『パウリの夢/C・G・ユングの夢セミナー』
☆mediopos-2478 2021.8.29
パウリにはユングとの共著で
非因果的連関の原理
つまり自然現象と心の構造における
シンクロニシティについての著書がある
刊行されたのは一九五二年である
そのかなり前にパウリは
内面的に深刻な問題を抱えていたことから
ユングに(というよりユングが治療を任せた女性医師に)
夢分析を受けているが
その内容について行った
一九三六年と一九三七年のセミナーの記録が
今回『パウリの夢』として邦訳されている
パウリの夢については
すでにマンダラ象徴に関して
『心理学と錬金術』でもとりあげられているが
このセミナーはユングの臨床的な視点を
興味深く拝聴する感じで読み進めることができる
このセミナーは
河合俊雄の「監修者によるまえがき」にもあるように
ユングの思想の転回点ともなっている時期に開かれ
「西洋の伝統や西洋人のこころに根ざしつつも、
それを超えたものを目指そうとしている」ように
その後のユング思想の萌芽が見られる
ユングはパウリの記録していった
夢やヴィジョンを読み解きながら
意識と無意識の関係において
現代の西洋人の魂が
どのように個性化していくことが可能かを
リアルなかたちで示してくれている
パウリは外界へ向かう啓蒙された
極めてすぐれた知性の持ち主ではあったが
その意識されることのない無意識のなかでは
その影の部分がいわばスポイルされていて
そのことでみずからは意識できないままに
内面的に深刻な問題を抱えていたのである
夢やヴィジョンというかたちで現れている
無意識の「元型」を読み解きながら
意識と無意識のマンダラ象徴の錬金術的変容のなかで
心の全体性をとりもどす個性化がめざされている
ユングにはR.ヴィルヘルムとの共著
『黄金の華の秘密』(一九二九年刊)がある
それはヴィルヘルムのもたらした道教の瞑想書
『太乙金華宗旨』に詳細な解説を行ったものだが
それはユングがマンダラ象徴を
元型的経験としてみなす契機ともなった
ユングはそうした視点で
東洋的なものを取り込んでいきながら
あくまでも西洋人として視点ではあるが
マンダラ象徴による錬金術の研究を中心として
その後独自の展開をみせていくことになる
このマンダラ象徴という元型的経験だが
それを西洋人ではない私たち日本人が受容する際
これを井筒俊彦の「言語アラヤ識」で形成される
元型イマージュと比較してみてもみると理解が容易になる
西洋と東洋の典型となっている
意識・無意識の「元型」の相違と共通性などをふまえ
新たな時代に向けて霊性を
模索していくための一視点とするためにも
■C・G・ユング(スザンヌ・ギーザ― 編)
(河合 俊雄 (監修)・猪股 剛 ・宮澤 淳滋・鹿野 友章・長堀 加奈子 翻訳)
『パウリの夢/C・G・ユングの夢セミナー』(創元社 2021/7)
■C・G・ユング・W.パウリ(河合隼雄・村上陽一郎 訳)
『自然現象と心の構造―非因果的連関の原理』 (海鳴社 1976/1)
(『パウリの夢/C・G・ユングの夢セミナー』〜河合俊雄「監修者によるまえがき」より)
「本書は(・・・)ノーベル物理学賞受賞者であるヴォルフガング・パウリの受けた夢分析の内容について、ユングがアメリカで一九三六年と一九三七年に英語で行った二回のセミナーの記録である。パウリはユングと一緒に心理学と物理学における「共時性」の概念について一書を著していることでも知られている。パウリの夢については、ユング全集一二巻の『心理学と錬金術』のなかでもマンダラ象徴に関して詳しく取り上げられていて、特にその「世界時計」の夢は有名になっている。そのためにここで取り上げられている多くの夢も、またその解釈もすでにある程度は知られている。
しかし本書の意義は、著作ではなくてセミナーということで、ユングが自由に語っている視点やコメントが非常に臨床的であることがまず挙げられる。(・・・)さらには一九三〇年代の後半というセミナーの時期がユングの思想の転回点であって、それまでの基本姿勢と後の考え方へと萌芽の両方が認められることである。それは言い換えると、あくまで西洋の伝統や西洋人のこころに根ざしつつも、それを超えたものを目指そうとしている点としても指摘することができる。」
「周知のように、パウリから相談を受けたユングは、自分がパウリのセラピストになり影響を与えすぎることを恐れて、ある女性医師にその治療を任せる。このことは、小説家のヘルマン・ヘッセから相談を受けた際にも、自分のような強い存在がヘッセの創造的な世界を邪魔しない方がよいとして、弟子のその分析を譲ったこととも共通していて興味深い。」
