高橋睦郎・谷川俊太郎「対談 雪のように溶ける詩を目指して」
☆mediopos-2337 2021.4.10
作為が見えたとき
そこから離れたくなる
どんなことも
「せぬ手立て」がいい
世の中
作為だらけの
「する手立て」ばかり
アタッチメントは重く
ひとを縛ってしまうから
デタッチメントのままに
こだわりは少ないままでいたい
人と人には「間」があるから
人間なのに
「間」がなくなると
人間であることができなくなる
真と善も
作為やアタッチメントが
あまりに強すぎるから
意味から自由な
雪のように溶ける美を夢想する
正しいことを求めるほどに不正は増え
善を求めるほどに悪は増えてしまう
真や善に縛られない美であるならば
醜さえも美へと変容するだろう
言葉は意味から自由となり
溶けたあとの雪のような
姿なき「せぬ」かたちとなるのがいい
■高橋睦郎・谷川俊太郎(司会 田原)
「対談 雪のように溶ける詩を目指して」
(『文學会 2021年5月号』所収)
「高橋/三島(由紀夫)さんは、いつもその作品の最後が見えている書き方をする。戯曲で言えば、最後のセリフが言いたいがために全体がある、ということが最初に分かってしまうような書き方です。(・・・)僕はそういった書き方だけはしたくないと思ってきた。(・・・)たぶん谷川さんもそうではないですか?
谷川/それはだいたいみんなそうなんじゃないですか。三島さんは全部最後が見えていなければ駄目な人だった。それは分かる。彼は詩の人ではなく、小説家でしたが、基本的に演劇的な思考の人でしたね。
高橋/そうですね。小説も先が見えないほうが面白いはずです。だけど、それを彼は我慢できなかった。これは谷川さんも同意してくださると思うんですけど、僕が書いていて一番幸せなのは、言葉が自分を思いもかけないところに連れて行ってくれた時なんです。
谷川/それは常に理想としてありますね。
高橋/だけど、三島さんはそうではなかった。むしろそうした状態を恐れ、不安で不安でしょうがなかったと思う。そのことで思い合わされるのが、世阿弥の能楽論です。世阿弥は「せぬ手立て」ということを言っています。ある程度年を取ってきたら、全部を言ってしまう、やってしまうのではなく、むしろ言わずやらないことの中にこそ意味があるんだ、と。三島さんは老いた自分を見ることを極端に嫌い怖れていた。だから「せぬ手立て」とは反対にすべてを言いつくしやりつくさなければ気がすまなかった。「せぬ手立て」は言い換えれば結末を偶然に委ねること。それは結末が常に分かっていなければ気がすまない三島さんとは、真逆の態度です。ひょっとしたらそれは谷川さんがおっしゃった「枯れてきている」状態と通じるのかもしれません。であるならば、それには僕は一つ大きな意味があるように思うんです。若い時にやろうと思ってもできなかったことだし、またその時にはやろうとも思わなかったことでしょうから。つまりある意味、老いての一つの知恵なんだろうな、って。」
「谷川/僕はかなり年をとってから、イギリスの詩人ジョン・キーツのよく言っていた「デタッチメント」という言葉を頻繁に使い出しました。アタッチメントは「こだわる」「くっついてくる」みたいな意味で、その反対語であるデタッチメントは「距離をおく」みたいな感じですね。つまり、あらためて自分にはこだわりというものが極端に少ないんだな、と思い至ったわけです。僕はデタッチメントというのは、夏目漱石の言っていた「非人情」と同じようなものだと思っています。不人情じゃなくて、非人情。彼は、詩とか絵とかいうのは、小説と比べて非人情の世界だというふう言っているでしょう。僕が小説が得意じゃないのは、自分がデタッチメント、非人情だからなんじゃないかな、って。人間の中に入っていって、その関係を書くなんていうことには興味が持てない。もっとも、他人に対して完全に無関心というわけではないんですけどね。ただ、自分と他人との関係ということを考えた時に浮かんでくるのは、夫婦関係みたいな形でしかない、ということはあると思う。組織に属したりしたこともないし、詩人同士の論戦みたいなものにもほとんど関わったことがない。だから他人との関係というのは、本当に女性との間にしかなかった、女性を通して世界を見てきたようなところがありますね。」
「高橋/芭蕉が晩年に到達した俳諧の理想が「軽み」でした。最後の一句は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」だった。まあ、自分で「辞世の句」と謳って作ったわけではなく、たまたま最後に吐いたものがそうだったということに過ぎないんですけれども。この句は、結構重々しく捉えられているフシがありますが、僕はむしろ軽やかな気持ちが詠まれたものだと思っています。死後の自分に想いを馳せて、そこに「かけ廻る」姿を見ているのですから。芭蕉は、本来は古典をたくさん読んできた「重い人」です。だけど、やっぱり最後は軽くなりたかった。僕も軽くなりたい。それはこれからの課題ですね。
谷川/僕は、本当はもっと重くなりたいんだけど、どうやってもなれない(笑)。
高橋/僕は、谷川さんのようになるのが理想ですよ。
谷川/まあ、人柄や、生き方の違いもありますからね。やはり子どもの頃からあった、生きる上でのデタッチメントというのが大きいのだと思います。デタッチメントは、アタッチメントに比べて軽いじゃないですか。離れるんだから。」
「——ほとんどの詩人は意味先行ですが、お二人は、ちょっと違った方向を向いているように思います。最近書かれたものに顕著ですが、特に谷川さんは、意味よりも「言葉」に生きる詩人という印象が強いです。例えば、カント依頼広く信じられている真・善・美の概念がありますが、お二人を差さているのは「真」「善」よりも、言葉における美意識なのではないかな、と。
谷川/それはそうですよ。だって僕、真とか善とか、あんまり大事に思ってないですもの。
高橋/真剣に詩に対峙している詩人はみんなそうじゃないですか。詩人は言葉を使って書いているのだから、意味よりも言葉それ自体の方がずっと大事なのは当然です。
谷川/特に今の時代はそうですよね。意味が氾濫し、ほとんど意味のない意味が氾濫しているわけだから。言葉の美しさの方がずっと確実です。
高橋/たぶん哲学なんかも、もう今、そういうところに来ていると思う。すでに意味では人を救えなくなっている。
谷川/本当にそう。」
「谷川/移り変わらない言葉と、移り変わってしまう言葉とがありますよね。自分のことで言うならば、今現在メディア上を飛び交っているさまざまな言葉とは、あまり触れ合わないようにしています。」
「音楽が持っている無意味性、「意味じゃないんだ」というところが、今になって大事になってきている。言うならば、意味よりも存在、というふうなことになるのかな。」
「高橋/僕は、わが国の近現代の詩の批評家として特段にすごいなと思っているのは、実は折口信夫なんです。あの人は、日本語の詩の最も良質のものは、それを読んだ後に「そこに何かあった」というような記憶だけがフッとあり、他には何も残らないものだ、と言っています。雪を握ったら溶けて全部なくなった、冷たかったという記憶だけが残る----そういうのが最高の詩だと言うんですね。
谷川/僕も、あの試論は本当に強く印象に残っています。
高橋/自分もそんな表現ができて、かつ自分の存在も、そうした詩の言葉のようにフワッと消せてしまえたらいいな、と夢想します。」