如翺(ジョコウ)から寿(ジュ)さんへ 「余」と「白」についての前編・後編 (創元社note部)
☆mediopos3691(2024.12.27.)
煎茶の世界を伝える一茶庵の嫡承である
如翺(ジョコウ)先生(佃梓央)から
寿(ジュ)さんに宛てて書かれている
「「余」と「白」についての前編・後編」から
(創元社note部で連載)
如翺先生がケンブリッジ大学で
「「茶が抽出されるまでの『待ち時間』は、
いわば『余白』の時間で、この『余白』こそが、
思考と想像と創作と談義を広げるべき『間』なのです。」
と発表した際
「何か得体のしれない違和感」をもったため
「白」「余」という言葉を辞書で引いたところ
「余」は
お茶が入るまでの「間」としての「余白」としては
「達するまでのゆとり」であり
「白」は
「何も書き入れていないこと」
つまり「余白」とは
「ある程度に達するまでのゆとりで、使われず、
達するまで残っている、何も書き入れられていない部分のこと」
であり
「違和感」をもったのは
使われない部分である余白であるにもかかわらず
「「思考と想像と創作と談義を広げるべき『間』」としており、
「思考」「想像」「創作」「談義」として使われるための、
目的を持った時間、として」とらえていたからだとわかる
さらに京都での別の煎茶会で富岡鉄斎の画に関して
「日本画と文人画の違いですが、日本画というのは、
はじからはじまでビシッと描かれているのに対し、
文人画のほうは余白があります」という話があり
その「文人画の余白」について考えさせられてきたが
その後北京大学で行われた
「文人画をめぐる日中交流史」という研究会に参加した際
「余白」についての考え方を変えなければならなくなる
「日本人が思う「余白」と、
中国の文人たちが考えてきた「白の部分」には、
大きな大きな差がある」というのである
日本人にとってイメージされる「余白」は
「達するまでのゆとり」
「いわばそれだけでは未完成の、何も書かれていない部分」であり
「「賛」を他人が書き足すことに象徴されるように、
「参与性の余地」に満ちてい」るのだが
中国文人たちの絵画における「白い部分」は
「白い部分であっても、そこは「未完成」部分ではなく、
「空」を描写するための白い部分、とか、
「水」を描写するための白い部分、とかというように、
何かを描くための白」
それは長谷川等伯『松林図屏風』と
中国の山水画・盛茂燁「石湖暮色」との対比でも明らかであるように
「「描かない部分としての余白(日本的・クールな余白)と、
描かれたものとしての余白(中国的・ホットな余白)とは、
言葉としては同じ「余白」ですが、全く別物」である
「余白」の「余」という言葉は
「文人画の余白」と中国の山水画とでは
異なってとらえられている
「長谷川等伯の『松林図屛風』における「余白」は、
いわば「未完成の白の部分」で、
盛茂燁の山水図における「余白」は、
いわば「あふれ出たから、白として表すしかない部分」」なのだ
「未完成のクールな白」と「あふれ出したものとしてのホットな白」
同じ「余白」の「白」でもクールな白かホットな白かで
その捉え方はずいぶんと異なっている
その違いは日本語における
「間(ま・あいだ)」とも関係していると思われる
「間」については
最近ではmediopos3444(2024.4.22)でもとりあげているが
そこで考えてみたのは
「一」と「一」の水平的な関係ではなく
「二」である「真」である「垂直の深み」ということである
つまり日本における「余白」は
「垂直の深み」として表現されている・・・
■如翺(ジョコウ)から寿(ジュ)さんへ
「余」と「白」についての前編・後編
(創元社note部 2024年11月1日/2024年12月1日)
**(「「余」と「白」についての前編」より)
・ロンドンでの発表原稿と、自身の違和感
「余白」という言葉。
*「その響きは心地よく、シンプルで、透き通るような爽やかさ、クールさを感じさせてくれます。また、この言葉自体、はっきりとした定義づけを許さない曖昧さがあり、より神秘的な印象すら与えます。