「本書を読むと、ユングがいかに意識と無意識の対立、そしてそれの相補的関係を重視していたのかがわかる。そのためにはまず個としての存在になることが大切で、母親や父親からの分離、万人と同一化しないことなどが強調されている。それは教会、国家、科学と同一化しないこととしても指摘されている。そのような個、意識が無意識とつながるのがいわゆる個性化の過程として理解されており、パウリの夢もそのような背景から解釈されているところがある。その際に無意識は女性として人格化されたり、影を帯びたものとして出てきたり、三人の意識的な人物像が一人の無意識的な人格と相対することになったりする。この三対一の比率が示すように、意識の強さというのはユングの理解において絶対必要なのであり、ユングの考えていたのは主体や自我の確立を前提とした心理学であることがわかる。また意識と無意識の関係において、タイプ論における思考、感情、直観というこころの四つの機能を非常に重視していることがわかる。さらにはこころの全体像を示すマンダラでさえ、意識と無意識の対立やその交差から生まれてくるとされている。このような意識と無意識の対立関係は、ユングのいわば前期の主著『自我と無意識の関係』のパラダイムに沿っていると言えよう。意識や自我というのが実体化されて前提とされているだけでなくて、こころの全体性の法も、マンダラの中心として実体化されている。マンダラの中心は繰り返し強調されている。
それと同時に、ユングはこのような心理学がまったく西洋の伝統に基づいていることも意識している。自分の心理学においては、外に投影していたものを自分に引き戻すことが必要であるけれども、非西洋世界や前近代の世界では、それらは精霊的などとして外に位置づけられていることをはっきり理解している。また、意識を中心とした心理学に対して、東洋では「無意識的精神の原理と呼ぶような原理を発展させてきた」としている。それは意識と無意識の対立としての心理学とは非常に異なることとなる。
このような西洋の心理学の相対化は、必ずしも東洋に傾斜していくわけではなくて、それの影響も受けつつ、ユング後期の思想は、錬金術の研究を中心として独自の展開をしてく。その萌芽がこのセミナーにも見られるように思われる。」
(『パウリの夢/C・G・ユングの夢セミナー』〜「ベイリー島セミナー・第一講」より)
「私たちの意識過程は通常、無意識の構造に左右されています−−−−無意識がうまく働かないような日には、言葉が思い浮かばず、まったく話せなくなるほどです。みなさんにこうして語りかけているとき、私は言葉を出したり引っ込めたりする無意識の機能に全面的に依存しています。もし無意識が言葉を出そうとしなければ、私は言葉を思いつくことさえないのです。(・・・)もちろん、無意識がときおり機能しなくなるのには、それなりの理由があります。病理的な場合には、無意識は心の広い領域で機能を停止しるかもしれません。
さて、無意識の心が完全な暗闇ではなく、未知の物事からなる形の定まらない領域であることをみなさんはご存じでしょう。間接的な方法で、私たちはそれについていくらか知ることができます。つまり、経験という目に映る世界ではなく。どこか別のところから引き出されてきた意識内の素材を通して、私たちはそれを知ることができるのです。その情報源となる主な素材を一つだけあげるなら、それは夢です。もちろん、他にも無意識が現れることはたくさんありますが。夢は私たちが最も直接的に気がつきやすい無意識の産物なのです。」
「個人的無意識から私が理解できる内容は、かつて私たちの意識的生活の一部であったもの、忘れられたもの、抑圧されているもの、見逃されているものです。それには潜在的内容を含めてもよいでしょう。洗剤内容とは、いまは意識されておらず、いままで一度も意識されたことがなく、しかし私たち個人の人生を通じて獲得されてきたものです。こうした潜在内容がときおり大きな役割を果たします。聴覚や視覚といった感覚器官を通じて、無意識の心に、つまり個人的な潜在意識に入り込むのです。しかし、その強度が小さいため意識にのぼることはありません。心的過程が意識に到達するためには、ある程度の強度が必要とされます。その強度に達しなければ意識されることはありませんが、心の中の潜在意識には入り込みます。何かを耳院したとしても、私たちは自分が聞いたことを理解していなかったりしますね。しかし、それはあたかも聞きとられていたかのように私たちの中にあり、私たちの中では実際に作用しているのです。
