レベッカ・ブラウン『体の贈り物』/辻山良雄「読み終わることのない日々27」(すばる2024年6月号)/
☆mediopos3460 2024.5.8
辻山良雄「読み終わることのない日々27」
(すばる2024年6月号)は
いまも記憶に残る懐かしく大切な一冊
レベッカ・ブラウン『体の贈り物』
原題は「The Gifts of the Body」
The Giftsは贈り物
連作で11の「贈り物」が語られる
語り手は
エイズ患者を世話するホームケア・ワーカー
彼女は日常生活が困難になってゆく患者と交流し
そこにかけがえのない十一の「贈り物」が残される
辻山氏のとりあげているのは「充足の贈り物」だが
そのほかにも「汗」「涙」「肌」「飢え」「動き」
「死」「言葉」「姿」「希望」「悼み」の「贈り物」がある
辻山氏は十数年前
癌が見つかった母のこと
そしてその〈痛み〉について語っている
「その人の痛みの、ほんとうのところはわからない。
痛みだけは、どうやっても肩代わりすることはできない。」
「母の感じていた痛み。それは最期まで彼女だけのもので、
人の唯一性や尊厳と関わりがあるのだろう。
誰かほかの人と人生を取り替えることができないのと同じで。」
そして
「たとえ辛くても唯一ある体こそが、
それに触れたものに対して、
ギフト(=贈り物)を与えることができる。」
という
ひとにはかけがえのない体があり
その体が感じることは
他者と共有することができない
ひとの見ている色も
ひとの感じている〈痛み〉も
それそのものは
そのひとだけのもの
ほかのひとと「取り替える」ことはできない
けれどそのことこそ
「人の唯一性や尊厳」でもある
おそらくこうして地上に体をもって生まれ
その体を他者と共有し得ないことにこそ
生まれてきた意味がある
体をつうじて得られる
喜びや苦しみや悲しみは
そのひとだけの「唯一性」であり「尊厳」で
それに深く触れることでこそ与えられる
そんな「贈り物」があることもまた
私たちがこうして生まれてきた意味だといえる
キリスト・イエスが「人の子」と呼ばれ
人間の「体」を持って生まれたこと
そしてそれが死の後に「復活」という姿で現象し
そのことによって与えられる「贈り物」が
わたしたちを潤してくれたりもする・・・
その意味でも
わたしたちの「唯一性や尊厳」である
「体」を否定的な苦しみの源であると
とらえてはならないだろう
身心は不二であり
身心はかけがえのない
唯一性と尊厳を持っているのだから
■辻山良雄「読み終わることのない日々27」(すばる2024年6月号)
■レベッカ・ブラウン(柴田元幸訳)『体の贈り物』(マガジンハウス 2001/2)
**(辻山良雄「読む終わることのない日々27」より)
*「 お湯が沸くと、彼女は立ち上がった。手がやかんをぎゅっとつかむのが見えた。血管が何本も浮き上がっている。持ち上げようとして、苦労していた。手伝いましょうか、と言いたかったが、まだ口を出すべきではないことはわかっていた。彼女は私をお客として扱いたがっているのだ。
(『体の贈り物』「充足の贈り物」レベッカ・ブラウン 柴田元幸訳)
その人の痛みの、ほんとうのところはわからない。痛みだけは、どうやっても肩代わりすることはできない。わたしがここで言っている〈痛み〉とは、即物的な、体が感じている痛みのことだ。
十数年前の春、母に癌が見つかり、わたしは定期的に神戸の実家まで帰っていた。
(・・・)
〈痛み〉が誰の目にも明らかなかたちで現れるのは、その局面が最終段階に入ってからだ。
(・・・)
痛い、痛い。
母は体をさすってもらいたがった。肌に触れると、骨のゴツゴツした感触が伝わってくる。彼女は終始体勢を変えて、その場でじたばたと動いていた————。
母の感じていた痛み。それは最期まで彼女だけのもので、人の唯一性や尊厳と関わりがあるのだろう。誰かほかの人と人生を取り替えることができないのと同じで。
本書の原題は「The Gifts of the Body」。たとえ辛くても唯一ある体こそが、それに触れたものに対して、ギフト(=贈り物)を与えることができる。」
**(レベッカ・ブラウン『体の贈り物』〜柴田元幸「訳者あとがき」より)
*「この本の内容をざっと要約してみると、たとえば「エイズ患者を世話するホームケア・ワーカーを語り手とし、彼女と患者たちとの交流をめぐる、生と死の、喜びと悲しみの、希望と絶望の物語」といった具合になるだろう。」
*「いま自分で書いた要約を読み返してみると、「善意はわかるけど、正直言って陳腐な物語」を想像してしまう。でもその想像は違っている。この本は、下手をすると底なしに陳腐になりかねない題材を扱っていながら、少しも陳腐になっていないと僕は思う。そしてそれは、本当に驚くべきことだと思う。作者は、エイズ、闘病、死といたtテーマにいつも簡単に付着してしまう余計な「物語」をいっさい排して、いわば現場の実感を、極力ストレートに伝えている。それは、単に自分の体験を(作者自身、何年かホームケア・ワーカーをしていた)そのまま綴ればいいというものではない。というか、こういう体験を「そのまま綴る」ほど難しいことはない。語るはしから、「物語」が付着してしまう。「物語」を排するためにこそ、作家としての技量が必要なのだ。」
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