外国語に訳しにくいであろうことが簡単に想像できるこの言葉。だからこそ使えば、「日本的だ」と言って喜んでもらえるに違いないこの言葉。
私は「少しずるいな」と自分自身でも思いながら、先日、ケンブリッジ大学でお話しさせていただいた折、寿さんに引用していただいたように、
「茶が抽出されるまでの『待ち時間』は、いわば『余白』の時間で、この『余白』こそが、思考と想像と創作と談義を広げるべき『間』なのです。」(一般社団法人文人会一茶庵Facebookページより)
と、「余白」という言葉に頼りました。
しかし、実は、この発表原稿を作成している段階から「この部分、これでいいのか、大丈夫か」と何度も自分に問い続けていました。何か得体のしれない違和感があったのです。
(とはいえ、違和感のまま、発表しましたが……。)
違和感の原因を少しでも探ることが出来ればと、あらためて辞書を引くことにしました。」
・わからなくなってきたから辞書を使って
まずは「余白」の「余」から。(用例文は省略)
*「あまり【余】
①必要な分を満たした残り。残余。余分。
②(上に行動や気持などを表す連体修飾句が付いて、「…あまりに」の形で)行動や気持などが普通の程度を越えていること。過度になった結果。
③割り算で、割り切れないで出た残り。
④ある程度に達するまでのゆとり。余地。使わない、または達しないで残っている部分。
⑤酢をいう忌み詞。
(小学館 『国語大辞典』 昭和五十七年 第一版第五刷による)
最後の⑤の意味について、私は全く知らず、面白かったのですが、それはさておき、お茶が入るまでの「間」としての「余白」の「余」は、④です。「達するまでのゆとり」です。」
*「次に「余白」の「白」。
しろ【白】
①色の名。雪、塩などの色。(略)
②白い碁石。白石。また、その石を打つ対局者。
③何も書き入れていないこと。空白。
④しろがね(銀)の略。
⑤私娼をいう。はくじん。
⑥背色の少し白っぽいうなぎをいう。うなぎ食いの通(つう)のことば。⑦ やきとりで豚の腸管を串ざしにしたもの。
⑧赤組に対する白組の称。
⑨犯罪容疑がないこと。また、晴れること。
⑩塩の異称。
⑪白書院(しろしょいん)の略。
(上述の辞書より引用)
全て書き写すと、以上のようになり、なぜ2番目に白い碁石としての意味が来るのか、そして⑤や⑥や⑦など、深堀りしたくなる意味もたくさん含んでいますが、その誘惑に負けず、今回、必要な「余白」の「白」は、③です。「何も書き入れていないこと」です。
つまり、「余白」とは、「ある程度に達するまでのゆとりで、使われず、達するまで残っている、何も書き入れられていない部分のこと」と組み合わせることができます。」
*「ちなみに、「余白」自体を辞書で引きますと、
よはく【余白】
文字などを書いてある紙面で、何も記されないで白いままで残っている部分。
(上述の辞書より引用)
とあります。比べると、「余白」という言葉の意味は、「余白」として辞書を引くよりも、「余」と「白」に分けて組み合わせた方が、より正確に意味を伝えてくれています。
「余白」を「ある程度に達するまでのゆとりで、使われず、達するまで残っている、何も書き入れられていない部分のこと」と捉えたとき、私が私自身の説明に覚えた、何か得体のしれない違和感の正体がわかってきました。
「余白」は使われない部分なのです。
ところが私のケンブリッジ大学でのお話では、「思考と想像と創作と談義を広げるべき『間』」としており、「思考」「想像」「創作」「談義」として使われるための、目的を持った時間、として語っています。
違和感の正体は、この矛盾だったのです。」
・クールな「余白」
*「茶が抽出されるまでの待ち時間は、思考と想像、創作や談義を行う時間であることに偽りはありません。しかしそこに「余白」という如何にも日本文化らしく、外国の方々を引き付けようとするパワーワードを差しはさもうとしたことで、余計に意味を曖昧にしてしまったと、反省するに至っています。
