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波戸岡景太「ナラティブと言う勿れ 戦時下にスーザン・ソンタグと久能整を想うこと」(群像 2024年1月号)/スーザン・ソンタグ『写真論』/田村由美『ミステリと言う勿れ』

☆mediopos3318  2023.12.18

メメント・モリ
そのころはまだ
その言葉は知らずにいたものの
死を想う
そのことを想うようになったのは
六歳の頃に死に近づく病いを得てからだった

その後も親類の葬儀において
寺院の阿弥陀来迎図や地獄絵図を眺め
「白骨の章」を耳にするにつけ
また家庭で日常的に起こる不安定さも相まって
すでに恐れはないままに
死を想うことは日常化していたところがある
むしろ死に近しくさえあるほどに

日常と非日常の境が曖昧で
両者が不意に反転するということの渦中に
日々身を置いていたということもできる

さてここ数年ウクライナやパレスチナだけではなく
日本においても(いうまでもなく世界中が)実質的に
いわゆる「戦時」だといえるだろうような
「悪夢」のなかにあるといえる
一見日常を生きながらもその実非日常としての・・・

そんな「悪夢」にあるときこそ
「平時」と「非日常時」における
みずからの意識のありようを見つめる
格好の機会ともなると思われる

「群像1月号」の「論点」で掲載されている
波戸岡景太「ナラティブと言う勿れ/
戦時下にスーザン・ソンタグと久能整を想うこと」では

スーザン・ソンタグや
『ミステリと言う勿れ』の久能整を引き合いにだしながら
「非常時にあって平時を想うこと。
その大切さと難しさ」が論じられている

「戦前の子供たち」の笑顔の写真と
「戦禍の子供たち」の現状を伝える報道写真は
「きっとソンタグに言わせれば等価である」という
しかも「むしろ戦争写真は、鑑賞者の負の側面
(無感覚と無責任)を増大させかねない」という

そこにまさに
「非常時にあって平時を想うこと。
その大切さと難しさ」がある

また『ミステリと言う勿れ』においては
久能整が「今まさに自分が刺されるかもしれない
という非常時に、平時での正論を口にする」ように
「「非常時における平時の感性」に裏打ちされた
良い意味での空気の読めなさが、
あまりにストレートに描き出されている」

「非人道的な出来事を、平時の感覚で読みとこうとする」こと

私たちはふつう「平時」においては「平時」の感覚で過ごし
「非常時」においては「非常時」の感覚で過ごすだろうが
そうすることでなにか大事なものが
気づかれないまま見落とされてしまっているのではないか

飢えているとき
食にありつけることだけでありがたく感じるが
飽食のときにはともすれば
食べられることそのものが等閑にされがちなように
平時において非常時の感覚でいることは難しく
非常時において平時の感覚でいることはむずかしい

おそらくその極北がメメント・モリなのだろう
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という
孔子の言葉もそれに類したものだ

平時においては流されず
非常時においても平時と変わらずにいること

現在は平時のようにみえている非常時だが
そうしたあわいのような時空においても
みずからを見失わないことが必要である

■波戸岡景太「ナラティブと言う勿れ/
戦時下にスーザン・ソンタグと久能整を想うこと」
 (群像 2024年1月号)
■スーザン・ソンタグ(近藤耕人訳)『写真論』(晶文社 1979)
■田村由美『ミステリと言う勿れ(1)』
(フラワーコミックス 小学館 2018/1)

(波戸岡景太「ナラティブと言う勿れ」〜「1」より)

「世界の子供たちの日常生活を、微笑ましいスナップショットと平易な言葉で解説してくれる子供のための図鑑『チルドレン・ジャスト・ライク・ミー』。何の気なしにめくってみれば、ロシアのページに載った、こんなお友だち紹介の文章が目にとまる。

   ヤロスラフ君(八歳)は、モスクワ在住。好きな季節は夏・だって、暖かくて外でたっぷり遊べるから。旅行先は、お隣のウクライナのオデッサがお気に入り。そこの海辺に行くのが大好きなんだ。(引用者訳、Children Just Like Me)

 横縞のTシャツに半ズボンという格好で、自作のブロック作品をカメラに向けながら誇らしげに笑うヤロスラフ君。ただし、同書の出版は二〇一六年とされているので、その笑顔はすでに七年以上も前のものなのだろう。
 周知のとおり、世界はあれからずいぶんと変わってしまった。ウクライナ語での発音を尊重するという日本政府の指針により、「オデッサ」は「オデーサ」へと変更され、二〇二三年に同市は世界遺産に登録されるも、同時に危機遺産にも認定された。ヤロスラフ君が愛した歴史ある港湾都市オデッサ/オデーサは、今やロシアによる巡航ミサイルやドローン攻撃の標的となり、かつまたウクライナ側からの迎撃が繰り返されるような戦場となってしまったのである。
 戦禍と戦果。これら二つの同音異義語が、当たり前のようにネットを介して拡散される日々に、あらためて「戦前の子供たち」の笑顔に向き合うこと。そうした行為は、ともすればば「戦禍の子供たち」の現状を伝える報道写真のアクチュアリティに比べて、ずいぶんとセンチメンタルな行為であると見なされてしまうかもしれない。
 けれど、いかなる写真もその本質は「メメント・モリ(死を想え)」なのだと、アメリカの知識人スーザン・ソンタグは言う(『写真論』)。さらに、センチメンタルの度合いで言うならば、平時の写真よりも非常時を象徴する悪夢的な写真の方が、きっと鑑賞者の涙腺を刺激するだろうとも(『他者の苦痛へのまなざし』)。

