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渡辺祐真「世界文学の大冒険」 連載第2回 世界文学史を編むことの困難(『文學界』)/ ヘッセ『世界文学をどう読むか』

☆mediopos3722(2025.1.27.)

渡辺祐真「世界文学の大冒険」
連載第2回「世界文学史を編むことの困難」

第1回「歴史学はどのように変化してきたか」では
(mediopos3716(2025.1.21.)でとりあげている)

世界史や世界哲学における試みのように
各国の偏りは極力排除し
文学作品相互の関係の考察や比較も行い
文学版ワールド・ヒストリーを編みながら
グローバル・ヒストリーのような
世界文学史の記述を意図していることが示唆されていたが

今回は主に基本的な視点や方向性が語られる

これまでの文学史は主に国別であり
そこには文学史が
十九世紀ヨーロッパという国民国家時代に生まれ
国家や言語単位での探求を方向づけられていた
という背景があるのだが

「国別の文学研究が整備される一方で、
一国の文学に縛られない研究や受容」に目を向け
「世界文学」という言葉を定着させた立役者である
ゲーテという存在があった

「十九世紀は国民国家の時代であると同時に、
グローバル化の一途を確実に進み始めていた」からである

しかしゲーテは世界文学を志向しただけではなく
「国民文学」も重視していた

文学史にはその胚胎する当初から
個別性と普遍性という論点があったのである

普遍性を志向する世界文学史には
ニュージーランドの文学者
ポスネットによる『比較文学』(一八八六年)がある

それは時間的な進歩史観に立ったものだが
同じ進歩史観でも地域的な進歩史観に立っているのが
フランスの文芸評論家パスカル・カザノヴァである

カザノヴァは文学世界の広がりを
「最も古い」地域である十六世紀のフランスとイギリスに定め
それが「十八、九世紀を通じてヨーロッパ中に拡大し、
二十世紀にはその範囲が世界全体にまで広がっていった」
という視座をもっている

「国家や地域という歴史学のバックボーンから外れると、
世界文学史は途端に歴史としての弾力を失ってしまう」が
そればかりを志向したとき
「文学に重要な個別性は
脇に押しやられることになってしまう」ため
「世界文学史」を描くためには普遍性と同時に
個別性という視座が欠かせないというのである

アメリカの文学者デイヴィッド・ダムロッシュは
『世界文学とは何か?』において
「国民文学の固有性と世界文学の普遍性を往還しながら、
その差異や特徴を炙り出す。
それこそが世界文学(史)研究の役割」であるという

今回の連載「世界文学の大冒険」においても
そのことが踏まえられながら
世界文学史を編む際にはさらに
「様々な文化圏に存在する文学を見ていく以上、
敢然とその比較を拒絶し、
その固有性を最大限に尊重すること」が重視される

スラブ文学者沼野充義が
「世界文学の実践として「文学史」と「文学事典」、
「文学全集」を挙げている」ように

連載では沼野のいう「文学史」に加え
文学事典と文学全集の要素を取り入れ
「その上で、各文学の影響関係や相互作用といった、
狭い意味での文学史的な記述を目指す」というのである

つまり「世界文学史を紡ぐ上で、
世界の名作やカタログや事典という網羅性を志向しつつ、
その作家が後世に与えた影響、後世での受容、
異なる時代や文化圏との比較など、
歴史として記述できるところは歴史として記述」する

さて「世界文学」ということから
かつて大学のドイツ語の授業で
ヘッセの『世界文学をどう読むか』が
とりあげられていた?ことを思い出し
それ以来になるが少しばかり読み返してみた

「世界文学の理想上の小文庫」を記述しようとする
ヘッセなりの試みだが
ヘッセ『世界文学をどう読むか』の原本は
一九二九年に刊行されたもの
翻訳(新潮文庫)の初版は一九五一年(昭和二六年)