これを超えた先に、集合的無意識があります。それはまったく異なった質と構造を持つもので、私たちが獲得したものではありません。私たちに生まれながらに備わっています。私たちと共に世界に現れ、脳の構造に備わって生まれてきたもので、本能の構造と同一のものです。それには本能の形式、つまり本能の機能を含んだイメージが備わっており、私たちはこの「イメージ」を元型と呼んでいます。この用語は非常に古い起源を持つものです。それはピタゴラスの著作に記されていますし、紀元前の数世紀から起源後の数世紀にわたって頻繁に使用された言葉です。後には、聖アウグスティヌスによって再び用いられて、私はそこから借用しました。」
そもそもどうして本能が存在するのかという問題については、推測の域を出ませんし、私にはわかりません。私にわかるのは、人類の精神的な活動記録をどこまで溯ったとしても、こうした元型が常に存在していることだけです。実際、プラトンの「永遠なるイデア」はこれと同じものでしょう。それは元型的な世界であり、イメージ世界であって、そのおかげで私たちはどうにか世界を把握することができ、この世界で決定的な部外者とならずに済んでいるのです。私たちはこの世界に生まれたときに、あらかじめこの世界を知っています。はじめから、内と外の間には特有の同一性があるわけです。」
「このセミナーにふさわしいテーマとして、私はそういった元型の一つを選びました。そして、ある人物が夢に見た実際の素材を提示して、そこから無意識の中の元型の生という、独特のものをお見せしようと思います。元型は生きた有機体のように、それ自身で展開し分化して、独自の生命のようなものを持っています。」
「『自然現象と心の構造―非因果的連関の原理』〜C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」より)
「共時性は物理学における非連続性ほどにはわけのわからぬ、ないしは神秘的なものではない。ただ、因果律の卓越した力に対する深い信仰心によって、知的な困難が生じ、原因のない事象が存在し、また存在したということを考えられないこととしてしまうのである。しかし、もし原因のない事象が存在するならば、つぎにわれわれはそれらを創造的行為として、つまり永遠の昔から存在し、それ自身散発的にとり返され、しかもあらゆる先行事例から推論できないようなパターンの連続的な創造として、見なさなければならない。われわれは、その原因の未知な事象をすべて「原因のないもの」と考えることに対して、もちろん、注意しなければならない。このことは、すでに強調したように、原因を考えることすらできない場合にだけ許容されるものである。しかし考察可能性は、それ自身もっとも厳格な批判を要するひとつの観念である。原子というものが、そのもともとの哲学概念とし一致しているとすれば、その核分裂の可能性は考えられないであろう。しかしいったんそれが測定可能なものであるとわかるや、核分裂の不可能性が、思考不可能なこととなる。意味のある偶然の一致は、純粋に偶然のものとして考えることができる。しかしそれら一致がもっと増えてますます大きくずっと正確な対応をみれば、それだけ純粋な偶然という公算は減じてゆき、それらの思考不可能性も増加してゆき、ついにはそれらは純粋に偶然なものとは見なせなくなり、因果的な説明の欠如のために、意味のある配列として考えねばならなくなる。しかしながら、すでに述べたように、それらの「説明不可能性」は、その原因がわからないという事実によるのではなく、原因が知的な言葉では考えることすらできないことによる。このことは、必然的に、空間と時間がその意味を失うか相対的なものになった場合のことである。というのは、そういう状況のもとでは空間と時間を連続体として前提としている因果性がもはや存在するとはいえなく、まったく考えられないものになるからである。
以上の理由から、空間、時間、因果性とならんでひとつの範疇を導入することは、私にとって筆背的に思われる。その範疇は、共時的現象を自然事象における特殊な部類として理解することを可能にするばかりでなく、偶発性を、一部には永遠の昔から存在する普遍的な要因として、また一部には時間とともに生ずる無数の個人的な創造行為の総計として、理解するのである。」