(・・・)

 平時のモスクワで撮られた写真も、非常時のウクライナで撮られた写真も、きっとソンタグに言わせれば等価である。ただし、そのインパクトの大きさは、必ずしも写真の重要性と比例せず、むしろ戦争写真は、鑑賞者の負の側面(無感覚と無責任)を増大させかねない。」

(波戸岡景太「ナラティブと言う勿れ」〜「2」より)

「菅田将暉主演で実写化された、髪型が特徴的な久能整は、「僕は偏見のかたまりでだいぶ無茶なこと言います」と自己分析をしつつも、犯人とおぼしき相手に滔々と「正論」を語って聞かせる(『ミステリと言う勿れ』)。このとき、犯罪や冤罪に巻き込まれてしまうという非常事態に際して、あくまでも「平時における正論」(他人には「屁理屈」とも呼ばれる)を口にする彼の姿は、どこかソンタグを彷彿とさせるものがある。

(・・・)

 今まさに自分が刺されるかもしれないという非常時に、平時での正論を口にすることの恐ろしさ。映画化も話題の漫画『ミステリと言う勿れ』が、連載開始から六年を経てますます人を惹きつけるのは、主人公である久能の「非常時における平時の感性」に裏打ちされた良い意味での空気の読めなさが、あまりにストレートに描き出されているからに違いない。」

(波戸岡景太「ナラティブと言う勿れ」〜「3」より)

「非人道的な出来事を、平時の感覚で読みとこうとするのは間違いなのか。
 確かに、報道番組にせよネットニュースにせよ、今もそこかしこに溢れているのは、他人の悲惨な境遇と過酷な日々を伝える図像(イメージ)と物語(ナラティブ)ばかりだ。だが、非人道的なイメージやナラティブをいたずらに生産することで、はたして現実世界の悲惨さは、本当に正しく伝わるのだろうか。
 ベトナム戦争やボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の現場に(必ずしも取材目的ではなく)身を置き続けたソンタグではあったが、こと非人道的なイメージの干渉については、次のような身も蓋もない発言をしている。

   痛めつけられ、損傷を受けたしたいを描写したものは、そのほとんどが淫らな興味を喚起する。(『他者の苦痛へのまなざし』)

 写真を「見る」という行為は、道徳的な関心と背徳的な興味が表裏一体となったもの。そうしたソンタグの指摘は、ともすれば純粋無垢な鑑賞者の立場に身を置きがちな私たちに、戦争写真の鑑賞方法に潜む「罠」の在処を教えてくれる。
 ソンタグは言う、「ナラティブは、私たちの理解を促進する。だが、写真は違う。写真は私たちにとり憑くのだ」と(『他者の苦痛へのまなざし』)。
 確かに、写真そのものは、それに付随する解説によっていくらでも意味を変えていく。つまり、私たちが写真にとり憑かれたあと、その非人道的なイメージに対して義憤にまみれるか、あるいは淫らな想像にふかってしまうかは、それに付随するナラティブの力次第だということになるんだ。
 そしてもちろん、インパクト重視の負のイメージがあるように。聞き手の不安を煽ることを主目的とした負の「ナラティブというものもある。」

(波戸岡景太「ナラティブと言う勿れ」〜「5」より)

「想えば、冒頭に紹介した図鑑『チルドレン・ジャスト・ライク・ミー』のヤロスラフ君にしても、その名前が本名であるとは限らない。それでも、彼の写真と、そこに添えられた「お隣の国ウクライナのオデッサがお気に入り」といった言葉は、今の私たちにとってフェイク画像とは比較にならないほどの意味を持ちうる。なぜなら、それはすでに過去のものとなった「平時」の記録であり、記憶であるからだ。
 確かに、過去のものとなった「平時」の記憶は、戦時下の現在にあっては「夢」のようなものだ。だが、「夢」のようなものだからこそ、私たちはそれを「現実」の認識のために活用しなくてはならない。
 漫画『ミステリと言う勿れ』に引用された、ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスの『自省録』に、こんな言葉がある。

   正気に返って自己を取りもどせ。目を醒まして、君を悩ましていたのは夢であったのに気づき、夢の中のものを見ていたように、現実のものをながめよ。(神谷美恵子訳『自省録』)

 興味深いことに、ここに挙げられた「夢」と「現実」は、決して対立関係にあるわけではない、「夢の中のものを見ていたように、現実のものをながめよ」とは、たとえ「夢」と「現実」がかけ離れていたとしても、人はどちらも同じような心構えで見つめなくてはならないという戒めに他ならないのである。」

(波戸岡景太「ナラティブと言う勿れ」〜「6」より)

「非常時にあって平時を想うこと。その大切さと難しさを知った私たちは、これからも一層、ソンタグのような(ややハードルの高い)知識人や、久能整のような(ともすれば絵空事とされる)キャラクターが口にする「正論」に耳を傾けなくてはならない。
 なかでも、久能が引用する「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。」といった『自省録』の言葉は、平時にあって死を想う「メメント・モリ」の思想にも似た、きわめて重要な「正論」だろう。

(・・・)

 時代を超えて読み継がれるこうした「正論」が、実は久能ばかりでなく。まだ子供であった頃のソンタグをも励まし、奮い立たせていたというのは、きっと単なる偶然ではない。

(・・・)

 そう、なんでもない日々にあって、子供は不意に、逃れられぬ運命としてのみずからの「死」を身近なものとして想像してしまう。
 メメント・モリ
 だから、平時にあってその言葉を肝に銘じているのは、じつは、今も昔もニコニコと笑っている。写真の中の子供たちの方だったのだ。」

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