大学の頃にはこうした教養めいた示唆に対して
反発してしまうような感情を持っていたりもし
いまもそうした感情がなくなったわけではないのだが

「何らかの規準、あるいは教養の綱領」に従うような
「義務の道」ではなく
「自分自身を知り」「自分に特に働きかける作品を知」り
「愛の道を歩」み
「われわれの意識を幸福にし強めつつ拡大する」ための
「真の教養」を育てるための「読書」の必要性を説く
「世界文学の理想上の小文庫」を記述しようとする
こうした試みは静かな共感を得るところがある

本連載渡辺祐真「世界文学の大冒険」についても
その視点を加えながら読みすすめていければと思っている

■渡辺祐真「世界文学の大冒険」
 連載第2回 世界文学史を編むことの困難
 (『文學界』2024年8月号)
■ヘッセ(高橋健二訳)『世界文学をどう読むか』
(新潮文庫 昭和26年2月)

**(渡辺祐真「世界文学の大冒険」 連載第2回)

・はじめに

*「ヨーロッパで生まれた歴史学は長らく欧米を中心にしたものだった。だが近年ではその反省かた、地球全体に等しく目配りをしたり(ワールド・ヒストリー)、グローバルな視座(地域間のやりとりなど)に立脚したりと(グローバル・ヒストリー)、新しい世界史が実践されている。それに連動して試みられているのは、グローバルに哲学の歴史を編む世界哲学史だ。西洋中心の哲学を脱して、よりダイナミックに哲学を捉えようとしている。

 以上のような内容を踏まえて、今回は本題となる世界文学や世界文学史について考えていきたい。」

・主流は国別文学史

*「なぜ文学史は国別が主流なのだろうか。それにはいくつかの理由が考えられる。

 まず、文学史が整備されたのが十九世紀のヨーロッパだったこと。フランス革命やナポレオン戦争などを経て、国民国家が隆盛する時代において、自国や他国にどのような文学が存在していたのかを知りたいと人々が望むようになった。国家のアイデンティティに関わる重大な問題だったからだ。そこで国家ごとの文学史が整備されていくことになる。」

「右記に関連して、文学(特に近代の産物である小説)は国家の問題や事情を題材とすることが多い。そのため、国家の歴史と文学の歴史を完全に切り離して論じるのは難しいし、むしろ国家ごとに論じた方が歴史としての筋は見えやすいだろう。」

「最後に美術や音楽と比較すると際立つが、文学は言語を核としているため、言語ごとに整理したほうが適切だという点。これは国家と言語の区別が重なりやすいヨーロッパに研究が偏っているため、この手法が有効だったと思われる。」

「以上をまとめると、十九世紀ヨーロッパという国民国家時代に生まれたために、文学史は国家や言語単位での探求を方向づけられていたのである。」

・「世界文学」という言葉の誕生

*「国別の文学研究が整備される一方で、一国の文学に縛られない研究や受容を前提とした人物も存在していた。その始祖はドイツの作家ゲーテだ。彼こそが「世界文学」という言葉を定着させた立役者である。

***
  国民文学というのは、今日では、あまり大して意味がない。世界文学の時代がはじまっているのだ。だから、みんながこの時代を促進させるよう努力しなければだめさ。
***

十九世紀は国民国家の時代であると同時に、グローバル化の一途を確実に進み始めていた。ヨーロッパのみならずアジアの文学も翻訳されつつあり、より広範な地域の文学が読まれる時代の到来を与件しての言葉だ。実際、ゲーテ自身このとき中国の小説の翻訳を読んでいた。」

*「ゲーテによる世界文学への言及を見ていくと、ゲーテが国民文学も重視していたことが分かる。」

「「普遍的に人間的なもの」すなわち世界文学が描かれるが、その根幹には「個々の人間や個々の民俗の特殊性」がある。つまり、ゲーテは国民文学と世界文学を単純な二項対立に据えたり、国民文学を劣るものとしていたりするわけではないことがわかる。」

