『自在化身体論/超感覚・超身体・変身・分身・合体が織りなす人類の未来』
☆mediopos-2290 2021.2.22
科学技術はわたしたちの広義の「身体」を
拡張させるものとしてとらえることができる
「足」や「手」や「目」など
私たちの通常の身体のもっている
諸能力を拡張させるだけではなく
欠損した身体機能を補完もしてくれる
さらにはAIのような
思考機能を代替・補完してくれるような
そんな技術も進展を見せているし
ヴァーチャルな技術によって
あり得ない知覚などさえつくりだすことさえできる
またインターネットは
物理的に離れた場所をつないでくれるように
ある意味で時空を拡張・変容させる技術でもある
そんな科学技術が夢の未来を開いてくれる
かつてはそんなことを臆面もなく語れる時代もあったが
現代ではその夢は明るいだけのものではなく
悪夢ともなり得ることも知られる時代となっている
科学技術がどんなに便利な生を可能にしたとしても
副次的に起こってしまう弊害や危険性から
目を逸らすことはできなくなっているのだ
けれども科学技術は文明全体を破壊するような
決定的で大規模なカタストロフが進むことがなければ
ますます先へと進んでゆくことになるはずだ
そんななかで重要になってくるのは
「自在化身体」によって可能になることが
両義性をもっているという視点をもつことだろう
便利さや効率そして経済性などばかりがクローズアップさて
それにともなって変化させられたり損なわれたり失われたりする
そんな側面があることは見落とされやすい
たとえば「足」や「手」を補完する技術は便利になる反面
「歩く」ことや「つくる」ことにともなう
人の可能性を損なってしまうことにもなる
通常の歩行能力や創造能力などの側面はもちろんだが
それらを超えた魂の能力への関わりを
技術がどのように変えてしまうかという視点は
現在ではまだほとんど考慮されることさえない
わたしたちは「からだ」をもって生まれてくる
その意味をほんとうに知ることはむずかしいけれど
そうした問いをなくしたところで
「自在化身体」を押し進めた先に待っているのは
ひょっとしたら「からだ」のカタストロフなのかもしれない
また人間がじぶんの「からだ」の部分を
ひとつひとつ機械に置き換えていくとしたら
どこでその人間はじぶんでなくなってしまうのか
それともぜんぶ機械になっても
あいかわらずじぶんだといえるのか
そのこともどこかで問い続けなければならない
本書では「身体」の未来について
一歩進んだところでの試みが紹介されているが
その「反面」について語られることはない
未来を語ろうとするならば
その視点を避けて通ることはできないはずなのだが
それは「自在化身体」の研究領域を超えているのだろう
「光」が生まれるとき
そこに「影」もまた生まれる
光と影のなかを生きるそのなかで
見えてくるものから目をそらさずにいること
それがまずわたしたちにできることなのかもしれない
■稲美昌彦ほか
『自在化身体論/超感覚・超身体・変身・分身・合体が織りなす人類の未来』
(NTS 2021.2)
(稲美昌彦)
「この100年で自動車や航空機といった移動・輸送手段、化学プラントや製造機械などの生産手段、コンピュータやインターネットがもたらした情報新技術が、次々に世界の隅々まで行き渡りました。
これらの産業の興隆を総括すると、人々を「脱身体化」する動きだったといえます。もともと人間の肉体が担っていた労働を機械に置き換えていくことが、工業化のそもそもの目的でした。数々の機械の登場は、身体を酷使する苦役から人間を解放しました。さらには20世紀後半に台頭した情報通信技術が、人々の思考やコミュニケーションを肉体の制約かた切り離します。新型コロナウイルスの蔓延に情報技術の進歩が間に合ったからこそ、場所や時間を問わない働き方が普通になったともいえます。
ただし今回のパンデミックは、行き過ぎた脱肉体化の弊害も浮き彫りにしました。一日中部屋にこもって仕事をする閉塞感は、ネットワーク化した触れ合いがあっても、時として人の心を蝕みます。(・・・)たまには顔を付き合わせ、直接会いたくなるのが人間です。人の心は肉体と不可分であり、身体を置き去りにした情報通信技術のままでは、個人や社会の存在の根幹に不協和音を響かせかねません。
それでも時計の針は逆には戻りませんし、戻す必要もないでしょう。脱肉体化の100年を経た我々は、情報通信技術が日常の隅々まで根を張った時代に、どのような身体がふさわしいのかを見いだすことで、困難を乗り越えられるはずです。それを試みる研究こそ、私が率いる「稲美自在化身体プロジェクト」に他なりません。」
