石原 孝二・斎藤 環 編 『オープンダイアローグ 思想と哲学』
☆mediopos2732 2022.5.11
薬物も入院もなく
開かれた「対話」である
オープンダイアローグを続けることで
統合失調症が治療され
「目の前の患者の幻覚や妄想が消えていく」
魔法のようにも思える「治療」だが
その根底にある「言葉」と「対話」
そしてそれらが成立する「場」のことを
あらためて考えていくと肯けるものがある
わたしたちが言葉を覚え
それを内面化し内的対話を行うことで
「現実」をつくりあげていることを思えば
ある種の精神疾患においては
その「現実」が構成されるプロセスにおいて
なんらかの「問題」が生じていることがあるのだろう
ならば「現実」を構成するプロセスの「場」を設け
そこで「問題」を調整することによって
ある種のチューニングが可能になるのではないだろうか
「入院」ではその「場」として機能せず
また「薬物」によってピンポイント的に
「問題」の不調を矯正することも解決にはなりにくい
だれにでもある種の「現実」をつくるにあたっての
「不調和」は多かれ少なかれあるだろうが
疾患にまではいたらないような仕方で
みずからの内に内的に構成される「対話」が成立していて
「幻覚や妄想」までの現象は起こらないでいる
斎藤 環によればオープンダイアローグには
「「言葉」と「対話」が本来持っていたであろう、
「切断しつつ包摂する」機能、
「距離をとりつつ親密にする」機能、
「洞察とともに忘却させる」機能、
そして「告白とともに隠蔽する」機能が、
最大限に活かされている」のであり
「哲学」や「思想」はそのことについて
いまだ十分に語り得てはいないのだという
わたしたちはそうした言葉と対話の
さまざまな機能を使って
「現実」を調和的に「構築」しているのだが
ある種の疾患を生む際には
言葉や対話を成立させる外的な「場」なくしては
チューニングがむずかしいということなのだろう
かつて文字を読む際には声を出していたように
対話する際にも
実際に対話する人たちが必要で
それらが思考という姿で
内的な確かさを安定して持てるようになるには
それなりの適切なプロセスが必要となる
■石原 孝二・斎藤 環 編
『オープンダイアローグ 思想と哲学』
(東京大学出版会 2022/3)
(石原孝二「オープンダイアローグの思想」より)
「オープンダイアローグ・アプローチは、フィンランド西ラップランドのケロプダス病院で1980年代から開発されてきた精神科医療のアプローチである。治療チームと患者、家族・関係者などが対等な立場で参加するミーティングにおいて、治療に関するすべてのことがオープンに話し合われ、決められるということが、このアプローチの中核を為している。また、精神的なクライシス(危機)において即自に介入し、入院と投薬を可能な限り避け、治療終結まで同一の治療チームが継続的に担当することなども、このアプローチの特徴となっている。西ラップランドにおけどオープンダイアローグの実践は、低い入院率と低い投薬率、高い就学率・就業率、低い障害年金受給などの顕著な成果を上げてきた。」
「オープンダイアローグの基本的な特徴は、オープンダイアローグの「7つの原則」としてまとめられている。
(…)
1.即時援助(1987年)
(…)
2.社会的ネットワークの視点
(…)
3.柔軟性と機動性(1987年)
(…)
4.責任(1988年)
(…)
5,心理的継続性(1993年、1994年)
(…)
6.不確実性への耐性(1994年〜1996年)
(…)
7.対話主義(1994年〜1996年)
(…)
オープンダイアローグは、徹底的にオープンな(開かれた)対話を治療プロセスの中心に据える、包括的な地域精神科医療・ケアの提供システムであると言える。」
「家族療法は、様々な思想、哲学、科学論の影響を受けて展開してきたものである。1950年代以降には、システム論、サイバネティクス、ベイトソン、オートポイエーシスなどの影響のもとに「システム」への注目が高まり、1980年代は、社会構築主義の影響を受けたアプローチが展開していく。(…)
社会構築主義(…)の基本的な主張は、「現実」とは社会的に構成されたものである、ということにほかならない。唯一の客観的な現実が存在しているわけではなく、個々人や集団によって現実は異なり、そうした現実は、社会的なプロセス、特に言語を介した相互作用によって構築されていく。
セラピーにおいてセラピストが関わる現実は、患者や患者家族が直面する「問題」である。社会構築主義的な視点からは、この問題は、患者や家族、関係者などが参加する言語システムによって構築されているものと捉えられることになる。
セイックラたちは「精神病」(psychosis)の理解について、社会構築主義的な見方を導入する。社会構築主義的な視点からすれば、精神病状態とは、幻覚や妄想といった言語でしか表現することができない、人生の中での恐るべき経験に対処する一つの方法である。精神的なクライシスにおいては、患者の「幻覚」を真剣に受け止め、患者の「現実」を否定しないことが重要となる。幻覚や妄想と思われる患者の言葉も、一つの「声」として尊重される。治療の目標は、対話を継続することによって、治療ミーティング参加者の間で新たな言語と理解がもたらされることに置かれるのである。」