*「こうした個別性と普遍性の議論は、世界文学(史)を考える上で現代でも重要となる論点だが、その揺らぎは最初から胚胎されていたものだと言える。」

・普遍性を志向する世界文学史

*「ゲーテによる前者の言葉通り、世界文学は普遍性を目指すものという考えは根強い。代表的なものは、マルクスとエンゲルスによる次のものだろう。

 ***
  個々の国々の精神的な生産物は共有財産となる。民俗的一面性や偏狭は、ますます不可能になり、多数の民俗的および地方的文学かた、一つの世界文学が形成される。
 ***」

*「そうした普遍的な視座を持って編まれた文学史の始祖は、ニュージーランドの文学者ハッチソン・マコーレー・ポスネットによる『比較文学』(一八八六年)だ。この書では、ヨーロッパからインド、アラブの国々の文学を比較し、歴史として織り上げた。

 彼の議論の根底にはハーバート・スペンサーによる適者生存がある。(・・・)スペンサーの議論を踏まえて、ポスネットは社会全体と文学が現代に向かって進歩していると捉え、文学史を進化の歴史として編んだ。」

*「世界文学史の編纂は、歴史学と同じ轍を踏むことが多い。すなわち進歩史観である。ポスネットが時間的な進歩史観に立ったとすれば、地域的な進歩史観に立ったのは、一九五九年生まれのフランスの文芸評論家パスカル・カザノヴァである。彼女は文学による地域間の結びつきを「文学世界(または世界文芸共和国)」と表現し、次のように述べている。

 ***
  文学世界は、最も古い、つまり最も恵まれたものでもある、偉大な国民文学空間と、最近登場したばかりで恵まれない文学空間とのあいだの対立にそって組織されている、比較的統一された空間なのである。
 ***

 カザノヴァは、文学世界の広がりを「最も古い」地域、つまり十六世紀のフランスとイギリスに定める。そこを中心に世界文芸共和国が形成され、十八、九世紀を通じてヨーロッパ中に拡大し、二十世紀にはその範囲が世界全体にまで広がっていったというのが彼女の趣旨だ。」

*「世界文学史という大きな歴史を描くには何らかの視座が必要となるが、因果や影響関係によって説明しようとすればするほど、文学に重要な個別性は脇に押しやられることになってしまうのである。

 とはいえ、国家や地域という歴史学のバックボーンから外れると、世界文学史は途端に歴史としての弾力を失ってしまう。

 ならば、いっそのこと歴史として説明する前に、まずはニュートラルな世界文学のカタログを準備するのはどうだろうか。つまり、歴史学におけるワールド・ヒストリーのように、地域の偏りを極力排して、世界の文学を等しく眺めていく。歴史としてこだわるからこそ、文学と文学の間に影響関係や変化を見出す必要が出てきてしまう。文学の個別性を尊重するならば、列挙するだけでも文学史として成り立つのではないか。

 だが、ここで大きな問題が立ち塞がる。それはいったいどの文学を選べばいいかだ。」

・世界文学という議論

*「世界文学について大きな影響を持っているアメリカの文学者デイヴィッド・ダムロッシュは著書『世界文学とは何か?』で、世界文学の特徴を次のように述べた。

 ***
   一、世界文学とは、諸国民文学を楕円状に屈折させたものである。
   二、世界文学とは、翻訳を通して豊かになる作品である。
   三、世界文学とは、正典(カノン)のテクスト一式ではなく、一つの読みのモード、すなわち、自分がいまいる場所よ時間を越えた世界に、一定の距離をとりつつ対峙するという方法である。
 ***」

*「こうした世界文学観を踏まえて、ダムロッシュは「世界文学史へ向けて」という詳論で、世界文学史の構築についても述べている。

 ***
   長期的な文学史を作り出すことによって、グローバルな文学史は世界文学を国民文学と対立させるのではなく、地方化されると同時に越境(トランスローカル)され、ほとんど常に性格的に交じり合ってきた文学大系の協働創造の跡を辿ることで、文学を宇mだ文化間のより広く焚いて記的な関係を明らかにすることができるだろう。
 ***」

