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国立民族学博物館 (監修)・川瀬慈 (編集) 『吟遊詩人の世界』〜矢野原佑史「第6章 うたが生まれる心の小道」(志人)

☆mediopos3598(2024.9.25)

国立民族学博物館50周年記念
特別展『吟遊詩人の世界』が
9月19日から開催されている(12月10日まで)

詩歌を歌い語る吟遊詩人は
中世ヨーロッパだけではなく古代から各地に存在した

この特別展示では吟遊詩人を
「詩歌の歌い語りを通して世界を異化する存在」
としてとらえ

エチオピア高原の吟遊詩人(川瀬慈)
タール砂漠の芸能世界(小西広大)
ベンガルの吟遊行者と絵語り(岡田絵美)
ネパールの旅する楽師(南真木人)
瞽女(広瀬浩二郎)
モンゴル高原の詩人達の系譜(島村一平)
マリ帝国の歴史を伝える語り部(鈴木裕之)など

「アジア、アフリカの吟遊詩人のパフォーマンスや
それらを成立させる物質文化を紹介」するとともに
「吟遊詩人を支え育んできた地域社会の人びとの息吹を」
伝えることを試みているが

ここでとりあげるのは
現代日本の吟遊詩人として位置づけられた
ラッパーの「志人(しびっと)」である

本書で紹介されている展示内容については
矢野原佑史「第6章 うたが生まれる心の小道」から
引用パートでその一部を紹介しているが
(《津和野 透韻図》《心眼銀河》《意図的迷子》)

志人は「詩的表現と音楽性の双方において、
日本古来の韻律史を現在進行形で更新しつつ、
「なつかしい未来」なるタイムレスな表現を試み」ている
という

志人の試みについては
コラム「うたは 雲を 摑むよ」に
その基本的な考え方が書かれていると思われる

鍵となるのは「韻」である

日本語詩における「韻」については
mediopos3394(2024.3.3)において

九鬼周造が晩年に論じた
「押韻論」(押韻定型詩)の影響もあり
中村真一郎・福永武彦を中心に
『マチネ・ポエティク詩集』が刊行されたが
その試みは日本語の響きの制約を克服できず
頓挫することになったこと

さらには直近での考察としては
川原繁人『日本語の秘密』に収められた
川原繁人の俵万智(短歌)及び
Mummy-D(ラップ)との対話のなかで
ラップの歌詞(リリック)が
音韻とリズムへの挑戦を行っていることをとりあげたが

まさにそのラップにおける試みとして
ラッパーの「志人(しびっと)」は
「韻が韻を呼ぶ透明な道行の謎を繙解くこと」を試みている

「詩の中の時の経過を改めて遡上してみると」
「所在不明なる誰かの声こそが、
言葉が言葉として意味を持ち、
文字として可視化される以前の「音の源」である」
「声になる以前には声ならぬ心がある」と

志人は「韻とは、言葉が文字として成り立つ以前の
形なき魂の現れであり、全世界共通の原始言語と言っても
過言では無いと考えている」といい

さらに韻は「人間の使う言語にのみ共通するものではなく、
虫や鳥、魚に微生物、水に風、土に月に太陽、
あらゆる生命、果ては無生物へさえも遍く共通するもの」として

「詩は命、命はうたっており、
その—うた—を終わらない∞の環で繋ぐのが韻であり、
韻は、消滅寸前の星の真明るさのような響きを
彼方から此方に送る。
此の世も常世も全てが音楽である。
という想いに行き着く」という

まさに志人は詩の根源にある宇宙の音楽への
「韻が韻を呼ぶ透明な道行」を旅する吟遊詩人である

いわゆる「現代詩」が
ある種の袋小路に陥ってしまっているかのようにさえ
感じられてしまうことの多い昨今だが
こうした「韻」による根源的な「道行」が
その迷路からの出口のひとつを拓き得るのかもしれない

■国立民族学博物館 (監修)・川瀬慈 (編集)
 『吟遊詩人の世界』(河出書房新社 2024/9)