この反省を踏まえて、今、この部分を正すとすれば、「茶が抽出されるまでの待ち時間は、何もない時間で、その退屈さを弄もてあそばせて、何の目的もなく、ただ自分の漢籍や画の教養に身を任せて思考し、想像し、創作し、あるいは友人と談義をする時間」と、言った方が正確だったかもしれません。
ただ、私が「余白」という言葉に引っ張られてしまった原因もよくわかっています。
寿さんが、私のロンドンでの茶会期間中、参加された京都での別の煎茶会。富岡鉄斎の画に関して、
「日本画と文人画の違いですが、日本画というのは、はじからはじまでビシッと描かれているのに対し、文人画のほうは余白があります」
とご亭主がお話しなさったとのこと。
実はこの1年ほど、私は、個人的にずっと「文人画の余白」について考えさせられ、悩まされてきていたのです。
というのも、昨年秋、北京大学で行われた「文人画をめぐる日中交流史」という研究会に参加させていただく機会を得ました。その中で語られていた内容がどれも衝撃的で、今まで自分が勉強してきた文人画に対する考え方を大きく変えなければならないほどの刺激でした。中でも「余白」についての考え方は、私のこれまでの捉え方を、完全に変えることが求められました。
この1年、その衝撃に右往左往し、混乱し、再考せざるを得ない状況でした。
日本人が思う「余白」と、中国の文人たちが考えてきた「白の部分」には、大きな大きな差がある、と言うのです。
日本人が思う「余白」とは、先ほど申し上げたように、「達するまでのゆとり」で、いわばそれだけでは未完成の、何も書かれていない部分なのです。だからこそ、寿さんが書かれていたように、「賛」を他人が書き足すことに象徴されるように、「参与性の余地」に満ちていて、その意味でマクルーハンが述べているように「クール」と言えるでしょう。
しかし、中国文人たちの絵画における「白い部分」は、違います。「ホット」です。」
**(「「余」と「白」についての後編」より)
・長谷川等伯『松林図屏風』
*「昨秋、北京大学で「文人画をめぐる日中交流史」という研究会が行われました。その中で、中国の先生方と日本の先生方とが、さまざまな名作絵画について、自由に、お茶を飲みながら議論をする場がもうけられました。(この姿こそが煎茶会の原風景でした!)
長谷川等伯『松林図屏風』(国宝。東京国立博物館蔵)がテーマに取り上げられた時、ある中国の先生がこんなことをおっしゃいました。
#画像:長谷川等伯「松林図屏風」
「これは絵ではない。」「描けていない。」
これは私にとってあまりにも衝撃的なご発言でした。
学生時代から展覧会でこの作品に出くわすたびに、この幻想的な、曖昧あいまい模も糊ことした空間から意外と凛とした姿で立ちならぶ松の木々の姿に、静かさ、抒情性、しかし、強い力を感じ、心打たれてきた私にとっては、考えられないような一言だったのです。
その中国の先生はおっしゃいます。
「特に、白い部分に何が描かれているか説明がつかない。」
「まだ完成していない。」
その場では私は衝撃を受けるばかりでしたが、よくよく考えてみますと、このご発言は逆に、日本絵画における「余白」についてとても適確に指摘されています。
つまり、先述の通り、私たちにとっての「余白」とは「ある程度に達するまでのゆとりで、使われず、達するまで残っている、何も書き入れられていない部分のこと」なのです。まさしく、「未完成」部分のことなのです。
だからこそ寿さんのおっしゃるように、こちらから「参与」する余地があり、私たちは、絵に描かれた部分に誘発され、描かれていない部分はこちらから想像力で参与し、相撲の立ち合いのように、向こうとこちらの「イキ」があった時に、作品と感動が生まれるのです。」
・中国の山水画を例にとって
*「とは言え、中国絵画においても余白はあります。では、中国の先生方は、その余白をどう考えていらっしゃるのでしょうか。
中国の先生はおっしゃいます。
「白い部分すべてに説明がつく」と。
つまり、白い部分であっても、そこは「未完成」部分ではなく、「空」を描写するための白い部分、とか、「水」を描写するための白い部分、とかというように、何かを描くための白なのです。