 先述の通り、ダムロッシュは世界文学と向きあう際にバランスを重視している。国民文学の固有性と世界文学の普遍性を往還しながら、その差異や特徴を炙り出す。それこそが世界文学(史)研究の役割だと述べている。」

・本連載の目指す世界文学史

*「ダムロッシュの目指す世界文学史についてはほぼ全面的に同意する。本連載が目指す世界文学史も固有の国民文学の総和を目指すわけでもないし、普遍的な世界文学のみを希求するわけでもなく、そのバランスを求める。」

*「だが、様々な文化圏に存在する文学を見ていく以上、敢然とその比較を拒絶し、その固有性を最大限に尊重することもまた世界文学史を編む上では重要ではないだろうか。」

*「世界文学にも通暁したスラブ文学者の沼野充義は、世界文学の実践として「文学史」と「文学事典」、「文学全集」を挙げている。

 文学史は「文学の歴史を(中略)時代の流れに沿って記述したもの」、文学事典は「(様々な文学が)時代に違いも、そして国の違いさえもいったん解除され、いわば同じ土俵のうえに、横並びにさせられる」もの、文学全集は「価値が一般的に認められ、「これだけは読んでおきたい」作品を一つの場所に集めたもの」である。」

*「この連載では、沼野の言う文学史に加えて、文学事典と文学全集の要素を取り入れたいと思っている。つまり、まずは影響関係や因果関係などを無視して、特定の時代の中で「重要と思われる」作品を機械的に紹介する。もちろんこの「重要」が曲者だが、さしあたってはそこは既存の文学史の教科書や研究を参照してその地域や言語にとって重要なもの、または世界文学として意義深いものとする。そしてその上で、各文学の影響関係や相互作用といった、狭い意味での文学史的な記述を目指す。

 つまり、世界文学史を紡ぐ上で、世界の名作やカタログや事典という網羅性を志向しつつ、その作家が後世に与えた影響。後世での受容、異なる時代や文化圏との比較など、歴史として記述できるところは歴史として記述する。」

**(ヘッセ『世界文学をどう読むか』
   〜「世界文学をどう読むか」)

*「真の教養はなんらかの目的のための教養ではない。それは、完全なものへのすべての努力と同様に、その意味をそれ自身のうちに持っている。肉体的な力や敏活さや美しさへの努力は、なんらかの、たとえばわれわれを金持ちに有名に強力にするというような究極目的を持たず、われわれの生活感情と自信とを高め、われわれを一そう楽しく幸福にし、安心と健康との一そう高い気持ちを与えるというふうに、その報いをそれ自信の中に持っていると同様に、「教養」への、則ち精神的な完成への努力も、なんたかの限られた目標への骨の折れる道ではなくて、われわれの意識を幸福にし強めつつ拡大することであり、われわれの生活と幸福との可能性を豊かにすることである。」

「そういう教養へ達する色々の道のうち、最も重要な道の一つは世界文学の研究である。」

*「世界文学に対する読者の生き生きとした関係にとって重要なのは、とりわけ、彼が自分自身を知り、従ってまた、自分に特に働きかける作品を知ることであって、何らかの規準、あるいは教養の綱領に従わないことである。彼は、義務の道ではなく、愛の道を歩まねばならない。」

*「何らかの学問的な理想を持たず、完全さを望もうともせずに、大体ただ私の全く個人的な生活と読書家としての経験に従って、ここに世界文学の理想上の小文庫を記述する試みをしよう。」

*「客観性と公正とを目ざして努力するのは美しいことであるけれど、そういう色々な理想の満たし難いことを忘れずにいよう。われわれの美しい世界文庫を読んで。学者や世界の審判者になり上がろうとは思わず、ただ最も入り易い門を通って精神の霊場へはいろう。めいめい、自分が理解し愛し得るもので始めよ!高い意味での読書を学ぶことは、新聞や手あたりしだいのありふれた文学にとってはできない。傑作によってのみできることである。」

「傑作がわれわれによって真価を証明される前に、先ずわれわれ自身が傑作によって自分に立派な能力のあることを証明しなければならない。」

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