石井ゆかり「星占い的思考 54 結晶の崩壊」 (『群像』2024年9月号)/アンジェイェフスキ『灰とダイヤモンド』/マルクス・アウレーリウス『自省録』
☆mediopos3550(2024.8.8)
石井ゆかり「星占い的思考」(『群像』9月号)は
「54 結晶の崩壊」
冒頭にはアンジェイェフスキの
『灰とダイヤモンド』が引かれている
主人公マーチェクがじぶんと同じく
ポーランドの独立のために闘い
じぶんとおなじ22歳で死んだ青年を悼んで
墓碑銘に刻まれた詩の一節
「残るはただ灰と、あらしのごと深淵に落ちゆく混迷のみなるを
永遠の勝利のあかつきに、灰の底ふかく
さんぜんたるダイヤモンドの残らんことを」
現在の日本では火葬が一般的なので
骨と灰になるのは一般的だが
火葬が一般的ではないうえに
第二次世界大戦時に強制収容所で「焼却」された人々のこともあり
「灰になる」というのはまったく別の意味合いをもっていた
「ダイヤモンドの結晶の結びつきがほどかれるように、
人生をひとつのものとして成り立たせる「なにか」が失われ、
生きることの意味が崩れ落ちる、
その絶望が「灰」だったのかもしれない。」と
さて今回石井ゆかりは
「この8月、火星と木星が双子座に同座している。」
ことに注目している
双子座の神話には
スパルタ王テュンダレオスと妃のレダの間には4つ子がいたが
白鳥に姿を変えたゼウスがレダの寝所に忍び込み
その後で王が彼女と同衾して生まれたため
4人のうち2人は神の子で不死だが
ほかの2人は人間で死すべき存在だという説がある
人間はだれもが死すべき存在だが
せめて不死の神に近づこうとでもいうのか
「死なないもの」
たとえば「子孫」「血筋」「名声」といったものを
残そうとする人たちも多い
「死んだ後も自分の業績や偉大さが語り継がれるよう、
多くの人が様々な工夫を」したりもするのである
「人生に何の意味があるか」を問い煩悶するのも
「自分が灰になった後で、何が残せるか」という問いの、
ほど近くにある。」
石井ゆかりは問いかけている
「双子座は言葉の星座である。
ジャーナリズム、本や小説、作家とも関係が深い。
たとえば作家が作品を残して死に、
その作品が長く受け継がれていくのを思う時、
私は双子座の神話を想起する。
人間は死ぬが、その分身の作品は残る。
双子の一方は死すべき存在だが、もう一方は不死なのだ。
だが、それはダイヤモンドのようなものだろうか。」
『灰とダイヤモンド』では
灰とダイヤモンドで象徴されるものたちが「並べられ、検討される」
しかしそれらは「指の間から砂のようにこぼれ落ちる」のである
「この8月、言葉が、信念が燃えている。
言葉の星座・双子座の火星(炎、闘争)と木星(権威、思想)という配置に、
白熱する議論、ジャーナリズムの闘争、宗教戦争、
あるいは焚書のようなイメージを浮かぶ。」
そして「燃え尽きたあとの灰は、風に吹き飛ばされる。」
双子座の火星(炎、闘争)×木星(権威、思想)
まさに現在進行形でさまざまな「言葉」たちが燃えさかっているようだが
おそらくそれらのほとんどは「燃え尽きたあとの灰」のように
「風に吹き飛ばされ」てゆくばかりなのだろう
「燃え尽きたあとの灰」のなかから
ダイヤモンドのような不死鳥が生まれるということはあるだろうか
それよりもわたしたちは
じぶんの「言葉」がつくりだす
火星(炎、闘争)や木星(権威、思想)に対し
それらを「燃やす」「闘う」方向から
種を植えそして育てるといった発想への
転換が求められているのではないか
「自分が灰になった後で、何が残せるか」
といった悲しい発想からも自由になる必要がある
死すべき存在であろうが不死であろうが問う必要はない
種を植えるのはじぶんの「名」を残すためではないだろう
残すのはつねに至上の「NOBODY」であるのがいい
■石井ゆかり「星占い的思考 54 結晶の崩壊」
(『群像』2024年9月号)
■アンジェイェフスキ(川上洸訳)
『灰とダイヤモンド(下)』(岩波文庫 1998/7
■マルクス・アウレーリウス(神谷美恵子訳)
『自省録』(岩波文庫 2007/2)
**(「石井ゆかり「星占い的思考 54 結晶の崩壊」より)
*「〝《残るはただ灰と、あらしのごと深淵に落ちゆく混迷のみなるを・・・・・・》。それでは。自分の知らないこの若い男が死んだあとには、なにが残ったのだろう? 灰と混迷だけなのだろうか?〟