例えば、中国・明時代末ごろに描かれた、盛せい茂も燁ようによる山水図(大英博物館蔵)をご覧ください。」
#画像:盛茂燁「石湖暮色」(大英博物館所蔵)
画面左下部分の「余白」は水。画面左側中央部分の「余白」は雲。画面上部の「余白」は空。全て、白い部分に「何が描かれているか」、説明がつくのです。」
あらためて長谷川等伯『松林図屏風』を見てみますと、特に、丸印で示した部分はただ「白」い部分だ、というのがお分かりいただけるのではないでしょうか。」
・ホットな「余白」
*「描かない部分としての余白(日本的・クールな余白)と、描かれたものとしての余白(中国的・ホットな余白)とは、言葉としては同じ「余白」ですが、全く別物です。
この違いはどこから来るものなのか、私なりに探ってみました。
私なりの結論としては、「余」という言葉の捉え方の違いではないかと考えています。
「余白」という言葉を、先述のように、私は辞書を引いて調べました。「余」と「白」とに分けて調べました。
「余」について調べるとき、私はさほど意識してはいませんでしたが、何となく「あまり」という欄を見ていました。内容は先に引用した通りですが、ここで申し上げたいのは、何の気なしに、私は、「あまり」という「名詞」として、この言葉を捉えようとしていたのです。
しかし、「あまる」という「動詞」として辞書を引いてもよかったのではないかと思い、あらためて「あまる」の欄を見てみました。
あまる【余る】
① 数量がある基準を越える。
② 才能、勢い、状態などが、ある範囲からあふれ出る。ある程度以上にはなはだしくなる。
③ 能力を越える。分に過ぎる。
④ ある基準を越えて余分が出る。
⑤ 割り算で割り切れないで残りが出る。
⑥ ある程度に達するまでのまでのゆとり。余地がある。使わない。到達しない部分があとに残る。
(小学館 『国語大辞典』 昭和五十七年 第一版第五刷による)
いかがでしょうか。⑥だけは、名詞「あまり」で引いたときの「未到達」の意味ですが、①から⑤までは全て、その真逆の意味、「越える」「あふれ出る」の意味なのです。
「余」という1つの文字が、正反対の意味を持つことにあらためて不思議さと面白さを感じずにはいられません。
長谷川等伯の『松林図屛風』における「余白」は、いわば「未完成の白の部分」で、盛茂燁の山水図における「余白」は、いわば「あふれ出たから、白として表すしかない部分」なのです。
中国の山水画は、単なる山の風景画ではなく、生命のエネルギーが、世界を生成していくときに立ちのぼる『気』そのものを捉えた表現で、時空間すべてを含む宇宙の姿であるとよく言われます。
中国山水画における余白とは、「気」の「あふれ出す」姿や、時空を「越える」雄大さがダイナミックに表れた、水であり、雲であり、空なのです。
未完成のクールな白と、あふれ出したものとしてのホットな白と。「余白」は「余白」でも、それぞれ、取り扱いに十分な注意がいるようです。
如翺 拝
寿 様」
《筆者プロフィール》
○如翺(ジョコウ) 先生
中の人:一茶庵嫡承 佃 梓央(つくだ・しおう)。
父である一茶庵宗家、佃一輝に師事。号、如翺。
江戸後期以来、文人趣味の煎茶の世界を伝える一茶庵の若き嫡承。
文人茶の伝統を継承しつつ、意欲的に新たなアートとしての文会を創造中。
関西大学非常勤講師、朝日カルチャーセンター講師。
○寿(ジュ)
中の人:佐藤 八寿子 (さとう・やすこ)。
万里の道をめざせども、足遅く腰痛く妄想多く迷走中。
寿は『荘子』「寿則多辱 いのちひさしければすなわちはじおおし」の寿。
単著『ミッションスクール』中公新書、共著『ひとびとの精神史1』岩波書店、共訳書『ナショナリズムとセクシュアリティ』ちくま学芸文庫、等。
《イラストレーター》
久保沙絵子(くぼ・さえこ)
大阪在住の画家・イラストレーター。
主に風景の線画を制作している。 制作においてモットーにしていることは、下描きしない事とフリーハンドで描く事。 日々の肩凝り改善のために、ぶら下がり健康器の購入を長年検討している。