「プロジェクト名にある「自在化身体」が、我々が考えるこれからの身体像です。高度に情報化された日常の先に人々が見出す新しい身体は。生まれもつ自身の肉体だけに限りません。我が意のままに振る舞うロボットや。情報通信が織り成すバーチャル世界のアバター、あるときは複数の身体のチームを同時に操り、別の場所では大勢の仲間と1つの身体をシェアする。人々は物理空間とバーチャル空間を縦横無尽に行き来しながら、幾多の身体を自らのものとして自由自在に使い分けることが可能になるのです。」
(稲美昌彦)
「自在化身体プロジェクトの核を成す概念として、「行為主体感(Sense of Agency)」や「身体所有感(Sense of Body-Ownership)」があります。(・・・)前者はロボットやアバターの行為を自分がしたものと感じられるかどうか、後者はこれらの身体を自分の分身と感じられるかどうかを意味する言葉です。2つの条件が満たされれば、人は肉体の外部にある存在でも、自分の一部とみなすことができます。
ここでちょっと視野を広げて、これらの概念をより広い目で捉え直してみましょう。身体に限らず「所有すること(Ownership)、すなわち「私のもの」とは、そもそもそういう意味でしょうか。最近の消費動向と照らし合わせると、例えば「私のもの」とは「自分が使いたいときに使えるもの」という解釈が成り立ちます。こう考えれば、カーシェアなどのシェアリングサービスは所有の一種とみなせます。情報技術を活用して適切にスケジューリングすることで、同じものを複数の人で所有することを、シェアリングと呼ぶわけです。
ここで主張したいのは、我々が手がける自在化身体プロジェクトは、世界で現在進行中の経済活動のダイナミズムと地続きであるとくことです。シェアリングエコノミーが大きなうねりとなって世の中を覆うとしたら、ロボットやアバターといった物理的に自分の外にある身体はもちろん、自分自身の肉体さえ、時と場合に応じて他人とシェアすることが普通になるのかもしれません。
外部にある身体も自分の一部として所有し、行為に及ぶということは、間に介在する情報空間を通して、行動が常にデジタル化されることを意味します。プライバシーの問題をひとまず棚に上げて考えると、自在化身体があまねく行き渡れば、個人の行動すべてが、記録され見える化される世界が来るわけです。
このことがもたらすインパクトは計り知れません。1人ひとりの趣味嗜好のモデル化、個人や社会の行動パターンの解析など、多様な応用の可能性が開けます。経済活動の観点からすれば、家事や育児、介護といった、家庭に埋もれて報酬につながらない労働、いわyるう「シャドーワーク」にも光が当たります。その実体がかつてない規模で明らかになれば、人間の経済活動とは何か、その根本概念すら揺らぐかもしれません。
自在化身体を通して人の行動の理解が進めば、その先には人の行動を誘導する可能性が見えてきます。人に行動を強制(エンフォース)するじとは人権を踏みにじる行為ですが、例えばイベントに集まった群衆をスムーズに帰宅できるように導くなど、人々の行動を適切に変容させることは。社会に大きな利益をもたらす可能性があります。
実際、2017年のノーベル行動経済学賞を受賞したシカゴ大学のリチャード・セイラー教授は「ナッジ(nudge)」という概念を提唱し、人々を「軽くつつく(nudge)」手段を取ることで、経済的な選択を好ましい方向に変えられることを示しました。例えば複数の選択肢を画面に表示するときに、選んで欲しいものがあらかじめ選ばれた状態(デフォルト)で見せるといった塩梅です。最近では環境省がコロナ対策にナッジを利用しようとしていますし、身近な例では男性用小便器にハエの絵を描いておくと、利用者はそこを狙ってするようになるので汚れが減るといった効果が知られています。
自在化身体と情報通信技術を活用することで、人々の行動を大規模かつ広範囲に変容することが可能になるはずです。もちろん。こうした応用は人々に恩恵をもたらすだけでなく。自らの意思に反した行動を取らされる可能性など、これまでありえなかった問題もはらんでいます。このような負の側面まで考慮して検討していくことも、自在化身体の研究の一環です。」
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