竹沢うるま『ルンタ』
☆mediopos-2340 2021.4.13
少し前(mediopos-2283/2021.2.15)にとりあげた
『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』の著者
山本高樹がBE-PAL掲載の記事で
竹沢うるま『ルンタ』をインタビュー方々とりあげている
両者の二つの著書のW刊行記念トークイベントとして
竹沢うるま×山本高樹による
「空と山々が出会う地で、祈りの在処を探して」という
トークイベントも今週末の17日に開催される
『The Songlines』以来
竹沢うるまの写真と文章に惹かれている
今回の『ルンタ』も昨年末刊行され
今月末には写真集『Boundaryー境界』も刊行される
ちなみに「ルンタ」とは風の馬のことで
3年近くのあいだチベット仏教圏を巡った祈りの旅の記録
山本高樹の著書『冬の旅』もこの『ルンタ』も
チベット文化圏のラダックに関係していて
トークイベントのタイトルにあるように
そこでは「ローカリズムとグローバリズム」が
現在進行形でせめぎあっている
ラダックについては
ヘレナ・ノーバーグ=ホッジの『懐かしい未来』も
同様のテーマで先月とりあげてみたところなので
(mediopos-2311/2021.3.15)
その流れもありご紹介してみることに
上記のように竹沢うるまの写真集『Boundaryー境界』が
もうすぐ刊行されるとのことだが
「ローカリズムとグローバリズム」をはじめ
さまざまな場所に「境界」があり
その「境界」でせめぎあっているものがある
記事を引用したなかに印象深いところがある
チベット仏教の僧侶たちが作る砂曼荼羅の話だ
砂曼荼羅は何日もかけて色つきの砂を敷き詰めていくが
法要が終わるとすべて崩して川に流してしまう
そのとき「赤い砂も青い砂も、全部混ざると、灰色になる」
竹沢うるまは「その一部始終が、この世界における
“境界”の持つ意味を象徴しているように思え」
「“境界”というものの無意味さを感じ」
「自分にとって“境界”とは何なんだろう」と問う
おそらく今度刊行される『Boundaryー境界』のなかに
その問いが反映されてもいるのだろう
境界とは分けるものだ
混沌に穴があけられて死んでしまう話が荘子にあるが
分けると死んでしまうにもかかわらず
わたしたちは霊界から地上へと
みずからを分けるように生まれてくる
そして我-汝というように
一人称と二人称そして三人称と
私と私でない存在を分けていく
その延長線上に
家族・性・共同体・国・民族・宗教の
境界が次々と生まれてくる
砂曼荼羅がつくられ崩されるということは
分けるということの意味と
分けるということの無意味を
象徴しているのかもしれない
そこにも分けることで分かり
分けることを超えていくという
人間であるがゆえの認識課題があるともいえるのだろう
■竹沢うるま『ルンタ』(小学館 2020.12)
(山本高樹「旅の中で感じた、ローカリズムとグローバリズムの分水嶺。
写真家・竹沢うるまが『ルンタ』で綴ったチベット文化圏の旅(後編)」より)
※「BE-PAL掲載の記事」
「「今、我々が暮らしている社会は、何もかもが過剰じゃないですか。でも、チベット文化圏を旅する中で目にした光景は、その過剰さの対極にあるというか。何もないという意味ではないですけど、我々のライフスタイルとは真逆です。でも、彼らの方が、心の充実度は高い。それはどうしてなんだろう。目に見える幸せと、目に見えない幸せ。そのバランスの違いはどこにあるのか、と考えさせられました」
世界各地のチベット文化圏を足かけ3年をかけて旅し、その経験と自身の思索の変遷を紀行文『ルンタ』に綴った、写真家の竹沢うるまさん。インド、ネパール、中国など、各地を巡る中で竹沢さんが目にしたのは、厳しい自然環境の中で受け継がれてきた伝統的な生活様式と信仰を守り続ける人々と、そこに外界からひたひたと押し寄せるグローバリズムの波だったと言います。『ルンタ』の中でも重要なテーマの一つとなっている、ローカリズムとグローバリズムのせめぎあいについて、話を聞きました。」
「ネパールの中でもとりわけ辺境に位置し、ほんの十数年前までは高度な自治権を与えられた王国であったムスタン。長い間、外界から隔絶されていたこの秘境にも、南はネパール側から、北は中国側から国境を越えて道路が延伸され、さまざまな物資や情報がなだれ込んできているのを、竹沢さんは目の当たりにしました。
