永井玲衣「世界の適切な保存 連載⑨間違える」 (『群像』 2023年 01 月号)
☆mediopos2963 2022.12.28
「間違える」
そのことで
問いが生まれ
「すましていた世界に割れ目が生じ、
まるで見たことのない部分が露出してしまうこともある」
音声変換や
文字変換では
よくある変換ミスや誤作動でよくあることだが
それが世界に「割れ目」をつくることがある
どきりとする例が挙げられている
「3・5%のひとたちが、すこしの暴力の方法で
立ち上がってデモをしたりすれば」
ほんとうは「非暴力」なのが
音声変換で「暴力」と表示される
誤作動なのだがそこに不思議な「裂け目」が生まれる
「暴力」とは何か
「非暴力」とは何か
それがわからなくなる
「馬鹿なひとたちも含めて参加できる場っていうのが
増えることが、民主主義にとって大事」
ほんとうは「若いひとたちも含めて」なのだが
「若いひとたち」が「馬鹿なひとたち」に誤変換される
パソコンの文字変換で
「強制しないといけない」と
「共生しないといけない」が
間違って変換される
笑ってすませられる変換は多いが
ときにその変換が
「すいすい、つるつるの世界に、割れ目をつくる」
そんなときがある
あたりまえのように思っていることが
そのとき裏の顔を見せているのかもしれない
「きれいはきたない.きたないはきれい」という
マクベスの中に出てくる魔女の有名な台詞のように
■永井玲衣「世界の適切な保存 連載⑨間違える」
(『群像』 2023年 01 月号 講談社 2022/12 所収)
「言い間違えるとか、聞き間違えるとか、勘違いするとか、そんなことは世界にあまりに溢れていて、そしてすぐに忘れられてしまう。多くの場合、すぐに訂正されて、ちょっとだけ笑ったりして、それで終わりだ。
だが、間違うことによって、すましていた世界に割れ目が生じ、まるで見たことのない部分が露出してしまうこともある。それはまるで、子どものころに擦りむいてしまった膝の怪我のようだ。分厚いように見えた肌の皮が破れ、見たこともないような模様の景色が拡がっている。生々しく、とても触れられないような色をして、脈打っている。うつくしい世界というよりは、ぎょっとするような側面でもあり、笑ってしまうほどに脱力してしまうような側面でもある。
ある研究者のインタビュー映像を撮ったことがあった。社会をよりよくするために、本気で考えているひとだった。「デモクラシーと資本主義」というテーマで、カメラに向かって語ってもらったのだった。映像の字幕をつけるため、まずは自動の文字起こし機能をオンにする。彼が何かを話すたびに、つらつらと下に文字が出るのだが、それがめちゃくちゃだった。彼はちょうど、3・5%のひとが立ち上がれば、独裁政権でさえも倒すことが出来るのだという話をしていたところだった。
「3・5%のひとたちが、すこしの暴力の方法で立ち上がってデモをしたりすれば」
彼の口は「非暴力な方法で」と動いていた。そしてわたしの耳にもそう聞こえた。だが、文字がそう表示された。まるで逆ではないか。
「すこしの暴力」というところが、より暴力的な感じがするのが興味深い。たしかに独裁政権を倒すには、ちょっとの暴力も必要なのではないか。そんなことさえも思ってしまう。そもそも非暴力とは何なのか。すこしだけ暴力があれば、それは非暴力にはならないのか。暴力とは何なのだろうか。
その他にも、自動文字起こし機能は、どんどん間違える。すすんで間違える。そんなはずはないだろう、とこちらが思う暇も与えないほどに、間違える。
(・・・)
「馬鹿なひとたちも含めて参加できる場っていうのが増えることが、民主主義にとって大事」
え、と思う。そんな。馬鹿なひとたちって。どきりとして巻き戻すと「若いひとたちも含めて」と聞こえてきた。全然違うじゃないか。ひどいなあ。だが、たしかに馬鹿なひとたちが誰なのかわからないが、どんなひとでも参加できるのは大事だとも思う。」
「 結婚はめでたいことだ。臨終はかなしいことだ。まちがえるなよ。(枡野浩一)
そして同時に、わたしたちは間違えたらいけないと思っている。世界は、本当はめちゃくちゃなのに、結婚がめでたいとは限らないのに、臨終はかなしいとは限らないのに、間違えたらいけないと思っている。そこが転倒したとき、自分は罪を犯したとさえ思う。
おそらくこの短歌の主体は、「間違い」を終えている。もう引き返せない。自分で自分に、言い聞かせているのだろう。しかし、間違えているひとを見ると、わたしたちは問いにひらかれてしまう。なにが間違いで、なにが間違いじゃなかったのか。混乱する。世界に裂け目が生じて、こわくなる。」
「聴覚や視覚、感情、世界への感覚は、たまに誤作動を起こす。なぜ起きるのかはわからない。自分で自分を助けるためなのだろうか。すいすい、つるつるの世界に、割れ目をつくることによって、自分をずっこけさせて、倒れて、冷たい床に頬を打ち付けて、そのまま寝かせるためなのだろうか。
自分で自分を助けるためだけでない。世界の方も、誤作動を誘っている。準備している。あまりに物事がしんどくて、何もかもが立ち行かない時に、友人に「降伏だ」とメッセージを打とうとした。機械は、わたしの状況などつゆ知らず「幸福だ」と変換した。わたしは自分で自分のことを幸福と言ったことがなかったから、それを真新しい目で見ることになった。
こんなこともある。ある本を読んでいた。あまりに物事が複雑すぎて、どうしようもなくなり、よくわからなくなっている本だった。だがそういうものだ、とも思った。とりあえず文字を追って、パソコンに内容を打ち込む。「強制しないといけない」というこわい言葉も叩き込む。
「共生しないといけない」
文字が間違って変換されて、パソコンに表示されていた。日が暮れて、だんだんと部屋が淡い色になってきたときのことだった。いつまでも、いつまでも、わたしはその二文字を見つめていた。」
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