文では思った通りに書きなさいといわれる
嘘を本当だと思い込みなさいというようなものだ

小学校のときだけれど
どうにも言葉を使うのが気持ち悪くなって
作文に△や○などの記号だけを書いたまま
なにも書けなくなったこともある

伝えようとすればするほど
言葉は肝心なところからどんどん逸れていくばかり
それなのに黙っていることは許されず
言葉を使うことが強要される

言葉を使うという恥ずかしさと恐ろしさは
ほんとうのところいまだ消えることはない
言葉は伝えるよりもねじ曲げ隠すものだからだ

本がそれなりに読めていたのは
そこに書かれてあるのは
言葉を使うことが強要されないことだからだ
しかもそのお話のなかから
嘘を超えたなにかを得ることもできた

数十年ものあいだ言葉を使う仕事をしているし
人前でプレゼンテーションをしたりもするので
ひとからはそうは見られないだろうけれど
いまでも言葉を使うことはずいぶん恥ずかしくて
ときどき声が詰まって出なくなってしまうほどだ

なんとかそうしたことを誤魔化せているのは
言葉を超えようとするためには
むしろ意識的に言葉を身につけることが
必要条件だと気づいてからのことだ
まだまだほんの入口ではあるけれど
それ以来それなりにこうしてなんとか
言葉を書いてみることもできるようになった

ご紹介している本からの引用にも
「コトノバ」という表現があるように
言葉なきものの土壌に身を置いてみることもだいじだ

言葉はそのままその言葉なのではない
言葉はいまだ言葉なき「コトノバ」という
大地の深みから芽吹いてくる

「コトノバ」という土壌では
菌の世界の変幻自在の不思議曼荼羅のように
「あやしいものたち」のさまざまな交歓が行われている

言葉に疲れたり声が塞ぎがちのときは
言葉の世界からしばし離れて
そんな不思議曼荼羅に戻ってみることにしている

こうして毎日書いているときにも
その前には短い時間でも必ず不思議曼荼羅に戻り
そこで言葉の源へ源へと下ってみることにしている
そうすることではじめて
その不思議曼荼羅のなかから「コトノバ」の力を
「言」の「葉」のなかに取り戻すこともできるから

■赤坂憲雄・藤原辰史(写真=荒井卓)『言葉をもみほぐす』(岩波書店 2021.2)

(藤原辰史「「言の葉」と「言の場」」より)

「言葉に関心がなかった頃の記憶がよみがえる。」
「さらに記憶をたどってみると、言葉を交わすことや本を読むことの原初的な恥ずかしさに突き当たる。恥ずかしい、というのは変な気持ちだけれど、これが一番ぴったりしている。わかっていること、あたりまえのこと、心に秘めていること、迷っていることをわざわざ言葉にして表現する「わざとらしさ」に、生理的な嫌悪感を覚えていたと思う。作為への潔癖症的な忌避というべきか。以上のように、言葉嫌いの季節が私のこれまでの人生の半分を占めていたことに、本を書く身となったいま、愕然とする。いまの私にとっておよそ本のない生活、会話のない生活は考えられないからだ。
 このような、できれば蓋をしておきたかった記憶を、赤坂さんは掘りおこしてしまった。」

「言葉嫌いの時代を生きる私たちは、いったん言葉に追い縋ろうとすることの虚しさを舐め尽くしてみなければどうにもならないのではないか、といまは思う。そして、それでも言語行為を遂行するならば、その恥ずかしさの根源に戻らなければならない。大野晋、佐竹昭弘、前田金五郎編集の『岩波国語辞典補訂版』(岩波書店)で「言葉」の項目を引くと、私の抱いた作為への恥ずかしさの理由が少し書かれてある。「語源はコト(言)ハ(端)・コト(言)のすべてではなく、ほんの端(はし)にすぎないもの。つまり口先だけの表現の意が古い用法」。しかし、コトが言だけでなく、事も指すようになると、次第に「言葉」が「口頭語」の意味を表すようになる。」

「私が感じていたかもしれない恥ずかしさとは、勇気を振り絞っていえば、もしかすると「端」に過ぎないもので全体を代表させるなよ、という若者特有の潔癖症と、「コトノハ」を振りかざす「平安貴族」へのやんごとなき抵抗感が根源にあったのかもしれない。」

「赤坂さんは往復書簡で、私と、そして読者にやや遠慮がちにコトノバを開いてくれた。」
「このコトノバには、背景の異なる人たちや生きものたちを出会わせるころができる。出会うのが難しくても、併存させることができる。コトノバに言葉は必ずしも必要ない。言葉を出すことに作為を感じれば、絵でも写真でもいい。それも嫌ならいるだけでいい。
 荒井卓さんは、書簡の合間に批評のように置いたダゲレオタイプの作品によって、コトバのあり方を示しているように思う。荒井さんの映し出す「もの」や「風景」は、どうしてこれほどの静寂を湛えているのか。それはおそらく観たものが何かを聞くだめだが、それだけではない。「もの」や「風景」もコトノバに参入し、耳を傾けている。方向けるだけではない。「もの」や「風景」は、人間が聴き取れない波長のメッセージをコトノバに投げかけているのである。
 そのとき、言葉は力を緩め、言葉なきものにもみほぐされ、平俗な地平に一枚一枚の葉のように降り積もり、虫や菌に食い散らされて、豊穣な土壌の一部となる。その土壌のことをコトノバだと私は考えたい。」

(赤坂憲雄「あやしいものたちの連帯のために」より)

「ひとも世界も、とりあえず、なんだかあやしい気配に満ちている。怖れる必要はない。それはむしろ、とてもたいせつな生きることへの励ましであり、可能性の種子であり、あえて言ってみれば野生からの呼び声のようなものだ。喜ばしいことには、世の中にはあやしいことがまだまだ、たくさん転がっている。とても大切な真実のかけらが、そこには詰まっているのかもしれない。あやしいものたちと出会うために、身と心をやわらかく開いておくことだ。そうして、みずからあやしい存在であり続けようと、さりげない覚悟を固めることだ。ひとに知らせる必要はない。狙われる。これはどこまでも退屈な日常の底に身をひそめながらの、愉しげなゲリラ戦である。
 あやしいものはきっと、かそけきものや小さなもの、たよりないものや名づけがたきもの、あるいは飼い慣らされることに抗うもののかたわらにいて、ときにはその仲間である。だから、けっして独りぼっちではない。ひそやかな声に対応しえくれるひとは、どこかにいる、身をひそめて見守っている。」

「この往復書簡もまた、藤原辰史さんとのあいだで、手探りに交わされた精神のレッスンではなかったか。この時代には、こうしたレッスンなしには、言葉への信頼を回復することはむずかしい。そこに、さらに荒井卓さんが絡むことで生まれてくる、どこまでもあやしい交歓の情景には、やはり心躍るものがある。
 それにしても、往復書簡という方法には、なにか捉えがたい余韻が感じられる。対談ともいくらか異なった感触がある。距離ははるかに遠く、そこで行き交う言葉はいつだって遅延する時間の傷みか哀しみのようなものを抱いて、途方に暮れている。いつしか、そっと逸れてゆく気配がぬぐえない。あやしいものたちを繋ぎ、ささやかなる連帯を促す作法として、それは再発見されることになるのかもしれな。そんなことを、ふと考える。」

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