「チベット文化圏には、分水嶺がたくさんあるんですよ。目に見える幸せと、目に見えない幸せ、その豊かさの違いの間に横たわる分水嶺が。ムスタンのあの小さな村は、北からも南からも波が押し寄せてきているけれど、まだかろうじてその狭間にあって、穏やかさを保ってましたが、すごく危うい状態でした。グローバリズムの波に一方的に身を任せてしまうと、社会はシステムやイデオロギーが主体になって、人間はそこに組み込まれる代用可能なパーツでしかなくなってしまう。自分を失ってしまったら、人は祈りも忘れてしまって、存在する意味も消えてしまう。そういう社会では、本当の意味での心の豊かさを得るのは難しい。要は、ローカリズムとグローバリズムのバランスの問題だと思うんです。今のような画一化されたグローバリズムではなく、個人や地域、民族、文化、国などのローカリズムに立脚した、本当の意味でのグローバリズムが必要になるんじゃないかな。いかにローカルを大切にしながら、世界とつながっていくか、という」」
「社会全体を画一化された情報や物資で埋め尽くすのではなく、個人やコミュニティの存在を尊重した上で、社会とのバランスを取っていく。そうしたローカリズムとグローバリズムのバランスのヒントを、竹沢さんは、近年よく滞在しているという南太平洋のクック諸島に見出しました。
「クック諸島の人たちは、ローカリズムとグローバリズムのバランスの取り方が、めちゃめちゃ上手いんです。人口は全部で2万人くらいしかいないんですが、15歳以下の子供の割合が35パーセントもあって。アリキと呼ばれる酋長が、集落ごとの決まりごとやお祭りを仕切ったり、何かもめごとが起こったら仲裁したりします。そういう昔ながらのコミュニティの仕組みがしっかりある一方で、教育のシステムはクック諸島が属しているニュージーランド式ですし、マオリ語のほかに英語も自然に話せるので、各国のテレビなどを通じて、世界中の情報をよく知っています。ニュージーランドで、学校に通ったり、働いたりしている人も多いから、外の世界をよくわかっているんです」
クック諸島は、一番近いニュージーランドから4千キロも隔てられています。人口も少ないので、その距離を飛び越えて、外部から輸送コストをかけて何か商品を持ち込んでも、ビジネスを成立させるのは難しい場所です。
「放っておいたら、外の世界からは何も来ないんです。だから、クック諸島の人たちは、ローカリズムを大切にしながら、自分たちが必要と判断したものだけを、自分たちの意志で持ってくることができています。侵食されたり奪われたりするのではなく、取捨選択の主導権を、自分たちで握っている。だから、ものすごくバランスがいいんですよ。ムスタンのような場所でも、侵食される前に現地の人たちが取捨選択することができたら、理想的な環境を作り上げられるかもしれない、と『ルンタ』の原稿を書きながら考えていました。難しいでしょうけどね。ムスタンの人たちは、ほかの場所を見ているわけではないから。自分の見知っている範囲内だと、簡単な方を選択しがちでしょうから……」」
「ローカリズムとグローバリズムだけでなく、民族や宗教、政治的主張など、さまざまな要因のもとに繰り広げられているせめぎあいを、竹沢さんはこれまでの旅で、数え切れないほど目にしてきたと言います。それらの経験を通じて、次第に意識するようになったのが、“境界”というキーワードでした。
「“境界”というものには、どんな意味があるのかな、と。いろんな国を旅してきて、国境、民族、宗教、いろんなぶつかりあいを見てきて。チベット文化圏を巡る旅のきっかけになったあの出来事は、とりわけ激しいぶつかりあいでした。でも、よくよく考えてみると、そういうものを全部ひっくるめて、この世界は、砂曼陀羅みたいなものなのかな、と思うようになって……」
チベット仏教の僧侶たちが作る砂曼荼羅は、何日もかけて、色付きの砂を絵柄に合わせて丹念に敷き詰めますが、法要が終わると、あっさりとすべて崩して、川に流してしまいます。竹沢さんには、その一部始終が、この世界における“境界”の持つ意味を象徴しているように思えたそうです。
「砂曼荼羅を最後に崩して、自然に還す時、赤い砂も青い砂も、全部混ざると、灰色になるんです。何回見ても、面白いなあ、と思っていて。すごく引いた目で見れば、チベット人も漢民族も、それぞれ色の違う砂粒のようなもので、砂曼荼羅という世界が崩されて混ざり合えば、灰色一色になってしまう。我々人間は、結局はみんな同じ、漠とした灰色をしているんだなあ、と。そう考えていくと、“境界”というものの無意味さを感じるようになって、自分にとって“境界”とは何なんだろう、という思いが、だんだん大きくなっていきました」
『Walkabout』と『The Songlines』、『Kor La』と『ルンタ』。長い旅を経てこれらの作品を世に送り出してきた竹沢さんが、次に見定めた、“境界”というキーワード。その新たな挑戦は、最新作『Boundary | 境界』へとつながっていきます。」
■「BE-PAL掲載の記事」
https://www.bepal.net/book/134850
■写真家 竹沢うるま オフィシャルサイト
https://uruma-photo.com/