(アンジェイェフスキ作 川上洸訳『灰とダイヤモンド(下)』岩波文庫)
第二次世界大戦の終わり、ポーランドでの僅か4日間を切り取った本作(・・・)・
引用部は本作タイトルにつながる一文である。主人公の一人であるマーチェクは、若くして戦死した兵士の墓碑銘を目にする。自分と同じくポーランドの独立のために闘い、今の自分と同じ22歳で死んだ青年。その彼を悼んで刻まれた詩の一節が、過去の殺人とこれからの殺人のあいだにある彼の心に、ふとからみつく。「残るはただ灰と、あらしのごと深淵に落ちゆく混迷のみなるを/永遠の勝利のあかつきに、灰の底ふかく/さんぜんたるダイヤモンドの残らんことを」。」
*「この一節を読んで、私はマルクス・アウレーリウスの『自省録』のことを思いだした。あの本には死をどう受け止めるとか、人間の人生がいかに儚いかということがくり返し書かれているが、そこに何度か「灰」がでてきたのである。「昨日は少しばかりの粘液、明日はミイラか灰」。「もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですらなくなってしまう」。「そのほかのことは君の自由意志の下にあろうとなかろうと、死と煙にすぎない。」最後のは「灰」ではないか、燃え尽きてしまうことを想起させる。少し調べたところ、マルクス・アウレーリウスの生きた古代ローマでは土葬、火葬のどちらもありだったようだ。一方、ポーランドでは、火葬は一般的ではなかったらしい。しかし、第二次世界大戦中、強制収容所では膨大な人数が「焼却」された。その記憶が現代を生きるポーランドの人々に、今もしばしば、火葬を忌避させることがある、とも聞く。現代を生きる日本人である私には「死ねば灰になる」ということは、ごく普通の観念だ。しかしアンジェイェフスキやその同時代人にとっては、まったく別の意味だったかもしれない。ダイヤモンドの結晶の結びつきがほどかれるように、人生をひとつのものとして成り立たせる「なにか」が失われ、生きることの意味が崩れ落ちる、その絶望が「灰」だったのかもしれない。」
*「この8月、火星と木星が双子座に同座している。スパルタ王テュンダレオスとレダの間には4人の子供がいた。カストルとポリュデウケス、ヘレネとクリュタイムネストラである。ある夜、白鳥に姿を変えたゼウスがレダの寝所に忍び込み、その後で王が彼女と同衾して、4つ子ができた。このうち、ポリュデウケスとヘレネのみが神の子で、のこる2人は王の子供だったので、前者は死なないが。後者は死すべき者、つまり人間だった。という説がある。
人間はすべて死ぬが、そのあとに様々な「死なないもの」を残そうとする。たとえば「子孫」「血筋」がそれだ。自分と似たものを、自分の死後にも継続させようとする。あるいは「名声」もその一つである。死んだ後も自分の業績や偉大さが語り継がれるよう、多くの人が様々な工夫をする。「人生に何の意味があるか」と多くの人が問う。これは多分「自分が灰になった後で、何が残せるか」という問いの、ほど近くにある。」
*「双子座は言葉の星座である。ジャーナリズム、本や小説、作家とも関係が深い。たとえば作家が作品を残して死に、その作品が長く受け継がれていくのを思う時、私は双子座の神話を想起する。人間は死ぬが、その分身の作品は残る。双子の一方は死すべき存在だが、もう一方は不死なのだ。だが、それはダイヤモンドのようなものだろうか。」
*「この8月、言葉が、信念が燃えている。言葉の星座・双子座の火星(炎、闘争)と木星(権威、思想)という配置に、白熱する議論、ジャーナリズムの闘争、宗教戦争、あるいは焚書のようなイメージを浮かぶ。燃え尽きたあとの灰は、風に吹き飛ばされる。
生身の人間を傷つけようとするとき、胸にはダイヤモンドのごとき信念や意志、理想、希望が欲しいだろう。正しさが、「意味」が必要だろう。それは、道徳なのか。仲間との連帯なのか。不正への怒りか。義務や責任なのか。生きたいという願いなのか。それとも愛なのか。よい信念と悪い信念を分けるものはなにか。本作ではこれらが並べられ、検討されるが、指の間から砂のようにこぼれ落ちる。」