「オープンダイアローグにおいては、こうした社会構築主義の視点をバフチンの対話主義とヴィゴツキーの言語発達理論に結び付けて考えられている。
バフチンは、ドストエフスキーの小説の特徴が「多声性」にあると考えた。ドストエフスキーの小説において、登場人物は著者の意識に支配された客観的な一つの世界に住むのではなく、平等な権利をもってそれぞれの世界をもち、意識をもっている。小説は、予め決められたプロットに沿って進んでいくのではなく、登場人物同士の外的な対話と登場人物の中の内的な対話が織り交ざりながら、一つの大きな対話を形成しつつ進んでいくものなのである。
他方ヴィゴツキーの言語発達理論は、言語発達の過程が、社会的な語りから、自己中心的な語り、内的な語りへと進んでいくことを主張した。ヴィゴツキーのこの理論は、非言語的で「自閉的」な語りから自己中心的な語りへ、そして、社会的な語りへと発達していくというピアジェの発達理論への批判として提出されたものである。
セイックラ(1993)は、バフチンとヴィゴツキーの理論を社会構築主義的な家族療法の治療実践に結び付けることを試み、ケロプダス病院における治療ミーティング導入以降の捉え方の変化をバフチンとヴィゴツキーの理論を使って説明しようとしている。ケロプダス病院における治療実践の目的は、患者や家族を変化させることから、多様な参加者の間に対話を作り出すことへと変わっていく。セイックラによれば、そうした実践の意味は、バフチンの「対話」と「ポリフォニー」の概念によって捉えることが可能である。治療チームのリフレクティヴな会話は、家族の中に「生きたスペース」を与え、ポリフォニーを生みだすためのものと理解することができる。セイックラはまた、ヴィゴツキーの言う「自己中心的な語り」として機能するとも述べている。人は、予期しない困難な状況に直面したとき、そのときどきの状況を「脱文脈化」し、課題を見出すために、自己中心的な語りを利用する。治療チームは、精神的なクライシスにあって混乱している患者や家族の自己中心的な語りの役割を引きうけることによって、患者や家族が問題を整理するのを手助けする。」
(斎藤 環「おわりに——すべての思想を対話に置き換えること」より)
「オープンダイアローグ(以下OD)の導入は日本の精神医学界にとって「黒船」である、と指摘されたことがある。(…)これは端的に言えば、精神療法的アプローチで統合失調症を改善するという長年の夢を、フィンランドの辺境から来た対話実践がいともあっさりと実現してしまった衝撃ゆえ、である。かつて、精神病理学が全盛だった時代には、あたかも解決不能なアポリアとして、ほとんど崇高なまでの位置付けを独占していた「精神分裂病」が、ただの「対話」で治ってしまうということ。まだ事実とは思えない、フィンランドではうまくいっても日本ではどうか、そんな懐疑もくすぶってはいるが、筆者らはすでに複数の成功事例を経験している。薬物も入院もなし、ただの対話を続けることで、目の前の患者の幻覚や妄想が消えていくさまを繰り返し経験してしまうと、精神病理学や精神薬理学の営々たる蓄積は一体何だったのか、という思いに駆られてしまう。繰り返すが、対話で統合失調症が改善するのは、単に臨床的な事実である。」
「確かにODは文脈と起源を、感情と身体性を重視する。いずれも対話において重要な要素であることは間違いない。しかし忘れてはならない、対話とは、まずなによりも「言葉」である。私はかつて次のように書いた。「精神分析が言葉をメスとして用いるというのなら、オープンダイアローグは言葉を包帯として用いるのです」と。「包帯」という比喩派が十分とは言えないが、ここは言葉の持つ相矛盾する二つの側面として理解されたい。
対話は「つながり」でも「ハーモニー」でもなく、かといって「分析」でも「解釈」でもない。その意味でODには、「言葉」と「対話」が本来持っていたであろう、「切断しつつ包摂する」機能、「距離をとりつつ親密にする」機能、「洞察とともに忘却させる」機能、そして「告白とともに隠蔽する」機能が、最大限に活かされているのだ。
筆者が知る限り、「対話」がはらむこうした逆説について、「哲学」や「思想」はまだ十分に語り得ていない。その意味で「対話の哲学」は、いまだ未開のフロンティアとして、私たちの目前に拡がっている。」
【主要目次】
はじめに(石原孝二・斎藤環)
I オープンダイアローグの思想の源流
1 オープンダイアローグの思想(石原孝二)
2 ベイトソンを学ぶのは何のため?――関係性言語という語学(野村直樹)
3 ナラティヴ・アプローチとオープンダイアローグ(野口裕二)
4 コンテクストとしてのリフレクティング(矢原隆行)
5 バフチンの対話の哲学(河野哲也)
II オープンダイアローグと現代の思想・哲学
6 「対話」の否定神学(斎藤環)
7 精神分析とオープンダイアローグ(松本卓也)
8 現象学とオープンダイアローグ――フッサール、デネット、シュッツ(石原孝二)
9 哲学対話とオープンダイアローグ(山森裕毅)
10 ダイアローグの空間――哲学カフェ、討議、オープンダイアローグ(五十嵐沙千子)
11 レヴィナスとオープンダイアローグ(村上靖彦)
おわりに すべての思想を対話に置き換えること(斎藤環)
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