**(川瀬慈「吟遊詩人————世界を異化する歌と語り」より)

*「本書は国立民族学博物館の特別展『吟遊詩人の世界』の解説書である。各地を広範に移動し、詩歌を歌い語る吟遊詩人は古代から各地に存在した。一般に吟遊詩人というと、中世ヨーロッパにおいて存在した宮廷楽師や大道芸人をイメージする方が多いかもしれない。しかしながら吟遊詩人的な存在の歌い手や語り部、芸能者は世界各地で古代から脈々と生きてきたといえる本特別展示では吟遊詩人を、詩歌の歌い語りを通して世界を異化する存在ととらえ、アジア、アフリカの吟遊詩人のパフォーマンスやそれらを成立させる物質文化を紹介する。さらに、動画や写真をふんだんに活用し、吟遊詩人を支え育んできた地域社会の人びとの息吹を生き生きと伝えることを試みる。」

(矢野原佑史「第6章 うたが生まれる心の小道」より)

*「現代の語り部として、ラッパーの志人(しびっと)に焦点を当て、彼の詩や楽曲がどのように生まれ、世に出て行くのかを紹介する。彼は、詩的表現と音楽性の双方において、日本古来の韻律史を現在進行形で更新しつつ、「なつかしい未来」なるタイムレスな表現を試みる。ここで、現代日本が倦んだ孤高の詩人の心のなかを垣間見てもらい、韻律という人類の営為を各々の胸中にて解きほぐしてもらいたい。この〝小道〟を歩いて外へ出た時、あなたの心がそれぞれの〝詩作〟へ向かっていますように。

・1 文字以前の文化としてのラップ

*「「韻律をもちいることで、伝えたい思いやストーリーを聞き手へと巧みに伝える」という人間文化は、世界じゅうの古典叙事詩でもみられるし、文字が誕生するずっと以前から存在したと考えられる。この気の遠くなるようなむかしから脈々と紡がれてきた韻律史のなかでもっとも若い形態は、現在世界じゅうで流行している「ラップ」である。ラップは、“最新スタイルの衣服”をまとってはいるが、じつはその身は「もっとも古い人間文化のひとつ」なのだ。」

*「ラップをおこなう者のことをラッパーとよぶ。また、ラッパー同士が輪となり、同じ音楽の上で互いのラップを途切れさせずに披露し合う場を「サイファー cypher」とよぶ。日本文化における韻律史と照らし合わせるなら、ラップは連歌のようでもあり、ラッパーとはまさに現代の連歌師とよべる存在である。韻律は太古のむかしから世界じゅうに存在してきたものであるし、ヒップホップという綜合カルチャーはまちがいなくニューヨークの若者たちによって生み出されてきらものであるとしても、ラップ自体は日本の古典的民衆芸能にも接続され得るものである。ここ日本においても、あらゆる階級の人びとが、各々の心に仕舞うに仕舞えぬ感情・感動・痛みを詩(うた)にして伝えてきたのである。

 本展示では、現代日本において達人の領域にあるラッパーたちのなかでも孤高の位置にいるアーティスト/吟遊詩人である志人が生んできた作品とそれらが生まれるまでの軌跡をたどる。そこから、ヒトという生物が韻律(うた)を生み出すという営為を来場者とともに解きほぐしてみたい。」

・2 現代日本の吟遊詩人————志人

*「志人は、1982年に東京・新宿で生を受けている。

 私が志人を初めてみたのは、2003年のうだるような暑さが続く真夏に開催された「B-Boy Park」のフリースタイル・バトルというイベント予選会場となった東京恵比寿EBis303というイベント・ホールだった。(・・・)次から次へと入れ替わり立ち替わり出てくるラッパーたちのなかで、志人がみせたパフォーマンスは明らかに他と一線を画していた。荒波のように繰り出されてゆく圧倒的強度をもった即興のラップ・テクニックと、独特な言語センスが矢継ぎ早に展開されていく世界観をもったこのラッパーを目の当たりにしたとき、私は彼を若くして世を見捨てた仙人であると認識した。」

