桑野 隆 『生きることとしてのダイアローグ/バフチン対話思想のエッセンス』 ・桑野 隆『増補 バフチン』
☆mediopos-2518 2021.10.8
対話(ダイアローグ)には
さまざまな次元がある
もっとも根源にあるのは
「わたし」の成立に必要な
「他者」との存在的な「対話」である
わたしたちは他者を鏡としながら
(鏡像段階ともいえる)
みずからの内なる他者を成立させ
そのことで「わたし」となることができる
それは言葉以前の「対話」ともいえる
そうして「わたし」であるという意識において
対話的な関係が成立してゆく
具体的な他者との「対話」も
それによって成立してゆくが
その前提として
「わたし」の思考のなかにおいて
「対話」がなければならない
その思考はハンナ・アレントのいう
〈一者にして二者 two in one〉であるといえる
二人以上の内的対話がそこでは行われている
思考は基本的に「複数性の世界」なのだ
ソクラテスの哲学は「対話」によって進んでゆくが
「ソクラテスが意図していたのは、
他者との共生は自分自身との共生から始まるということ」であり、
「自分自身と共生するすべを心得ている者だけが、
他者と共生するのにふさわしい」のである
他者と共生することをめざす「対話」となるためには
「感情移入」としての「同情」ではなく「友情」が
〈統一〉ではなく〈連帯〉が志向されなければならない
快・不快を背景にした「感情」は「対話」を損なってしまう
そこでは「同情」がなければ「反感」が支配する
そのとき存在する「他者」は敵か味方かのような感情でしかない
対話に必要なのは「共に」「生きる」ための「友情」であり
同一化を求める「統一」ではなく
違いを前提とした「連帯」である
感情だけではなく思考もまた
みずからの内なる対話にとって必要なのは
異なった意見・異なった知・異なった認識などの矛盾を
「共に」「生きる」ための知恵である
そうすることではじめて
「他者」との「対話」がひらかれてゆく
■桑野 隆
『生きることとしてのダイアローグ/バフチン対話思想のエッセンス』
(岩波書店. 2021/9)
■桑野 隆『増補 バフチン』
(平凡社ライブラリー 平凡社 2020/3)
(『生きることとしてのダイアローグ』〜「Ⅱ内なる対話」〜「6 モノローグが対話的なこともある」より)
「バフチンは(…)つぎのような〈内的対話〉も対話であるとしています。わたしたちは、相手に向かって声にだしていなくとも、ほかのひとと対話をしたり、自分自身と対話をしていることがあります。
わたしたちがなにかの問題にとりくみ、それを入念に考察しはじめるやいなや、[…]わたしたちのことばは、ある程度の長さの個々の台詞に分割され、対話的形式をおびてくる。
この対話的形式がもっともあきらかにあらわれるのは、わたしたちがなんらかの決断をしなければならないときである。わたしたちはゆれうごく。どうふるまったほうがいいのかわからない。わたしたちは自分と議論したり、なんらjかの決断が正当であることを自分に納得させようとしはじめる。わたしたちの意識はあたかも、独立した対立し合うふたつの声に分かれているかのようである。
このようなケース、すなわちことばというものが内的に対話的であるケースが、(…)ドストエフスキーの作品にはかずおおく見られ、バフチンはこうした〈内的対話〉にひときわ注目していました。ひとりで考えごとをしているかのように見えて、じっさいは心のなかで他人やもうひとりの自分と語り合っているようなケースです。」
「たとえばハンナ・アレントは、思考とは〈一者にして二者 two in one〉であるとみなし、つぎのようにのべています。
考えているときには私は「一者にして二者」なのであり、自分自身と矛盾することがありうる。つまり、私は、一者として他者と共生するだけではなく、自分自身とも共生するのだ。分裂の、もはや一者ではいられなくなることの、核心にあるのが矛盾の恐怖であり、そして、これこそ矛盾律が思考の根本原理たりえた理由なのである。さらにこれこそ、人間の複数性が完全には廃絶されない理由であり、哲学者が複数性の世界から逃れようとしてもそれはつねに幻想に終わる理由なのである。
このように〈複数性〉の意義を強調するとともに、「ソクラテスが意図していたのは(そしてアリストテレスの友情論がより徹底的に説明しているのは)、他者との共生は自分自身との共生から始まるということである。[…]自分自身と共生するすべを心得ている者だけが、他者と共生するのにふさわしい」と述べています。
外部の他者と対話するだけでなく、内なる自身とも対話できることが、豊かな〈共生〉に不可欠の条件であるというわけです。」
(『生きることとしてのダイアローグ』〜「Ⅱ内なる対話」〜「7 意識は対話の過程で生まれる」より)
「わたしたちの意識もまた対話的関係のなかにあります。
ひとつの意識というのは、形容矛盾である。意識は本質的に複数からなるのである。意識には複数形しかない。
自意識は言葉なしにありえないが、言葉というものはその本性からして他者にとって存在しており、聞かれたり理解されたりしようとしている。いかなる意識も、いかなる自意識も、他者なしにはありえない。孤独な意識というのは、幻想ないし虚偽[…]である。
(『生きることとしてのダイアローグ』〜「Ⅱ内なる対話」〜「8 真理も対話のなかから生まれる」より)
「バフチンは、真理もまた、意識の複数性を前提としていることを強調していました。真理とは、特定の者(たとえば神とか権力者)の頭のなかに存在しているようなものではなく、複数の者たちの対話という社会的相互作用の過程ではじめて生まれてくるものなのです。」
「真理もまた、意識と意識のあいだで起こる〈出来事〉のなかで生まれるのであって、〈社会的〉なのです。このように、〈真理〉の規定をめぐっても、対話的立場からのものと、モノローグ的立場からのものがあるといううことになります。バフチンとしては、もちろん〈対話的真理〉のほうを重視し、探求しています。」
(『生きることとしてのダイアローグ』〜「Ⅱ内なる対話」〜「9 他者がいて、わたしがいる」より)
「自己の限界をぬけでるのに必要なのは、「わたしのなかにもうひとり、事実上、おなじような人間(二人の人間)がいるということではなく、その者がわたしにとってべつの人間であるということである」とのべています。
バフチンがいうように、わたしは、そもそも〈他者〉を欠いては、自身を意味づけることはできません。むろん、あなたも同様です。〈他者〉あってのあなたです。この自ー他関係は可逆的であって、〈他者〉であるあなたにとっての〈他者〉はわたしです。」
(桑野 隆『増補 バフチン』より)
「この時期、すなわち一九二〇年代前半のバフチンの見解でもっとも興味深いのは、「他者」のみがもたらしうる意味生成とそれにともなう責任の強調である。
たとえば「感情移入」なるものに、バフチンはきわめて否定的であった。「貧弱化」とすら呼んでいる。ただ感情移入するだけでは、二人(以上)が出会った意味がない。〈他者〉としで出会うのでなければ、両者のあいだに新たな意味が生まれうる貴重な機会がみすみす失われるばかりか、当人の自己喪失にもつながりかねない、という。感情移入する者は自分に責任を持っていないというわけだ。
バフチンのこうした姿勢からは、ハンナ・アーレントの「暗い時代の人間性について」(一九五九)が思い出される。アーレントは、政治空間においては〈同情〉は〈距離〉を廃棄し、その結果〈多元性〉をも破壊するため、他者にたいする相互承認の基礎たりえないと考えていた。〈同情〉は〈連帯〉とはちがうというのである。バフチンもまた〈同情〉ではなく〈友情〉を、〈統一〉ではなく〈連帯〉を志向していたといえよう。」