「その後、彼自身や彼の所属するTempleATSの作品群をチェックしてみると、日本社会の冷たい体の顔への辛辣な批判とともに、きっと日本語による韻律でしか描けないのであろう「現代日本の時の流れ」をしかいとそこに刻印していた。世間が感知せぬうち、東京の片隅で暮らす若きラッパーたちは、日本語詩が表現しうる詩性(リリシズム)の可能性をラップというツールをもちいて拡張していたのだ。」

「彼が世界をみとおす眼(レンズ)は、17年前の一人の若きラッパーが大都会の排気ガスを掻い潜って世界を捉えようとする血眼(たま)から、そのスケールを桁違いに拡張させていて、もはやそれは地球という球(たま)にまで変化を遂げてしまったかのようであった。その後、私は彼の過去の作品群を聴き直すことになるのだが、そこでようやく気付いたことがある。「とっぴんぱらりのぷぅ」に充満している普遍的日本の郷愁は、じつは2003年の志人が残した冷たい社会描写の根底にも漂っているのである。この詩人の魂の核では、まちがいなく「なつかしい日本」の姿が現在進行形で未来へ向けて躍動しているのだ。」

・3《津和野 透韻図》

*「本展示について入口から順に紹介」

「まず、あなたが本展示空間に足を踏み入れて、最初に対峙することになるのは、正面の壁いっぱいに広げる夜空のように白黒反転した原稿用紙である。その暗闇のなかで光るのは、韻という縁で結びつけられた言葉たちである(写真参照)。これらは「透韻図」という志人が編み出した韻律を解析する手法によって“発見”された星座たちである。今回の展示では、ふたつの詩の透韻図が壁に大きく転写されており、ひとつは「津和野」、もうひとつは志人がある精神病を抱えた若き小説家と便りを重ねるうちに生み出した「幻肢疼夢(げんしとうむ)」の透韻図である。」

・4《心眼銀河》

*「あなたが透韻図の夜空を抜けると、次に対面するのは、《心眼銀河》の世界である。

 《心眼銀河》は、2024年4月時点での志人の最新アルバムである。本作のインストゥルメンタル制作、作詩、レコーディング、歌詞本(志人は「可視本」とする)の企画・制作にいたるmで、すべてを志人自身の手でおこなっている。」

・《意図的迷子》

*「《意図的迷子》は、志人も所属する芸術家集団TempleATSで才能を発揮するOn Todaこと戸田真樹との共作となっている。」

・コラム1/志人「うたは 雲を 摑むよ」

*「私の人生の大半は、韻と韻の巡り合わせを旅する道行に終始していると言っても過言ではない。これまでも人生も、これからの人生も、形なき魂の聲が紡ぐ韻律によって導かれている。」

「これまでの人生がこれからの人生をつくることは時系列として正しいはずであるが、これからの人生がこれまでの人生をつくっていたということも往々にしてあることをここに認めておく。その遡上を私は「懐かしい未来」と呼んでいる。

 はじめに生まれた言葉が、後に来る言葉を呼び、そこへ辿り着くまえが詩—うた—になると解釈するのが一般的かもしれないが、後に来た言葉が、はじめに生まれた言葉へ時を溯ってゆく。つまり、どこかげ出掛けたかのように見えて、今此処へずっと帰り続けている状態、それが詩—うた—の終わりの無さ、∞なのではなかろうか。今此処にいる自分を解き明かすことは、韻が韻を呼ぶ透明な道行の謎を繙解くことと相違ない。先立っていった人の死が、今を生きる人へ生きる力を再び甦らせる事があるように。」

*「私の詩の一つにこんな詩がある。

    時(Toki)よ 距離(Kyori)を 追い(Oi)抜いて 来い(Koi)

これは韻として同じような響きを持つ部分をローマ字表記し、あえて分かりやすく書いてみているのだが、それぞれの韻に(OI)という母音が認められる。この「来い(Koi)」と告げた誰かの声は果たして誰を呼んでいたのか?

 詩の中の時の経過を改めて遡上してみると、「来い(Koi)」と呼ばれた相手は「時(Toki)」という事になる。しかし、果たして誰の声であったのかは謎のままである。この所在不明なる誰かの声こそが、言葉が言葉として意味を持ち、文字として可視化される以前の「音の源」である。この詩は、声が先にある。また、声になる以前には声ならぬ心があるだろう。声ならぬ心に触れるには、目で読むのではなく、実際に声に出して詠んでみるといい。それをどのような声色で詠むか、どのような拍子で詠むか、呼吸や間、それは三者三様であり、そこに各々の韻律が生まれる。つまりこの詩は、文字を目で追う読み詞として認められる以前に、幽(かそ)けき音としてあやふやに心の宇と宙のあわいを揺らぎ、その揺らぎを「空紙(=何も書かれていない白紙を空に見立てて私はそう呼ぶ。)」へ認(したた)める際に、私たちは心の小道を彫るように文字を刻む。文字は道、道は傷であろうか。心の痛みから—うた—が生まれることもある。現に、私達の歩む舗装されたアスファルトの道は、位牌の山といしぶみを削って出来た傷である。」

「私見ではあるが、韻とは、言葉が文字として成り立つ以前の形なき魂の現れであり、全世界共通の原始言語と言っても過言では無いと考えている。一見して何の繋がりもないように見える土地々々でも同じようなうたの韻律をした子供遊びがあることにも韻の不思議を感じずにはいられない。そして、韻は人間の使う言語にのみ共通するものではなく、虫や鳥、魚に微生物、水に風、土に月に太陽、あらゆる生命、果ては無生物へさえも遍く共通するものであるとの考えの下、詩は命、命はうたっており、その—うた—を終わらない∞の環で繋ぐのが韻であり、韻は、消滅寸前の星の真明るさのような響きを彼方から此方に送る。此の世も常世も全てが音楽である。という想いに行き着く。」

*「殊に、私の詩(うた)の声の主は人間では無い場合が多い。その声の主は、虫(Mushi)であったり、星(Hoshi)や鳥(Tori)、黄泉(Yomi)であったりする。その声が「おーーい(Oooi)」と此方(Konata)から をち(Wochi=彼方)へ向け、其方(Sonata)を呼ぶ。木霊する山彦のあちら側からの聲であろうか。何者かになりかわり、憑依(Hyoui)した聲(Koe)が声(Koe)を超え(Koe)る。私の詩の多くは「無私の世界」である。

———— 無い私(Nai Watashi)と書き無私(Kaki Mushi)
   かきむし(Kakimushi)る体(Karada)は空だ(Karada)————

韻と韻の巡り合わせを旅する道行は果てしなく、終わりが来ない。僕らはどこに帰り続けるのだろう? 音の郷と書いて「響」、「満点星」と書いて(ドウダンツツジ)」と詠んだ人を思う。

 いったい何の話をしているのだろうかと思われる読者の方が殆どであろう。まったくもって雲を摑むような話である。しかし私は、そんなあなたにうたうだろう。「うたは(UAA) 雲を(UOO) 摑むよ(UAUO)」と。たとえ他人から雲を摑むような無謀な愚行だと一蹴されたとて、あえてそれを自分の中にある特異なる個性として認め、君だけの銀河系を後世に語り、うたい、つないでいったもらいたいと願っている。まちがい(AIAI)が巡り巡って愛らしい(AIAII)とさえ思える旅立ち(AIAI)の日は近い(IAI)。

———— 後世に残せそれぞれの個性」

◎国立民族学博物館
みんぱく創設50周年記念特別展
吟遊詩人の世界
開催期間:2024年9月19日(木)~2024年12月10日(火)

◎「「津和野」朗読」
声・志人/2024年収録

◎映像:「YUYAKU」
制作:志人/2022年再セク
音声:『心眼銀河』より「玄」+「夢遊趨」
制作:志人/2021年制作


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